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雪曇りの空が、いつの間にか、みぞれまじりの雨をふらせて、狭い往来を文字通り、はぎを没する泥濘でいねいに満そうとしている、ある寒い日の午後の事であった。李小二りしょうじは丁度、商売から帰る所で、例の通り、鼠を入れたふくろを肩にかけながら、傘を忘れた悲しさに、ずぶぬれになって、まちはずれの、人通りのない路を歩いて来る――と、路傍みちばたに、小さなびょうが見えた。折から、降りが、前よりもひどくなって、肩をすぼめて歩いていると、鼻の先からは、しずくが垂れる。襟からは、水がはいる。途方に暮れていた際だから、李は、廟を見ると、慌てて、その軒下へかけこんだ。まず、顔の滴をはらう。それから、袖をしぼる。やっと、人心地がついた所で頭の上の扁額へんがくを見ると、それには、山神廟さんじんびょうと云う三字があった。

入口の石段を、二三級のぼると、扉が開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭い。正面には、一尊いっそんの金甲山神が、蜘蛛くもの巣にとざされながら、ぼんやり日の暮を待っている。その右には、判官はんがんが一体、これは、誰に悪戯いたずらをされたのだか、首がない。左には、小鬼が一体、緑面朱髪で、狰獰そうどうな顔をしているが、これも生憎あいにく、鼻がけている。その前の、埃のつもった床に、積重ねてあるのは、紙銭しせんであろう。これは、うす暗い中に、金紙や銀紙が、覚束おぼつかなく光っているので、知れたのである。

道士は、無口な方だと見えて、捗々はかばかしくは返事もしない。「成程な」とか「さようさ」とか云う度に、歯のない口が、空気を噛むような、運動をする。根の所で、きたない黄いろになっている髯も、それにつれて上下うえしたへ動く、――それが如何にも、見すぼらしい。

道士は、曲った腰を、苦しそうに、伸ばして、かき集めた紙銭を両手で床からすくい上げた。それから、それをてのひらでもみ合せながら、せわしく足下へ撒きちらし始めた。鏘々然そうそうぜんとして、床に落ちる黄白こうはくの音が、にわかに、廟外の寒雨かんうの声を圧して、起った。――撒かれた紙銭は、手を離れると共に、たちまち、無数の金銭や銀銭に、変ったのである。………

李は五感を失った人のように、茫然として、廟の中へ這いこんだ。両手を鼠の糞とほこりとの多い床の上について、平伏するような形をしながら、首だけ上げて、下から道士の顔を眺めているのである。

李は、話の腰を折られたまま、呆然ぼうぜんとして、ただ、道士の顔を見つめていた。(こいつは、気違いだ。)――やっとこう云う反省が起って来たのは、暫くの間瞪目とうもくして、黙っていた後の事である。が、その反省は、すぐにまた老道士の次の話によって、打壊された。「千鎰せんいつや二千鎰でよろしければ、今でもさし上げよう。実は、私は、ただの人間ではない。」老人は、それから、手短に、自分の経歴を話した。元は、何とか云うまち屠者としゃだったが、偶々たまたま呂祖ろそに遇って、道を学んだと云うのである。それがすむと、道士は、しずかに立って、廟の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床の上の紙銭をかき集めた。

李は、これだけ、見定めた所で、視線を、廟の中から外へ、転じようとした。すると丁度その途端に、紙銭の積んである中から、人間が一人出て来た。実際は、前からそこにうずくまっていたのが、その時、始めて、うす暗いのに慣れた李の眼に、見えて来たのであろう。が、彼には、まるで、それが、紙銭の中から、忽然として、姿を現したように思われた。そこで、彼は、いささか、ぎょっとしながら、恐る恐る、見るような、見ないような顔をして、そっとその人間をうかがって見た。

