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十六 初日 上

新富座は定めの時間午後の一時に初日のふたをあけた。一番目は繪本太閤記の馬盥に十段目、これは以前子供芝居の時分からいやに三河屋張の老役ふけやくに劇界の麒麟兒と名を取つた市山重藏が出し物、それに娘役の瀨川一糸が重次郞の初役で評判を取らせ、三幕目には筋の連絡なく忽然と琵琶湖の乗切をつけて、これは活動寫眞式の大道具で子供をだます樣に見物を喜ばす趣向。扨中幕は二十四孝の狐火。二番目は大阪役者袖崎吉松の紙治といふ並方である。初日は土間桟敷とも五拾錢均一といふのに、幕間の長いのと狂言の出揃はないのは承知の上の大入序幕が切れる頃には本家茶屋と芝居の木戶口には早くも土間桟敷賣切申候の札が下げられた。

駒代は樂屋で着到の大太鼓が鳴る時分既に本家茶屋の一間に詰めかけて、茶屋の出方の中で顏の知れたもの三四人に祝儀をやり、又瀨川の男衆綱吉つなきちといふのを呼んでこれには過分の祝儀、まだ其の上に樂屋の頭取と口番には瀨川の部屋へ女房氣取で自由に出入がしたい爲めにまた相應の心付こゝろづけ。そして今度瀨川が初役の重次郞をつとめるといふ事から新橋中の知合を運動して引幕一張を贈つたので其の爲め大道具へも渡りをよくした始末である。

駒代は朋輩の花助をさそつて東の鶉の三に陣取つて、今方馬盥が切れた後場内滿員となつた景氣を見ると、これは誰の力でもない、瀨川一糸一人の人氣の爲めだといふ氣がするのである。そしてこのたいした人氣の役者に思ひ思はれた女は誰あらう此處にかうしてゐる私だよと思ふともう居ても立つても居られない程嬉しくもあり、又晴れて夫婦になれるのは何時いつの事だらうと思へば忽ち果敢いやうな悲しいやうな心持になるのであつた。

舞臺の方で拍子木が聞える。瀨川は一同へ「御ゆるり。」と云ひながら突と座を立つた。男衆の綱吉は朱塗の蓋のある湯呑を持つて後から廊下へ出る。山井は駒代と花助の顏を見つて、

瀨川は白粉を溶いた指先を手拭でふきながら、「昨夜あれからどうしました。お泊りでせう。」

瀨川は八反の褞袍に平ぐけを〆め、朱塗の鏡臺の前に緋綸子の大きな厚い座蒲團を敷き胡座あぐらをかいて白粉を溶いてゐたが鏡の面に映る一同の姿に、

山井は駒代と共に同じく奈落へ降りながら、「實は瀨川君に昨夜ゆふべの話をしやうと思つてゐたんです。」

其時出入口に草履を揃へてゐた黑衣の弟子が何やら丁寧に挨拶してゐる樣子に、一同は誰かと振返ると、髮を切下にして鐵無地の被布を着た品のいゝ女が、「お目出度う。」と云ひながら這入つて來たのに、駒代は喫驚びつくりしたやうに突とさがつて、誰よりも先に、

先代の菊如の後妻、今の一糸が繼母に當るお半である。

ところ〴〵瓦斯の火がぼんやりいてゐる地の下の奈落を過ぎて一同は樂屋へ出ると、こゝは取分とりわけ初日の大混雜。駒代と花助は互に手を引合ひ、黑衣を着た男や尻端折の男達がいづれもいそがしさうにけ上つたりけ下りたりしてゐる梯子段をば廊下の左側、鴨居の上に瀨川一糸と木札を下げた部屋の障子をあけると、半分は板敷になつた出入口の三疊、片隅の居爐裏で湯を沸してゐた男衆の綱吉がいつも御祝儀の利目きゝめ、駒代の姿を見るより早く奧の間へ座蒲團を敷きに立つた。

