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疑惑

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申すまでもなく私は、妻の最期を悲しみました。そればかりか、時としては、校長始め同僚から、親切な同情の言葉を受けて、人前も恥じず涙さえ流した事がございました。が、私があの地震の中で、妻を殺したと云う事だけは、妙に口へ出して云う事が出来なかったのでございます。

きながら火に焼かれるよりはと思って、私が手にかけて殺して来ました。」――これだけの事を口外したからと云って、何も私が監獄へ送られる次第でもございますまい。いや、むしろそのために世間は一層私に同情してくれたのに相違ございません。それがどう云うものか、云おうとするとたちまち喉元のどもとにこびりついて、一言ひとことも舌が動かなくなってしまうのでございます。

当時の私はその原因が、全く私の臆病に根ざしているのだと思いました。が、実は単に臆病と云うよりも、もっと深い所に潜んでいる原因があったのでございます。しかしその原因は、私に再婚の話が起って、いよいよもう一度新生涯へはいろうと云う間際までは、私自身にもわかりませんでした。そうしてそれがわかった時、私はもう二度と人並の生活を送る資格のない、憐むべき精神上の敗残者になるよりほかはなかったのでございます。

再婚の話を私に持ち出したのは、小夜さよ親許おやもとになっていた校長で、これが純粋に私のためを計った結果だと申す事は私にもよく呑み込めました。また実際その頃はもうあの大地震おおじしんがあってから、かれこれ一年あまり経った時分で、校長がこの問題を切り出した以前にも、内々同じような相談を持ちかけて私の口裏くちうらを引いて見るものが一度ならずあったのでございます。所が校長の話を聞いて見ますと、意外な事にはその縁談の相手と云うのが、唯今先生のいらっしゃる、このN家の二番娘で、当時私が学校以外にも、時々出稽古でげいこの面倒を見てやった尋常四年生の長男の姉だったろうではございませんか。勿論私は一応辞退しました。第一教員の私と資産家のN家とでは格段に身分も違いますし、家庭教師と云う関係上、結婚までには何かいわくがあったろうなどと、痛くない腹をさぐられるのも面白くないと思ったからでございます。同時にまた私の進まなかった理由のうしろには、去る者は日にうとしで、以前ほど悲しい記憶はなかったまでも、私自身打ち殺した小夜さよの面影が、箒星ほうきぼしの尾のようにぼんやりまつわっていたのに相違ございません。

ところがいよいよその運びをつけると云う段になりますと、折角の私の決心は未練にもまた鈍り出しました。何しろ近々結婚式を挙げようと云う間際になって、突然破談にしたいと申すのでございますから、あの大地震の時に私が妻を殺害せつがいした顛末てんまつは元より、これまでの私の苦しい心中も一切打ち明けなければなりますまい。それが小心な私には、いざと云う場合に立ち至ると、いかにみずから鞭撻しても、断行する勇気が出なかったのでございます。私は何度となく腑甲斐ふがいない私自身を責めました。が、いたずらに責めるばかりで、何一つ然るべき処置も取らない内に、残暑はまた朝寒あささむに移り変って、とうとう所謂いわゆる華燭かしょくの典を挙げる日も、目前に迫ったではございませんか。

それ以来、私は、前よりもさらに幽鬱な人間になってしまいました。今まで私をおびやかしたのはただ何とも知れない不安な心もちでございましたが、その後はある疑惑ぎわくが私の頭の中にわだかまって、日夜を問わず私を責めさいなむのでございます。と申しますのは、あの大地震おおじしんの時私が妻を殺したのは、果してむを得なかったのだろうか。――もう一層露骨に申しますと、私は妻を殺したのは、始から殺したい心があって殺したのではなかったろうか。大地震はただ私のために機会を与えたのではなかったろうか、――こう云う疑惑でございました。私は勿論この疑惑の前に、何度思い切って「いな、否。」と答えた事だかわかりません。が、本屋の店先で私の耳に「それだ。それだ。」と囁いた何物かは、その度にまた嘲笑あざわらって、「では何故なぜお前は妻を殺した事を口外する事が出来なかったのだ。」と、問いつめるのでございます。私はその事実に思い当ると、必ずぎくりと致しました。ああ、何故私は妻を殺したなら殺したと云い放てなかったのでございましょう。何故今日きょうまでひた隠しに、それほどの恐しい経験を隠して居ったのでございましょう。