李は、この老道士に比べれば、あらゆる点で、自分の方が、生活上の優者だと考えた。そう云う自覚が、愉快でない事は、勿論ない。が、李は、それと同時に、優者であると云う事が、何となくこの老人に対して済まないような心もちがした。彼は、談柄だんぺいを、生活難に落して、自分の暮しの苦しさを、わざわざ誇張して、話したのは、まったく、この済まないような心もちに、わずらわされた結果である。

李は、この老人を見た時に、何とかことばをかけなければ、ならないような気がした。一つには、濡鼠ぬれねずみになった老人の姿が、幾分の同情を動かしたからで、また一つには、世故せこがこう云う場合に、こっちから口を切る習慣を、いつかつけてしまったからである。あるいは、また、そのほかに、始めの無気味な心もちを忘れようとする努力が、少しは加わっていたかも知れない。そこで李が云った。

李は撫然ぶぜんとして、こんな事さえ云った。が、道士の無口な事は、前と一向、変りがない。それが、李の神経には、前よりも一層、甚しくなったように思われた。(先生、おれの云った事を、妙にひがんで取ったのだろう。余計な事は云わずに、黙っていればよかった。)――李は、心の中でこう自分を叱った。そうして、そっと横目を使って、老人の容子ようすを見た。道士は、顔を李と反対の方に向けて、雨にたたかれている廟外の枯柳こりゅうをながめながら、片手で、しきりに髪を掻いている。顔は見えないが、どうやら李の心もちを見透かして、相手にならずにいるらしい。そう思うと、多少不快な気がしたが、自分の同情の徹しないと云う不満の方が、それよりも大きいので、今度は話題を、今年の秋の蝗災こうさいへ持って行った。この地方の蒙った惨害の話から農家一般の困窮で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。

垢じみた道服どうふくを着て、鳥が巣をくいそうな頭をした、見苦しい老人である。(ははあ、乞丐こじきをして歩く道士だな――李はこう思った。)瘠せた膝を、両腕で抱くようにして、その膝の上へ、ひげの長いあごをのせている。眼は開いているが、どこを見ているのかわからない。やはり、この雨に遇ったと云う事は、道服の肩がぐっしょり濡れているので、知れた。

すると、その話の途中で、老道士は、李の方へ、顔をむけた。皺の重なり合った中に、可笑おかしさをこらえているような、筋肉の緊張がある。

こんな具合で、二人の間には、少しずつ、会話が、交換されるようになった。その中に、老人も紙銭の中から出て来て、李と一しょに、入口の石段の上に腰を下したから、今では顔貌かおかたちも、はっきり見える。形容の枯槁ここうしている事は、さっき見た時の比ではない。李はそれでも、いい話相手を見つけたつもりで、ふくろはこを石段の上に置いたまま、対等なことばづかいで、いろいろな話をした。

「鼠を使って、芝居をさせるのです。」

「私のような商売をしている人間には、雨位、人泣かせのものはありません。」

「まったく、それは泣きたくなるくらいなものですよ。食わずに、一日すごした事だって、度々あります。この間も、しみじみこう思いました。『おれは鼠に芝居をさせて、めしを食っていると思っている。が、事によるとほんとうは、鼠が己にこんな商売をさせて、食っているのかも知れない。』実際、そんなものですよ。」

「ははあ、何御商売かな。」

「どうも、困ったお天気ですな。」

「それはまたお珍しい。」

「さようさ。」老人は、膝の上から、頤を離して、始めて、李の方を見た。鳥のくちばしのように曲った、鍵鼻かぎばなを、二三度大仰にうごめかしながら、眉の間を狭くして、見たのである。

「あなたは私に同情して下さるらしいが、」こう云って、老人はこらえきれなくなったように、声をあげて笑った。烏が鳴くような、鋭い、しわがれた声で笑ったのである。「私は、金には不自由をしない人間でね、お望みなら、あなたのお暮し位はお助け申しても、よろしい。」

李小二は、この雨銭うせんの中に、いつまでも、床に這ったまま、ぼんやり老道士の顔を見上げていた。

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