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九 おさらひ

每年の春秋三日間歌舞伎座で催す新橋藝者の演藝會もいよ〳〵秋期大會の初日となつて番組の第一番目花やかな總踊が今方丁度幕になつた處である。

「あなた、早く來てようござんしたわ。お玉ケ池﹅﹅﹅﹅はこの次の次ですよ。」と手にした摺物を南巢に渡して、茶碗に茶をつぎかけたのは其の妻と覺しい三十四五の丸髷。その側にはぱつちりした目付のすぐに母娘おやこと知れる十二三の可愛らしいお孃さんに、五十前後の小さな丸髷小紋の羽織に宇治の紋所をつけた出入の師匠と覺しい四人連で場所は正面桟敷の少し東へよつた一升を占めてゐる。

廊下のはづれの出入口からすぐ舞臺の裏へ出て、駒代はいつも芝居のある折には大抵瀨川の部屋に定められてある二階の一室へ急いだ。駒代はこの三日の間瀨川の兄さんの部屋を借りにいさんの鏡臺で化粧をして、兄さんの使つてゐる男衆や門弟に世話して貰ふ其の心の中の嬉しさ。自分ながら何と云つていゝか分らぬ位である。瀨川の兄さんは今方樂屋口から遊びに來た處と見え、薄セルの外套をぎかけてゐたが、駒代の急しさうに這入はいつて來るのを見て、

通りかゝる同じ鬘下地の藝者が駒代の姿を見て、「駒代姐さん、さつき御師匠さんがさがしてゐてよ。」

見てゐると土地に勢力のある女將の處へはしつきりなしに藝者が四人五人と打連れて挨拶に來る。役者も藝人も幇間も通りかゝりに腰をかゞめる。お遣物の水菓子鮓のたぐひが引かへ取りかへ引きも切らず運ばれる有樣、打眺める南巢の眼には舞臺の演藝よりも遙に面白く見えるのであつた。殊に、今日の見物と云へば平素興行の劇場とは又一種ちがつて、東西の桟敷鶉へずらりと並んでゐるのは新橋を中心にして、新橋への義理で東京中の重立つた茶屋待合の女將や藝者を網羅したと云つてもよい。それに加へて役者に役者のかみさん、音曲諸流の家元師匠の連中から相撲取もゐれば幇間もゐる。さう云ふ仲間から敬い尊ばれてゐる紳士旦那方御前なんぞ云ふ人逹の顏も見える。或はそれと反對に花柳界の寄生蟲とも云ふべきセルの袴や洋服を着た一種の人間もうろ〳〵徘徊してゐる。藝者家の亭主親方女中箱屋もしくは藝者の身寄のものは先づ大抵平土間の末の方に寄集つてゐた。

南巢はかう云ふ人逹を見るため獨り廊下へ出てぶら〴〵してゐると往交ふ人の中から花やかな聲で、

倉山南巢は自作の淨瑠璃や狂言の演ぜられるのを看るよりも今は唯芝居の中の混雜や見物人の衣裳髮形の流行なんぞを何の氣もなく打眺めるのを遙に面白いと思つてゐるので、劇場から劇評家として或は作者として招待される事があれば場末の小芝居だらうが本場の檜舞臺だらうが、そんな事には一向頓着せず必ず義理堅く見物に來る。然し十年前のやうにもう力瘤を入れて議論はしない。實際見てゐられぬ程下手だと思ふ藝にも何とか愛嬌をつけて褒めた批評を書かうと勉めるが、折々褒めそこなつてはたくまずして自然の皮肉に陷る事がある。それが知識ある方面の好劇家を深く喜ばせるので、南巢の劇評家たる地位は今日では當人自ら輕じ切つてゐるに係らず意外な方面に却て意外な勢力を保つてゐるとやら。そも〳〵南巢が狂言や淨瑠璃の新作に苦心したのは、十年前熱心に劇場へ出入した頃の事で、其の後年々に時代の趣味の變遷につれ、劇場興行の方法やら俳優の性行藝風やら看客一般の趣味やら、萬事萬端自分の思ふ事とは全く反對してゐる事に氣がつき、世が世なれば是非もない、腹を立てるも馬鹿々々しいからと力めて自分からこの方面の興味には遠ざかるやうにしてしまつたのである。ところが二三年この方どう云ふ世の風潮か、十年前に書いたものが折々年に一二度はきまつて何處かの芝居で興行され始めた。それをば最初は誠に苦味々々にが〳〵しい事に思ひ、次にはその反對に世間も漸くそろ〳〵目が明いて來たのかと内心稍得意になり、最後に今の世の中はいゝも惡いも新しいも古いも全く無差別、何が何でもおかまひなしと云ふ風潮から、これも一時のまぐれ當りと思定めて、南巢は唯その舊作の興行に逢へば獨り心の中にその若かりし日の事を思返して悲しいやうな又嬉しいやうな思に耽るばかり。その爲めに誘出されて再び梨園の人たらんとする野心は更に起さないのであつた。南巢は最早や何事にかぎらず活動進取の現實よりも唯惘然たる過去の追憶に何とも云ひやうのない深刻な味を覺ゆるのである。

