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十五 宜春亭

山井がなが〳〵と飽かずに語りつゞける尾花家の忰の話がまだ終らぬ中に、電車はいつか銀座通へ來た。瀨川はつと席を立つて降りると山井もつゞいて降りた。そして瀨川が乗換の電車を待たうと服部時計店の前に佇むと、山井もいつか其の後について同じ處に立つてゐるので、

「お宅は。」ときくと、

結婚といふ事が何と云ふ譯もなく妙に窮屈に感じられ、又これまでの自由な華やかな生涯の終了をはりであるやうに思はれる事は、山井自身の經驗に於ても矢張同じ事なので、

瀨川は行きつけた待合宜春へ山井を連れて這入はいつた。二階の表座敷へと案内する女中のお牧は手をついて挨拶するとすぐ後は懇意な調子で、「旦那、たつた今お電話が掛りましてすよ。」

瀨川は始めて山井の胸中を推察した。どこかへ遊びに連れて行つて貰はうといふに違ひない。困つたものだと思つたが、またこの場合知らぬ顏で山井一人を殘して行くのも何となく可哀かあいさうな氣もする。情は人の爲ならず今夜一杯飮まして置いたら後日何かの爲にもならうと思直して瀨川は何ともつかず、「電車も遠いと乗りくたびれますね、どこかで休みませう。」

瀨川は一寸行先に迷つたらしく首をかしげて步みをおそくさせたが、そうかうする中に忽ち三原橋へ來てしまつたので、もう仕樣がないと思つたらしく、

女中のお牧が酒肴を運んで來た。

云ひながら向側へと線路を橫切つて行くと山井はもう喜悅滿面、この鳥を逃しては大變と追掛けるやうに其の後に從ひながら、然し殊勝にも向から來る自働車をば、

二人は唯面白さうに笑つた。やがて靜に襖があいて敷居際に挨拶する島田が見えた。お牧が話をした弘めの藝者といふのはこれであらう。白襟に裾模樣の紋付を着た年は二十前後。癖のない髮と濃い眉毛、黑目勝の大きな目には申分がないが、額は大分廣く頤の短い圓顏。そして手の太い肉付のいゝ大柄の身體にはの衣裳がいかにも着にくさうで、島田の鬢の搔き具合、馬鹿に濃過ぎる白粉のつけやう、萬事が藝者らしくない處が二人の目には却て興味を引くのであつた。然し割合に人馴れてゐて山井が早速さす杯をも惡びれずに受け、

「駒代姐さんう三十分ばかりしますと伺ひますツて、お電話で御ざいます。」

「駒代とですか。」

「見かけによらず女は誰しも片意地なもんですね。」

「藝者ツてものは妙なもんで、脈の合はない同志が一座すると却て座がしらけていけません。」と山井はいよ〳〵腰を落付けやうと云ふ心が胡坐あぐらをかいて紫檀の卓へ兩肱をついた。

「藝者はまア駒代さんが來てからでいゝでせう。それよりかお酒を願ひませう。」

「結婚しやうと思へばいつだつて出來る話なんですからな、何も急ぐにや當りません。然しいづれ一度はこれも人生の經驗でせう。」

「私の知つてる家もあんまり綺麗な方ぢやありませんよ。然し遊びはあんまり豪勢な構ひよりか小じんまりした方が心持がいゝやうです。」

「矢張こゝで御乗換ですか。」

「無い事もありませんが、僕の知つてゐる家はとてもきたなくつていけません。あなたの名譽に關します。それよりか今夜はあなたの本陣を紹介して下さい。秘密は誓つて守ります。はゝゝゝは。」

「急いで來たもんだから呼吸が切れて仕樣がありません。」と飮み干して英語で「難有サンキユウ」と杯を返す、其の調子には何處の國とも知れず著しい訛りのあるのが耳立つのであつた。

「待たせた揚句に、來ればすぐ電話で後口でせう。はゝゝは。」と方々倒して步いたゞけ山井もなか〳〵の通人である。

「山井さん、誰がいゝでせう。」

「山井さん、どこかお馴染のお茶屋はありませんか。」

「家は芝白金です。」

「向で三十分と云へばまづ一時間半だね。それぢやお牧さん彼女あれの來るまで、誰か直に來られるのを呼びたいもんだね。新橋の藝者はどれもこれも待たせるからなア。」

「只今。畏りました。」と女中は坐を立つた。

「僕はまだ經驗がないんですが、結婚つて云ふものはあんまり面白いもんぢや無さゝうですね。僕は何だかもう少し獨りで氣樂にして居たいやうな氣がするんですよ。何もあの女がいやと云ふ譯ぢやない、それとは全く別の話で……。」と瀨川は獨りで申譯らしく云ひ添へた。

「何も困る事アないぢやありませんか。結構ぢやありませんか。」

「何ぼ役者だつてさうは行きませんよ。」

「何て云ふ名だえ。」

「何しろあなた方の商賣は羨しい。第一時間で身體を縛られるツて云ふことがないし、それに又遊びに行つても内所で好きな事ができるけれど、そこへ行くと私逹はすぐに顏で知られてしまふから……さう馬鹿な騷ぎ方も出來ないしつまりません。」

