戯作三昧(げさくざんまい)とは。芥川竜之介の小説。大正6年(1917)発表。戯作の執筆にふける曲亭馬琴 (きょくていばきん) を主人公として、作者自身の芸術至上主義の境地を示す歴史小説。江戸末期の市井の風俗の中で、芸術至上主義の境地を生きた馬琴に、自己の思想や問題を託した「戯作三昧」、仇討ちを果した赤穂浪士の心理に新しい照明をあてて話題を呼んだ「或日の大石内蔵之助」などの“江戸期もの”。
今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春私は実践倫理学の講義を依頼されて、その間かれこれ一週間ばかり、岐阜県下の大垣町へ滞在する事になった。元来地方有志なるものの難有迷惑な厚遇に辟易していた私は、私を請待してくれたある教育家の団体へ予め断りの手紙を出して、送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。すると幸私の変人だと云う風評は夙にこの地方にも伝えられていたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その団体の会長たる大垣町長の斡旋によって、万事がこの我儘な希望通り取計らわれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、町内の素封家N氏の別荘とかになっている閑静な住居を周旋された。
芥川竜之介の短編小説。大正8年(1919)、雑誌「新小説」に発表。ヨーロッパ中世の聖人伝「黄金伝説」に着想を得た作品とされる。キリスト教の聖人伝説集『レゲンダ・アウレア』(黄金伝説)に登場する聖人クリストフォロスの生涯を翻案した小説。キリシタン版の『天草本伊曾保物語』(1594年刊)で使用されている、戦国時代の京阪地方における話し言葉を引用した文体に特徴がある。芥川の小説におけるジャンル「切支丹物」の傑作とされる。
お蓮が本所の横網に囲われたのは、明治二十八年の初冬だった。妾宅は御蔵橋の川に臨んだ、極く手狭な平家だった。ただ庭先から川向うを見ると、今は両国停車場になっている御竹倉一帯の藪や林が、時雨勝な空を遮っていたから、比較的町中らしくない、閑静な眺めには乏しくなかった。が、それだけにまた旦那が来ない夜なぞは寂し過ぎる事も度々あった。「婆や、あれは何の声だろう?」「あれでございますか? あれは五位鷺でございますよ。」お蓮は眼の悪い傭い婆さんとランプの火を守りながら、気味悪そうにこんな会話を交換する事もないではなかった。
芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の小説。1927年(昭和2)3月『改造』に発表。スウィフト作『ガリバー旅行記』などの先例のある、社会風刺をもった寓意(ぐうい)小説をねらった作品である。ある精神病院の患者が話す、河童の国訪問の体験談の形をとっている。河童の国の「特別保護住民」となった主人公は、人間の社会とはまるで逆になっている河童の国で、胎児が自分で生まれるのを拒否したり、雌が雄を追いかけ回す河童の恋愛を見たり、珍しい体験をするが、結局は憂鬱(ゆううつ)になり人間の世界へ帰ってくる。しかし、人間の醜さにも耐えられず精神病院に入院している。社会批評や風刺よりも、作者自身が当面していた苦悩や問題がそのままの形で出ており、自殺を前にした作者の内面を理解するうえで貴重な作品である。
雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報を打ってくれ。」「そんなに悪いの?」洋一は思わず大きな声を出した。