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腕くらべ

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六 ゆひわた

吉岡はまだ日の高い中に酒好きのふとつた江田さんをつれて三春園へ歸つて來た。その晩最終の電車で江田は東京へ歸る筈なのを駒代は一同みんな一緖いつしよ雜魚寢ざこねをしようと云つて無理に引留め、そして夜半よなかぎまで流石さすがの江田さんをも辟易させる程ウイスキイのコツプをさしつ押へつして遂に其の場に打倒ぶつたふれ、やがて小間物店を出して一同みんなに厄介をかけた揚句、翌日あくるひは一日氷で頭をひやす始末。旦那の吉岡もこれには閉口して、一先づ三春園を引揚げる事にした。元より狂言半分の大病なので、駒代は藝者家へ歸ると其足ですぐにも日頃信仰してゐる新宿のお稻荷さまへ行つてお伺を立て、吉岡さんの世話で今が今急に商賣をよしてしまつても大事はないか。一時はよくても以前のやうに不運なめぐあはせになるやうな事はあるまいか、能く占つて貰つた上、家の十吉姐さんや待合濱崎のおかみさんとも相談して、それから旦那の方へ返事をしようと思案をきめたのである。

髮を結び直し錢湯から歸つて來て、鏡臺の前に坐つたが、すると慌忙あはたゞしく梯子を駈上つて來たお酌の花子が、「駒代ねえさん、お座敷よ。」

駒代は今方自働車で三春園を引上げた吉岡さんがお屋敷へは歸らずすぐと築地へ廻つて其處から又呼びによこしたものと思つたのである。ところが

駒代はもう夢に夢見る心地といふもおろかはては狐にでもばかされてゐるのではないかと云ふやうな氣もしてくちもきけず手も出せず、只々うれしい有難いの一念が身にしみるばかりである。瀨川は何から何までかゆい處へ手が屆くやうに、さて自分も姿をとゝのへて風通のいゝ次の間の窓の側へ坐つた。遠くから夜廻の拍子木が聞え出したので夜は十時を過ぎたと覺しい。

車の仕度の出來るまで瀨川は猶も盛にあまい事を云ひならべた。駒代は瀨川を送出して帳場へ挨拶をすまし、不圖車を呼ぶのも忘れたまゝ、其れなり外へ出ると初秋の夜は星影凉しく鬢の毛を弄ぶ夜風何とも云へぬい晩である。駒代は農商務省の前からやがて出雲橋の方へと一人ぶらぶら駒下駄を引曳りながら、たつた今過ぎてしまつた今夜の事をば、幾度となく繰返し繰返し思返しながら步いて來たが、橋の向うに遠く銀座ぎんざを見ると、もう一度、何を思ふともなく思ひに沈んで見たい氣がして、行先さだめず唯人通のないさびしい方へと辿たどつて行つた。

わざとらしく「待ちわびて」といふ小唄をいてゐたにいさんは三味線を膝の上にかゝえたまゝ、「此方こつちが凉しいよ。こゝへおすわり。」

この樣子に、瀨川はすつかり嬉しくなつてしまつた。同時に又意外な好奇心にも驅られ始めた。瀨川は駒代をばこれほど初生うぶな氣まじめな藝者とは思つてゐなかつたのである。二十四五の年合から見ても一人や二人藝人の肌を知らない筈はない。一昨日の晝日中三春園で其の場の冗談じようだんから思はずあゝ云ふ譯になつて見れば、何ぼ何でも其儘打捨うつちやつて知らぬ顏も出來まいと、云はゞ藝人の義理半分またお詫半分にお座敷へ呼んでやつた。お座敷へ來て自分の顏を見れば何のおくする氣色けしきもなく、

「駒ちやん、お茶一杯ついでおくれ。」

「旦那は滅多にお泊りになる事はないから大丈夫よ。それよりかにいさんのほうとまれないんだから。」

「宜春さん――珍しいうちから掛つて來たんだね。間違ひぢやなくて。」と駒代は首をかしげながらも稍安堵の吐息といきを漏した。然し今まで一度も行つた事のない待合なので、駒代は髮も出來ませんし、それに少し加減がわるくてやすんで居ますからとことわつて貰つたが、すると、普段のまゝ一寸でいゝから是非といふ再度の電話。お客樣はどなたかときくとお馴染の方だといふ返事に、誰とも思當りはないが、さうすげなくもことわりかね、しぶ〳〵ながら、又何となく半信半疑こは〴〵ながら農商務省の裏通り、大小の待合軒をつらねた其の中の一軒、宜春と嵯峨さがやうで書いた柴折門の家へ車を走らせた。すぐお二階へと云はれて、おそる〳〵梯子を上つて行くと、まだひるの事ではあり、葭戶を開放した表二階、廊下からも見通される一間の床柱に背を倚せかけて、たつ一人ひとり三味線を爪びきしてゐるお客――誰あらう其れは圖らず三春園で忍び逢つた瀨川のにいさんである。