お半は目のぱつちりした鼻の高い瓜實顏。髮こそ切つてゐるが色の白いつや〳〵と皮膚きめこまかい額にはさして皺も目立たない。よく上方の美人にある顏立。人形のやうに唯綺麗なばかりで表情に乏しい。然し綺麗といへば頸筋から手先まで年寄りとは思へぬ程綺麗で又どことなく品のいゝ處はどうやら公家華族の御後室とも見れば見られる樣子である。

「駒ちやん、あの方がにいさんの阿母おつかさんかい。」

「隨分見せつけましたね。今日はたゞぢや濟みませんよ。」と笑つた。駒代は實の處山井を知つたのは昨夜始ての事であるが瀨川のにいさんの連れて來た人だと云ふ事からわざとらしい迄に親しく見せて愛嬌を振撒くのである。駒代は誰彼の區別はない、瀨川の知己ちかづきだと見れば一生懸命氣受をよくし、それほど瀨川の爲めに心を碎いてゐるかといふ事を知らせて、次第に周圍一帶の同情を身に集め、行末はどうあつても夫婦にならなければ周圍はたが承知しないと云ふやうに仕掛けてゐるのである。されば山井が文士だと聞くだけに駒代は身方にすれば一層賴母しい人のやうに考へて一晩や二晩の遊び位は承知の上で引受けてやらうと思つてゐる。駒代は世間をよく知らぬ藝者の考へで、文士といふものは辯護士が法律を商賣にしてゐるやうに、これはこま〴〵と人情を書くのが商賣だから人情にからんだ事柄を賴めば間違はないと自分勝手にきめて居るのである。

「花ちやん。お敷きなさいよ。」と駒代も花助に座蒲團を勸めながら、然しわざと自分は敷かず少し下座へ下つて綱吉が持つて來る茶をばまづ山井の前へすゝめるなぞ、萬事すつかり女房氣取である。

「肝腎な瀨川君の初役を見そくなつちや大變だ。」と獨言のやうに座を立つので、二人は渡りに船とお半へ挨拶もそこ〳〵つゞいて廊下へ出た。そして一同元來た奈落へ降りかけた時、花助は小聲で、

「綱吉、まだ廻りにやならないか。」と駄々ツ子のやうに云捨て呑みさしの卷煙草を口へ啣へて立上る。

「申譯をしてもいけませんかな。はゝゝは。兎に角變つてましたな。新橋にや時々不思議な藝者が現れますな。あなたの役者だつて云ふ事はとうとう知れずじまひでした。」

「昨晩はどうも。」とまづ山井先生へ挨拶。それと共に如才なく花助の方へも愛嬌を見せて、

「山井さん。是非また出掛けませう。」と瀨川は云ひながら手早く眉を作り口紅をつけると、先刻から衣裳小道具を揃へてゐた男衆の綱吉は瀨川の立上るのを待つて、すぐと桔梗の紋を金絲で縫つた奇麗な裃を着せかける。床山は髷の大きい前髮のある鬘を持つてうしろへ廻る。瀨川は忽ち錦繪にも畫けまいと思ふやうな美しい若衆になつた。駒代はあたりに人がゐなかつたら、初菊の役を橫取して窃と寄添つて見たいと思ふ心をぢつと我慢してしんからほれ〴〵と涎を垂らさぬばかり、どうしても目を離す事ができないのである。これまで見馴れた女形とは又ちがつて水の垂れさうな若衆の姿。惚れ込んだ女の目にはいゝ上にも更に更に、何とも云ひやうのないほど實に好く見えてならないのである。駒代は自分ながら口惜しいと思ふほど、惚れる上にも又更にれ直してしまつたと、何ともつかずそつと人知れず溜息をついたが、そんな事には一向無頓着な瀨川は、

「品のいゝ綺麗な方ねえ。私お花かお茶の先生かと思つたわ。」

「先程太夫さんがお這入はいりになりました。」

「何かゞ萬事あの通り綺麗にきちんとしてゐるから私逹のやうながさつな者ぢや、とても駄目なんだよ。だからさ。」と駒代は覺えず聲を高めたのに氣がついて後を振返つたが、薄暗い奈落には誰も通らず、舞臺の上の方で大道具の金槌の音が陰に籠つて反響するばかり。幕はまだ明かぬらしい。