「人の話だから眞實ほんとだか虛言うそだか分りませんけれど藝者になつて見たくつて、無理に好んでなつたんですとさ。」

「わかつてるぢやありませんか。さう申しませうね。」とお牧はもう立掛ける。

「まだ十時にやなりません。」と瀨川は手首てくびにはめた金時計と服部の店に並べた時計の時間とを見くらべる。

「ほんとにねえ。」とお牧は眞實らしく溜息をついたが急に思出して、「今日お弘めのがあります。つなぎに呼んで見ませうか。ぽつちやりした色の白い、何となく具合のよさゝうな人よ。ほゝゝゝほ。何でも立派な御醫者樣の奧さんだつたんですつて。」

「どなたにしませう。」と女中は再び坐り直して瀨川と山井の顏を見た。

「どこから。」

「それア奇妙だ。どうして藝者なんぞになつたんだらう。」

「それが女心と云ふんでせう。」と山井は菓子鉢の乾菓子ひぐわしを摘み、「瀨川さんこれア餘所で聞いた噂なんですが、近々にいよ〳〵御結婚なさるつて云ふ事ですが、ほんとうですか。」

「その代何處へ行つても吾々のやうに冷遇される氣遣はない……。」

「さうでせうな。私の處へ短歌の添刪を賴みに來る女には、隨分藝者になり兼ねないやうなのがあります。」

「さうですか、そんなに評判なんですか。こまりますね。」

「さうかい、それア見たいもんだ。山井さん、さういふ女は矢張新しい女ツて云ふんですか。」と瀨川は眞面目に質問する。

「この頃新橋の景氣はどうです。私はもうとんと近頃は遊びませんが……。」と山井はつゞいて二輛ほど電車が來ても一向乗る樣子なくいつまでも立つてゐる。

「おいお牧さん。駒代は駒代でいゝから、その外に誰か呼んでおくれ。」

「えゝ。ちら〳〵さう云ふ噂を聞きます。」

「いえ、いつでも芝の金杉橋で乗換へます。」と山井は云ひながら一步瀨川の方へ進寄り、「何時でせう。まだ家へ歸るのは少し早いやうだ。」

「あぶないですよ。」と注意した。瀨川はすた〳〵ライオンの前を行過ぎながら鳥渡振向き、

蘭花らんくわツて申します。」

「蘭花――支那の女の名見たいぢやないか。なぜもつとハイカラなのにしなかつたんだ。」

わたしまつたくはすみれ﹅﹅﹅と付けたかつたのよ。ですけれどほかにもうすみれさんて云ふ方があるですツて。」

「今まで何處どこへ出てゐたんだ。葭町か、柳橋か。」

「いゝえ。あなた。」と蘭花はどういふ譯か急に語調てうしを强めて、地方訛の一層耳立つのも知らぬ顏で、「藝者は全く始めてゞすわ。」

「それぢや女優か。」

「いゝえ、然し私女優さんには成つて見たうござんすわ。藝者でもし賣れなかつたら女優さんになりますわ。」

瀨川は山井と顏を見合せて覺えず微笑ほゝゑみ、

「女優になつたら蘭くわさんはどんな役がして見たいと思ふね。」きくと女は更に憶する樣子もなく、

「わたしジユリエツトがして見たうござんすわ。シエーキスピアの――あの窓の處でロメオと鳥の聲を聽きながら接吻キツスする處が御在いませう、何とも云へませんわ。松井須磨子さんのサロメなんて私はいやですわ。人樣に裸體はだかを見られに出るやうなものですもの。肉襦袢は着てゐるんでせうけれどもねえ。」

瀨川は少々煙に卷かれた體でだまつてしまつたが、山井は漸く重ねる杯と共にもう嬉しくてたまらないらしく、

「蘭花さん、あなたは實に藝者には惜しい。思切つて女優におなんなさい。さうすれば僕も及ばずながら力になります。僕だつて藝術家の一人です。藝術の爲なら自他の區別はないです。」

「あら、あなた藝術家でゐらしつたの。何と仰有おつしやるの、お名前を聞かして頂戴よ。」

「山井要といふのは僕です。」

「あら山井先生でゐらつしツたの。それぢや先生の歌集はわたくし皆悉みんな買つて持つて居りますわ。」

「さうですか。」と山井はます〳〵悅に入つて、「ぢや、あなたも何か創作があるでせう。え、蘭花さん。聞かして下さい。」

「いゝえ、とてもむづかしくつて出來ません。ですけれど煩悶のある時は歌でも讀むのが一番慰藉ですわねえ。」

瀨川はいよ〳〵呆れて唯煙草をぱく〳〵其の煙の中から山井と蘭花の顏を目戍みまもるばかりであつた。

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十五 宜春亭