「ほんとねえ。にいさん、今度こんどいつ逢つて下さるの。私は十一時過ぎならいつでも身體からだがあいてますから。」

「ぢや約束したよ。」と瀨川は初めて遊びをする若旦那のやうに改めて女の手を握り、「それぢや車を呼んで貰はう。」

「それぢや駒ちやん、いゝかい。きつと都合して逢つておくれ。」

「さうねえ。」と駒代は手を引かれるまゝべつたり膝を崩して寄掛り、「私も咽喉のどが渇いてしやうが無いのよ。それほどいたゞきもしなかつたのに。」

「えゝ、りがたう。」といふのも殆ど口の中、駒代はまるで見合みあひにつれられて行つた生娘きむすめのやうに顏を上げる事が出來ないのである。

「うつかりとまつて旦那だんなにでも目付めつかるといけないよ。用心に用心が肝腎だよ。」

「いゝよ〳〵。女中が來るとうるさいぢや無いか。」

「いゝえ宜春ぎしゆんさんですよ。」

「あら。」と云つたまゝ駒代は嬉しいやら、耻しいやら、餘りの意外に少時しばし座敷へは這入はいりも得なかった。

「あらにいさん隨分ねえ。」ぐらゐの事は云ふに違ひないと思つてゐた。ところが全く豫想外な駒代の樣子、もうぞつこん自分に迷込んでしまつたらしい樣子に此方こつちは男の自惚うぬぼれが手つだつて無上むしやうに嬉しくなり、唯一遍の冗談じようだんでこの位の結果を現はすなら、此の上斯うもしてやつたらさきはどんなに逆上のぼせるだらうと思ふと、もう面白半分瀨川は調子にのつて、此迄これまでの經驗で覺えのある秘術のありたけを爲盡さずにはゐられなかつた。

義母おふくろがやかましくなければとまつて行くんだけれど、まゝにならないねえ。」

此家こちらでいゝわ。ぢやアわたしそのつもりで待つてますよ。若しか據所ないお座敷だつたら貰つて來るまで屹度きつと待てゝ下さいよ。」

こまつたねえ。また濱崎屋さんぢやないかい。」

めてるわ、もう。入替へて來ませう。」とまめ〳〵しく立掛ける其の手を取つて、

にいさん、きつとよ。きつと逢つて頂戴よ。にいさんが其の氣ならわたしどんな苦勞でもして見せるわ。」

なにとまらうと思へばとまれない事はないけれど、うち義母おふくろくらゐ野暮な女はありやしない。自分だつて舊々もと〳〵素人しらうとぢやあるまいしさ。ぢやア駒ちやん、明日あしたの晩逢はうよ。明日の稽古は大槪八時か九時頃にはすむだらう。僕は芝居からすぐ此家こゝへ來るよ。此家こゝでいゝだらう。それとももつと人目につかないお茶屋を知つてゐるかい。」

一昨日をととひ眞晝中まひるなか、人氣のない三春園の廊下で、何方どつちから、どうしたともどうされたともわからず、駒代は唯只たゞ〳〵嬉しい夢を見た。然し相手は何を云ふにも引手あまたの藝人衆の事、大方その場かぎりの冗談であらう。よしたゞの一度その場かぎりの冗談じようだんにしても藝者してゐる此方こつちの身に取つては此れにました冥利はないと思つてゐる矢先、まだ三日とたゝぬ中、突然むかうからちやんとお座敷にして人知れず呼んでくれるとは、全く思ひもよらない、何といふ親切な實情じつのある仕打しうちであらう。さう思ふともう嬉淚が眼の中一ぱいになつて駒代はどうする事も、なんふ事も出來できなくなつた。

通りすがる待合の二階の火影、流して來る新内は云ふまでもなく、見るもの聞くもの、世の中はまるで今までとはちがつてしまつたやうな心持がする。駒代は瀨川のにいさんには自分の外に深いいろがあるか否かを疑つて見る餘裕はなかつた。唯々たゞ〳〵うれしくてならないのである。秋田の田舎へ片付いて其處そこ落付おちついて年を取つてしまつたら、世の中にこんな嬉しい事のあるのをも知らずにしまつたのだと思ふと、今までの不仕合が何とも云へない程有難くなつて、人の身の上ほどわからないものはない。辛いも面白いも藝者してゐればこそだと、駒代は始めて藝者の身の上の深い味がわかつたやうに思つた。それと共に同じ藝者はしてゐても昨日までの藝者とは譯がちがふ。今は引手あまたの人氣役者を色にしてゐる押しも押されもせぬ藝者だと、駒代は俄に藝者の位も上り貫目もついたやうな云ふに云はれぬ得意な心持になつて、折から行きちがふ藝者の車を見てもおのづからあれはどこのだらうと云はぬばかり。むかふが薄暗いまちの火影に振返れば此方こつちも惡びれず振返つてやるやうな勇氣が出て來た。

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