「表に誰か來てゐるかい。」

「家の親爺が盛んに呑んだ頃にや、あんなに肥つてやしなかつたが金が出來るとえらいもんだな。まるで相撲だな。」

「宅ではいつでも御自分のものが出ると御氣嫌が惡いんですよ。その位なら始めからお書きにならなけれアいゝのに…………ほゝゝゝほ。」と丸髷は笑ながらお孃さんのつまめるやうにと大きな羊羹を楊枝でちぎり始める。

「吳山さんはお逹者か。」

「先生ようこそ。」と呼びかけられ其の方を見返るとこれは白襟裾模樣髮は鬘下地にした尾花家の駒代であつた。

「保名です。」

「何だい。あんなに電話で人をいそがして置いて、お前今來たのか。」

「何だい、そら〴〵しく御禮を云ふぢやないか。それアさうと、まだなかなかお前の番ぢや無いだらう。」

「みんなお二人づれよ。」と駒代は何といふ譯もなくつい言葉に力を入れて云つたのを自分ながら心付いて「岡燒したつて始まらないわね。ほゝゝゝほ。」

「まだなか〳〵ですよ。五番目位でせう。」

「はゝゝゝは。」と南巢は番組の摺物を眺めて唯可笑しさうに笑つた。番組には其の三番目に南巢が舊作なるお玉ケ池由來聞書といふ淨瑠璃名題その下に常磐津連中と踊る藝者の名が三人並べてあつたが、南巢は一向氣にも留めぬらしい樣子で直樣あたりの混雜に眼を移した。劇場は今しも追々おくれ走せに押掛けて來る看客に廊下運動場は勿論東西の花道平土間の間のあゆみまで出入の人往交ふ人、挨拶し合ふ人々、混雜する上にも混雑する眞最中である。

「さうですよ。近年はどうした事か、折々時ならない時分に私の書いた碌でもない狂言や淨瑠璃が出るんで實は閉口してゐるんです。何しろ氣まりが惡くていけません。」

「さうかい。」

「さうか、何番目だ。」

「お氣の毒さま。」と人前はゞからず其の側に坐つて「いま表へ御挨拶に行つてゐたのよ。兄さん、今日けふはほんとにいろ〳〵有難たう。」

「お前さんの出し物は何だい。」

「おきねさん。」と南巢はつれなる宇治の師匠を呼び、「あすこの、東の桟敷の二番目にゐるのは荻江のお萬ぢやないか。年を取つたね。」

「えゝ。」

「いゝ處だな。おそからず早からず、見物が一番氣乗りのする時分だ。」

「ありがたう。もうその中參りませうよ。姐さんと一所に出掛けるツてさう云つて居りました。」

「あら大變だわ。猶心配になつちまふわ。」

「あらさう、先生それぢや又後ほど。どうぞ御ゆるり。」と云捨てゝ駒代は人込の廊下を小走に馳けて行く折から、舞臺では番組の第二番目が始まると見え拍子木の音が聞えて、廊下の往来は一層いつそうはげしくなるが中にも、駒代の鬘下地を見付けてれちがふ人逹は男も女も振返つて見ないものはない。駒代は氣まりの惡いやうな氣もするし、同時に又何とも云へない得意な心持にもなるのであつた。此春の演藝會の折にはまだ弘めをしてから間もない時ではあり、それに肝腎な費用を出してくれる人がなかつたので駒代は猿廻しを出す藝者の相手にと、師匠から勸められて據處なくお染をつとめたのであつた。ところが非常に評判よくその爲めにお扇子で呼んでくれるお座敷が一時はなか〳〵急しかつたので、駒代はすつかり氣が大くなり、此の秋の大會たいくわいには見物をあつと云はせるやうな大物を出さうと意気込いきごむやうになつた。それに何より安心なのは今度は萬事の費用を吉岡さんと、それから吉岡さんには内々で新に出來た他の旦那とこの兩方から出して貰へることである。そして藝の方にかけては専門の瀨川一糸がついてゐて、舞臺の呼吸を敎へ、演藝の當日には瀨川の弟子が後見につくと云ふので、駒代はもう立派な役者にでもなつたやうな心持。この演藝會で以前にも增して一層の好評を博すれば、いよ〳〵新橋切つて踊りではすぐに駒代さんと星をさゝれ、誰知らぬものなき第一流の名妓になれるは知れた事、さうおもふとどうぞ首尾よくやれるやうにと、さすが幕の明くまでは心配で心配でならないのである。

「あらお萬さんが來てゐますか。奧さん一寸眼鏡を拜借します…………成程々々お萬さんですよ。見ちがへるやうになりましたね。その手前の桟敷にゐなさるのはアレは對月の女將ですね。」

「あら、奧さん、どうも恐入りました。」と宇治の師匠らしい女は茶碗を受取り、「もう十年近くになりませうね。たしか先代の瀨川さんがおやんなすつたんでしたね。あの淨瑠璃で御在ませう。」

「○○さんも□□さんも(役者の本名を云ふと知るべし)みんな居らしつてよ。」

その時床山が駒代の鬘を見せに來た。

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