「や、駒代さん。」と聲をかけたのは脊の低い眼鏡の洋服。

「まだ表向さうと極りもしない中から姑根性を出すのかね。」と花助は事の是非に關らず相手の話に調子を合せるのが癖なので、内心では瀨川の兄さんはあれでなか〳〵浮氣者だから阿母さんばかりがさう惡いときまつたものでもなからうと思ひながら、そんな事を云つたつて夢中にのぼせ切つてゐる駒代の耳に這入るわけはない。なまじつまらない事を云つて人の氣を惡くさせた上恨まれてはつまらないと、唯その場合〳〵いゝやうな事を云つてゐるのである。駒代は全くその通。二人の仲は誰も知つての通これほど深くなつて居ながら、今だにどうともきまりが付かないのは内輪にあの阿母おつかさんがあるからだと一圖にさう思込んでしまつてゐるので、表面うはべは蟲も殺さぬやうな優しい事を云はれると此方こつちくちが自由にきけないだけ、唯もう癇癪が起つて口惜しくなるばかりである。

「どうですか、怪しいもんですね。」

「だからさ。いくらどうしようたつて駄目なのよ。第一あの阿母おつかさんが不承知なんだつて云ふんだから……考へると情なくなつちまふ。」

「そいつアいゝ。」と瀨川は啣へてゐた卷煙草を火鉢へさして褞袍の兩肌をぬぎ譯もなく兩手で顏から頸へと白粉を塗りはじめたので、一同は自然と話を途絕して鏡の面を眺める中にも、駒代はもう總身に力瘤を入れぬばかり一心に眼を据ゑるのである。

「さうだよ。」

「さう。濟みませんね。」と駒代は云ひながら煙草入を帶に納め、「花ちやん、にいさんが來たつて云ふから今の中、一しよに樂屋へお出でな。」

「お目出度う御座います。其後はつい御無沙汰を致しまして。」と丁寧にお辭儀をした。

「お敷きなさい。」

「おや、山井さん。昨夜ゆふべあれからどうなすって。」

「いや、歸るにや歸りました。」と山井はにや〳〵笑ひながら、「歸つたら三時です。」

「いや、どうも、大變な藝者にツくわしましたな。」

「いつもえらいお骨折で。」と愛想よく駒代の方に笑顏を見せて、「大層よく出來ましたね。矢張佐渡屋ですか。何しろ毛がいゝんだから、何に結つてもよくお似合ひだ。」

「あら大變。」と駒代は餘義なさうに笑つて、「かもじでどうやら斯うやら結つてゐるんですよ。」

「あらまア。」と駒代はしんからあきれたやうに目をみはつた。

「あの鹽梅ぢや、先方さきで歸しやしませんわ。ねえ、あなた。」

ねえさん、先程はどうも。」とざわ〳〵人の往來ゆききしてゐる廊下をば鶉の戶口へ膝をついて、そつと皺だらけの顏を出したのは一糸の父先代菊如の時分から相中の古い弟子菊八である。

何處どこまでも取卷藝者に出來てゐる花助はだまつて柔順すなほあとから席を立つた。相中あひちゆうの老優菊八は人込の中を先に立つて、奈落へ通ふ向揚幕の方へと步いて行く。その後につゞいた駒代と花助の姿をば摺違ひに認めて、

「世の中ツてものはどうしてう思ふやうにならないんだらう。」と獨りで嘆息したが、やがて奈落を出ると木が這入つて丁度幕のあく處、奈落とは全く世界のちがつた場内じやうないの景氣に、駒代は忽ち其方へ氣を取られて小走りに鶉へいそぐと、其の後について山井はさそはれもしないのにだまつて同じ鶉へはいつた。芝居でも料理屋でも待合でも何處といはず知つた人の尻についてだまつてぬツと這入はいツてしまふのは蓋し山井先生の得意とする處である。山井は駒代と花助を兩脇に敷島をぱく〳〵悠然として舞臺と場内を見渡した。

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