神神の微笑 - 芥川龍之介
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神神の微笑

( 神的微笑 )
作者:芥川龍之介 阅读:1569 喜欢:0 语言:日语

ある春のゆうべ、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣ほうえ)のすそを引きながら、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。

庭には松やひのきあいだに、薔薇ばらだの、橄欖かんらんだの、月桂げっけいだの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々をかすかにする夕明ゆうあかりの中に、薄甘いにおいを漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本にほんとは思われない、不可思議な魅力みりょくを添えるようだった。

オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径こみちを歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬ロオマ大本山だいほんざん、リスポアの港、羅面琴ラベイカ巴旦杏はたんきょうの味、「御主おんあるじ、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛こうもう沙門しゃもんの心へ、懐郷かいきょうの悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須デウス(神)の御名みなを唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。

「この国の風景は美しい――。」

オルガンティノは反省した。

「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面こうめん小人こびとよりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院がそびえている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアのまちへ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那しなでも、沙室シャムでも、印度インドでも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」

オルガンティノは吐息といきをした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげのこけに落ちた、仄白ほのじろい桜の花をとらえた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立こだちのあいだを見つめた。そこには四五本の棕櫚しゅろの中に、枝を垂らした糸桜いとざくらが一本、夢のように花を煙らせていた。

御主おんあるじ守らせ給え!」

オルガンティノは一瞬間、降魔ごうまの十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜しだれざくらが、それほど無気味ぶきみに見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故なぜか彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那せつなのち、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

×          ×          ×

三十分ののち、彼は南蛮寺なんばんじ内陣ないじんに、泥烏須デウスへ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井まるてんじょうから吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸しがいを争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、たけり立った悪魔さえも、今夜はおぼろげな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々みずみずしい薔薇ばら金雀花えにしだが、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇のうしろに、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。

南無なむ大慈大悲の泥烏須如来デウスにょらい! わたくしはリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀にっても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩もひるまずに進んで参りました。これは勿論私一人の、くする所ではございません。皆天地の御主おんあるじ、あなたの御恵おんめぐみでございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらいかたいかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力がひそんで居ります。そうしてそれが冥々めいめいうちに、私の使命をさまたげて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来デウスにょらい! 邪宗じゃしゅう惑溺わくできした日本人は波羅葦増はらいそ天界てんがい)の荘厳しょうごんを拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶はんもんに煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部しもべ、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」

その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。

わたくしは使命を果すためには、この国の山川やまかわに潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海こうかいの底に、埃及エジプト軍勢ぐんぜいを御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及エジプトの軍勢に劣りますまい。どうかいにしえの予言者のように、私もこの霊との戦に、………」

祈祷の言葉はいつのまにか、彼のくちびるから消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴けいめいが聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後まうしろには、白々しろじろと尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたようにときをつくっているではないか?

オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇そうこうとこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足ふたあしみあし踏み出したと思うと、「御主おんあるじ」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣ないじんの中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠とさかの海にしているのだった。

「御主、守らせ給え!」

彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力まんりきか何かにはさまれたように、一寸いっすんとは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣ないじんの中には、榾火ほたびあかりに似た赤光しゃっこうが、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノはあえぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧もうろうとあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。

人影は見るあざやかになった。それはいずれも見慣れない、素朴そぼくな男女の一群ひとむれだった。彼等は皆くびのまわりに、にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽もときをつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルのいた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――

日本の Bacchanalia は、呆気あっけにとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼しんきろうのように漂って来た。彼は赤いかがり火影ほかげに、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌みかわしながら、車座くるまざをつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きなおけを伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまたたくましい男が一人、根こぎにしたらしいさかきの枝に、玉だの鏡だのがさがったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根おばね鶏冠とさかをすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋いわやの戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。

桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いたつるは、ひらひらと空にひるがえった。彼女の頸に垂れた玉は、何度もあられのように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもそのあらわにした胸! 赤い篝火かがりびの光の中に、艶々つやつやうかび出た二つの乳房ちぶさは、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須デウスを念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘なのろいの力か、身動きさえ楽には出来なかった。

その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気しょうきに返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。

わたしがここにこもっていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」

その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。

「それはあなたにも立ちまさった、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」

その新しい神と云うのは、泥烏須デウスを指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとのあいだ、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。

沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏のむれが、一斉いっせいときをつくったと思うと、向うに夜霧をき止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、おもむろに左右へひらき出した。そうしてそのけ目からは、言句ごんくに絶した万道ばんどう霞光かこうが、洪水のようにみなぎり出した。

オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈めまいが起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢おおぜいの男女の歓喜する声が、澎湃ほうはいと天にのぼるのを聞いた。

大日孁貴おおひるめむち! 大日孁貴! 大日孁貴!」

「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」

「あなたにさからうものは亡びます。」

「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」

「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」

「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」

「大日孁貴! 大日孁貴! 大日孁貴!」

そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………

その三更さんこうに近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音ひとおとも聞えない内陣ないじんには、円天井まるてんじょうのランプの光が、さっきの通り朦朧もうろう壁画へきがを照らしているばかりだった。オルガンティノはうめき呻き、そろそろ祭壇のうしろを離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須デウスでない事だけは確かだった。

「この国の霊と戦うのは、……」

オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独りごとを洩らした。

「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」

するとその時彼の耳に、こう云うささやきを送るものがあった。

「負けですよ!」

オルガンティノは気味悪そうに、声のした方をかして見た。が、そこには不相変あいかわらず仄暗ほのぐらい薔薇や金雀花えにしだのほかに、人影らしいものも見えなかった。

×          ×          ×

オルガンティノは翌日のゆうべも、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。しかし彼の碧眼へきがんには、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日いちにちの内に、日本の侍が三四人、奉教人ほうきょうにんの列にはいったからだった。