それがざっと二月ふたつきばかり続いてからの事でございましたろう。ちょうど暑中休暇になった当座で、ある夕方私が散歩かたがた、本願寺別院ほんがんじべついんの裏手にある本屋の店先を覗いて見ますと、その頃評判の高かった風俗画報と申す雑誌が五六冊、夜窓鬼談やそうきだん月耕漫画げっこうまんがなどと一しょに、石版刷の表紙を並べて居りました。そこで店先にたたずみながら、何気なくその風俗画報を一冊手にとって見ますと、表紙に家が倒れたり火事が始ったりしている画があって、そこへ二行に「明治廿四年十一月三十日発行、十月廿八日震災記聞」と大きく刷ってあるのでございます。それを見た時、私は急に胸がはずみ出しました。私の耳もとでは誰かが嬉しそうに嘲笑あざわらいながら、「それだ。それだ。」と囁くような心もちさえ致します。私はまだ火をともさない店先の薄明りで、あわただしく表紙をはぐって見ました。するとまっ先に一家の老若ろうにゃくが、落ちて来たはりに打ちひしがれて惨死ざんしを遂げる画が出て居ります。それから土地が二つに裂けて、足を過った女子供を呑んでいる画が出て居ります。それから――一々数え立てるまでもございませんが、その時その風俗画報は、二年以前の大地震おおじしんの光景を再び私の眼の前へ展開してくれたのでございます。長良川ながらがわ鉄橋陥落の図、尾張おわり紡績会社破壊の図、第三師団兵士屍体発掘したいはっくつの図、愛知病院負傷者救護の図――そう云う凄惨な画は次から次と、あの呪わしい当時の記憶の中へ私を引きこんで参りました。私は眼がうるみました。体も震え始めました。苦痛とも歓喜ともつかない感情は、用捨ようしゃなく私の精神を蕩漾とうようさせてしまいます。そうして最後の一枚の画が私の眼の前に開かれた時――私は今でもその時の驚愕がありあり心に残って居ります。それは落ちて来たはりに腰を打たれて、一人の女が無惨むざんにも悶え苦しんでいる画でございました。その梁のよこたわった向うには、黒煙くろけむりが濛々と巻き上って、しゅはじいた火の粉さえ乱れ飛んでいるではございませんか。これが私の妻でなくて誰でしょう。妻の最期でなくて何でしょう。私は危く風俗画報を手から落そうと致しました。危く声を挙げて叫ぼうと致しました。しかもその途端に一層私をおびえさせたのは、突然あたりが赤々とあかるくなって、火事を想わせるような煙のにおいがぷんと鼻を打った事でございます。私は強いて心を押し鎮めながら、風俗画報を下へ置いて、きょろきょろ店先を見廻しました。店先ではちょうど小僧がつりランプへ火をとぼして、夕暗の流れている往来へ、まだ煙の立つ燐寸殻マッチがらを捨てている所だったのでございます。

するとその話がきまった頃から、妙に私は気がうつして、自分ながら不思議に思うほど、何をするにも昔のような元気がなくなってしまいました。たとえば学校へ参りましても、教員室の机にかかりながら、ぼんやり何かに思い耽って、授業の開始を知らせる板木ばんぎの音さえ、聞き落してしまうような事が度々あるのでございます。その癖何が気になるのかと申しますと、それは私にもはっきりとは見極めをつける事が出来ません。ただ、頭の中の歯車がどこかしっくり合わないような――しかもそのしっくり合わない向うには、私の自覚を超越した秘密がわだかまっているような、気味の悪い心もちがするのでございます。

しかもその際私の記憶へあざやかに生き返って来たものは、当時の私が妻の小夜さよを内心憎んでいたと云う、いまわしい事実でございます。これは恥を御話しなければ、ちと御会得ごえとくが参らないかも存じませんが、妻は不幸にも肉体的に欠陥のある女でございました。(以下八十二行省略)………そこで私はその時までは、覚束おぼつかないながら私の道徳感情がともかくも勝利を博したものと信じて居ったのでございます。が、あの大地震のような凶変きょうへんが起って、一切の社会的束縛が地上から姿を隠した時、どうしてそれと共に私の道徳感情も亀裂きれつを生じなかったと申せましょう。どうして私の利己心も火の手を揚げなかったと申せましょう。私はここに立ち至ってやはり妻を殺したのは、殺すために殺したのではなかったろうかと云う、疑惑を認めずには居られませんでした。私がいよいよ幽鬱になったのは、むしろ自然のすうとでも申すべきものだったのでございます。

