女 - 芥川龍之介
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作者:芥川龍之介 阅读:1825 喜欢:2 语言:日语

雌蜘蛛めぐもは真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇こうしんばらの花の底に、じっと何か考えていた。

すると空に翅音はおとがして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。蜘蛛くも咄嗟とっさに眼を挙げた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだはちの翅音の名残なごりが、かすかな波動を残していた。

雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。蜂はその時もう花粉にまみれながら、しべの下にひそんでいる蜜へくちばしを落していた。

残酷な沈黙の数秒が過ぎた。

紅い庚申薔薇こうしんばらの花びらは、やがて蜜にった蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿をいた。と思うと蜘蛛は猛然と、蜂の首もとへおどりかかった。蜂は必死にはねを鳴らしながら、無二無三に敵をそうとした。花粉はその翅にあおられて、紛々と日の光に舞い上った。が、蜘蛛はどうしても、噛みついた口を離さなかった。

争闘は短かった。

蜂は間もなく翅がかなくなった。それから脚には痲痺まひが起った。最後に長いくちばし痙攣的けいれんてきに二三度くうを突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬ののち、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたままよこたわっていた。翅も脚もことごとく、においの高い花粉にまぶされながら、…………

雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、しずかに蜂の血をすすり始めた。

恥を知らない太陽の光は、再び薔薇に返って来た真昼の寂寞せきばくを切り開いて、この殺戮さつりくと掠奪とに勝ち誇っている蜘蛛の姿を照らした。灰色の繻子しゅす酷似こくじした腹、黒い南京玉ナンキンだまを想わせる眼、それかららいを病んだような、醜い節々ふしぶしかたまった脚、――蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。

こう云う残虐ざんぎゃくを極めた悲劇は、何度となくその後繰返された。が、紅い庚申薔薇の花は息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた。――

その内に雌蜘蛛はある真昼、ふと何か思いついたように、薔薇の葉と花との隙間すきまをくぐって、一つの枝の先へ這い上った。先には土いきれにしぼんだつぼみが、花びらを暑熱にねじられながら、かすかに甘いにおいを放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯すがれた莟をからんで、だんだん枝の先へまつわり出した。

しばらくののち、そこには絹を張ったような円錐形えんすいけいふくろが一つ、まばゆいほどもう白々しろじろと、真夏の日の光を照り返していた。

蜘蛛は巣が出来上ると、その華奢きゃしゃな嚢の底に、無数の卵を産み落した。それからまた嚢の口へ、厚い糸の敷物を編んで、自分はその上に座を占めながら、さらにもう一天井ひとてんじょうしゃのような幕を張り渡した。幕はまるで円頂閣ドオムのような、ただ一つの窓を残して、この獰猛どうもうな灰色の蜘蛛を真昼の青空から遮断しゃだんしてしまった。が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音はおとも忘れたように、たった一匹兀々こつこつと、物思いに沈んでいるばかりであった。

何週間かは経過した。

その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に眠っていた、新らしい生命が眼を覚ました。それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえってよこたわっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にかうごめき出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てているふくろの天井をみ切った。無数の仔蜘蛛こぐもは続々と、そこから広間へあふれて来た。と云うよりはむしろその敷物自身が、百十の微粒分子びりゅうぶんしになって、動き出したとも云うべきくらいであった。

仔蜘蛛はすぐに円頂閣ドオムの窓をくぐって、日の光と風との通っている、庚申薔薇こうしんばらの枝へなだれ出した。彼等のある一団は炎暑を重く支えている薔薇の葉の上にひしめき合った。またその一団は珍しそうに、幾重いくえにも蜜のにおいいだいた薔薇の花の中へまぐれこんだ。そうしてさらにまたある一団は、縦横に青空をいている薔薇の枝と枝との間へ、早くも眼には見えないほど、細い糸を張り始めた。もし彼等に声があったら、この白日の庚申薔薇は、こずえにかけたヴィオロンがおのずから風に歌うように、鳴りどよんだのに違いなかった。

しかしその円頂閣ドオムの窓の前には、影のごとくせた母蜘蛛が、寂しそうに独りうずくまっていた。のみならずそれはいつまで経っても、脚一つ動かす気色けしきさえなかった。まっ白な広間の寂寞せきばくしぼんだ薔薇のつぼみの匀と、――無数の仔蜘蛛を生んだ雌蜘蛛はそう云う産所さんじょと墓とを兼ねた、しゃのような幕の天井の下に、天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。――あの蜂を噛み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。

(大正九年四月)