八
寄席へ行った翌朝だった。お蓮は房楊枝を啣えながら、顔を洗いに縁側へ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥に湯を汲んだのが、鉢前の前に置いてあった。
冬枯の庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜の夢を思い出した。
それは彼女がたった一人、暗い藪だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿りながら、「とうとう私の念力が届いた。東京はもう見渡す限り、人気のない森に変っている。きっと今に金さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負って見ても、何故か一向走れなかった。…………
お蓮は顔を洗ってしまうと、手水を使うために肌を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触れた。
「しっ!」
彼女は格別驚きもせず、艶いた眼を後へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻に黒い鼻を舐め廻していた。