庭の橄欖かんらん月桂げっけいは、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙がみだされるのは、寺のはとが軒へ帰るらしい、中空なかぞら羽音はおとよりほかはなかった。薔薇のにおい、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子おみなごの美しきを見て、」妻を求めにくだって来た、古代の日の暮のように平和だった。

「やはり十字架の御威光の前には、けがらわしい日本の霊の力も、勝利をめる事はむずかしいと見える。しかし昨夜ゆうべ見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人しょうにんにも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主てんしゅ御寺みてらが建てられるであろう。」

オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径こみちを歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、みちを挟んだ篠懸すずかけの若葉に、うっすりとただよっているだけだった。

御主おんあるじ。守らせ給え!」

彼はこうつぶやいてから、おもむろにかしらをもとへ返した。と、彼のかたわらには、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、くびに玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、おもむろに歩みを運んでいた。

「誰だ、お前は?」

不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。

わたしは、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」

老人は微笑びしょうを浮べながら、親切そうに返事をした。

「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくのあいだ、御話しするために出て来たのです。」

オルガンティノは十字を切った。が、老人はそのしるしに、少しも恐怖を示さなかった。

「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄じごくほのおに焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文じゅもんなぞを唱えるのはおやめなさい。」

オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。

「あなたは天主教てんしゅきょうひろめに来ていますね、――」

老人は静かに話し出した。

「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須デウスもこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」

泥烏須デウスは全能の御主おんあるじだから、泥烏須に、――」

オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀ていねいな口調を使い出した。

泥烏須デウスに勝つものはない筈です。」

「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須デウスばかりではありません。孔子こうし孟子もうし荘子そうし、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、の国の絹だのしんの国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙れいみょうな文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字もじを御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、かきもと人麻呂ひとまろと云う詩人があります。その男の作った七夕たなばたの歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女けんぎゅうしょくじょはあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士はくまでも彦星ひこぼし棚機津女たなばたつめとです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清いあまがわ瀬音せおとでした。支那の黄河こうが揚子江ようすこうに似た、銀河ぎんがの浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。しゅうと云う文字がはいったのちも、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海くうかい道風どうふう佐理さり行成こうぜい――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟ぼくせきです。しかし彼等の筆先ふでさきからは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之おうぎしでもなければ褚遂良ちょすいりょうでもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹いぶきは潮風しおかぜのように、老儒ろうじゅの道さえもやわらげました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子もうしの著書は、我々の怒にれ易いために、それを積んだ船があれば、必ずくつがえると信じています。科戸しなとの神はまだ一度も、そんな悪戯いたずらはしていません。が、そう云う信仰のうちにも、この国に住んでいる我々の力は、おぼろげながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」

オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史にうとい彼には、折角せっかくの相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。

「支那の哲人たちののちに来たのは、印度インドの王子悉達多したあるたです。――」

老人は言葉を続けながら、みちばたの薔薇ばらの花をむしると、嬉しそうにその匂をいだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。

仏陀ぶっだの運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡ほんじすいじゃくの教の事です。あの教はこの国の土人に、大日孁貴おおひるめむち大日如来だいにちにょらいと同じものだと思わせました。これは大日孁貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、大日孁貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿のうちには、印度ぶつ面影おもかげよりも、大日孁貴がうかがわれはしないでしょうか? わたし親鸞しんらん日蓮にちれんと一しょに、沙羅双樹さらそうじゅの花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰ずいきかつごうしたほとけは、円光のある黒人こくじんではありません。優しい威厳いげんに充ち満ちた上宮太子じょうぐうたいしなどの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須デウスのようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」

「まあ、御待ちなさい。御前おまえさんはそう云われるが、――」

オルガンティノは口をはさんだ。

「今日などは侍が二三人、一度に御教おんおしえ帰依きえしましたよ。」

「それは何人なんにんでも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多したあるたの教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。

「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘ギリシャの神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」

「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」

オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。

「お前さんはパンを知っているのですか?」

「何、西国さいこくの大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字よこもじの本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘ギリシャの神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」

「しかし泥烏須デウスは勝つ筈です。」

オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。

わたしはつい四五日まえ西国さいこく海辺うみべに上陸した、希臘ギリシャの船乗りにいました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人をいのこにする女神めがみの話だの、声の美しい人魚にんぎょの話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私にった時から、この国の土人に変りました。今では百合若ゆりわかと名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須デウスも必ず勝つとは云われません。天主教てんしゅきょうはいくらひろまっても、必ず勝つとは云われません。」

老人はだんだん小声になった。

「事によると泥烏須デウス自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇ばらの花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明ゆうあかりにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」

その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。

×          ×          ×

南蛮寺なんばんじのパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトのすそを引いた、鼻の高い紅毛人こうもうじんは、黄昏たそがれの光のただよった、架空かくう月桂げっけいや薔薇の中から、一双の屏風びょうぶへ帰って行った。南蛮船なんばんせん入津にゅうしんの図をいた、三世紀以前の古屏風へ。

さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺うみべを歩きながら、金泥きんでいの霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須デウスが勝つか、大日孁貴おおひるめむちが勝つか――それはまだ現在でも、容易ようい断定だんていは出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬をいた甲比丹カピタンや、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船くろふね石火矢いしびやの音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連バテレン

(大正十年十二月)