しかしまだ私には、「あの場合妻を殺さなかったにしても、妻は必ず火事のために焼け死んだのに相違ない。そうすれば何も妻を殺したのが、特に自分の罪悪だとは云われない筈だ。」と云う一条の血路がございました。所がある日、もう季節が真夏から残暑へ振り変って、学校が始まって居た頃でございますが、私ども教員が一同教員室の卓子テエブルを囲んで、番茶を飲みながら、他曖たわいもない雑談を交して居りますと、どう云う時の拍子だったか、話題がまたあの二年以前の大地震に落ちた事がございます。私はその時も独り口をつぐんだぎりで、同僚どうりょうの話を聞くともなく聞き流して居りましたが、本願寺の別院の屋根が落ちた話、船町ふなまちの堤防が崩れた話、俵町たわらまちの往来の土が裂けた話――とそれからそれへ話がはずみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町なかまちとかの備後屋びんごやと云う酒屋の女房は、一旦はりの下敷になって、身動きもろくに出来なかったのが、その内に火事が始って、梁もさいわい焼け折れたものだから、やっと命だけは拾ったと、こう云うのでございます。私はそれを聞いた時に、にわかに目の前が暗くなって、そのまましばらくは呼吸さえも止るような心地が致しました。また実際その間は、失心したも同様な姿だったのでございましょう。ようやく我に返って見ますと、同僚は急に私の顔色が変って、椅子ごと倒れそうになったのに驚きながら、皆私のまわりへ集って、水を飲ませるやら薬をくれるやら、大騒ぎを致して居りました。が、私はその同僚に礼を云う余裕もないほど、頭の中はあの恐しい疑惑のかたまりで一ぱいになっていたのでございます。私はやはり妻を殺すために殺したのではなかったろうか。たといはりされていても、万一命が助かるのを恐れて、打ち殺したのではなかったろうか。もしあのまま殺さないで置いたなら今の備後屋びんごやの女房の話のように、私の妻もどんな機会で九死きゅうし一生いっしょうを得たかも知れない。それを私は情無なさけなく、瓦の一撃で殺してしまった――そう思った時の私の苦しさは、ひとえに先生の御推察を仰ぐほかはございません。私はその苦しみの中で、せめてはN家との縁談を断ってでも、幾分一身をきよくしようと決心したのでございます。

が、校長は十分私の心もちを汲んでくれた上で、私くらいの年輩の者が今後独身生活を続けるのは困難だと云う事、しかも今度の縁談は先方からっての所望しょもうだと云う事、校長自身が進んで媒酌ばいしゃくの労をる以上、悪評などが立つわれのないと云う事、そのほか日頃私の希望している東京遊学のごときも、結婚した暁には大いに便宜があるだろうと云う事――そう事をいろいろ並べ立てて、根気よく私を説きました。こう云われて見ますと、私も無下むげには断ってしまう訳には参りません。そこへ相手の娘と申しますのは、評判の美人でございましたし、その上御恥しい次第ではございますが、N家の資産にも目がくれましたので、校長に勧められるのも度重なって参りますと、いつか「熟考して見ましょう。」が「いずれ年でも変りましたら。」などと、だんだん軟化致し始めました。そうしてその年の変った明治二十六年の初夏には、いよいよ秋になったら式を挙げると云う運びさえついてしまったのでございます。

私はもうその頃には、だれとも滅多に口をかないほど、沈み切った人間になって居りました。結婚を延期したらと注意した同僚も、一人や二人ではございません。医者に見て貰ったらと云う忠告も、三度まで校長から受けました。が、当時の私にはそう云う親切な言葉の手前、外見だけでも健康を顧慮しようと云う気力さえすでになかったのでございます。と同時にまたその連中の心配を利用して、病気を口実に結婚を延期するのも、今となっては意気地いくじのない姑息手段こそくしゅだんとしか思われませんでした。しかも一方ではN家の主人などが、私の気鬱きうつの原因を独身生活の影響だとでも感違いをしたのでございましょう。一日も早く結婚しろとしきりに主張しますので、日こそ違いますが二年ぜんにあの大地震のあった十月、いよいよ私はN家の本邸で結婚式を挙げる事になりました。連日の心労に憔悴しょうすいし切った私が、花婿はなむこらしい紋服を着用して、いかめしく金屏風を立てめぐらした広間へ案内された時、どれほど私は今日こんにちの私を恥しく思ったでございましょう。私はまるで人目をぬすんで、大罪悪を働こうとしている悪漢のような気が致しました。いや、ような気ではございません。実際私は殺人の罪悪をぬり隠して、N家の娘と資産とを一時盗もうと企てている人非人にんぴにんなのでございます。私は顔が熱くなって参りました。胸が苦しくなって参りました。出来るならこの場で、私が妻を殺した一条を逐一ちくいち白状してしまいたい。――そんな気がまるで嵐のように、烈しく私の頭の中を駈けめぐり始めました。するとその時、私の着座している前の畳へ、夢のように白羽二重しろはぶたえの足袋が現れました。続いてほのかな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました。それから錦襴きんらんの帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲べっこう櫛笄くしこうがいが重そうに光っている高島田が眼にはいった時、私はほとんど息がつまるほど、絶対絶命[#「絶対絶命」はママ]な恐怖に圧倒されて、思わず両手を畳へつくと、『私は人殺しです。極重悪ごくじゅうあくの罪人です』と、必死な声を挙げてしまいました。………

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