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五 晝の夢

一時は水道の水が切れると騷いだひでりの八月末、暮方近くなつて突然篠つく如き夕立から一夜半日降りつゞいた大雨。がらりと晴れると時候はすつかり變つて、秋は忽ち空の色柳の葉の目にもさやけく、夜ふけた町の下駄の響車の鈴の音にも明に思知られ、路次の芥箱に鳴く蛼の聲が耳立つてせはしくなり出した。

駒代は吉岡さんにつれられ箱根か修善寺へ行く處であつたが、かの大雨で鐵道は東海道線のみならず東北線にも故障が出來たとかいふので、吉岡さんにすゝめて森ケ崎の三春園へ泊る事にした。三春園といふのは新橋中で幅をきかしてゐる木挽町の對月と云ふ待合の別莊で、公然お客をめる旅館ではない。始めは對月の女將が榮華のあまり氣保養にと建てたのであるが、地體慾には目のないてあひのこと、これだけ立派な廣い別莊を普段明けて置くのは惜しいものだと、木挽町の待合は養女と物馴れた女中にまかせ、女將はこゝを出店のやうにして、御贔負のたしかなお客筋または出入の藝者衆に賴んで連れ込みのお客を呼んで貰つてゐるのである。お客は宿屋とちがひ相客がないので貸別莊にゐるのも同樣な處から自然と心持よくお茶代も過分にはづむわけ。藝者は又新橋中で幅のきく待合對月に對して一人でも餘計にお客を連込んでやれば何んとなく自分の顏がよくなるやうな氣がするので時には自腹でお土產を買ひ東京へ歸つてからわざ〳〵木挽町の帳場へ「昨晩は大崎でいろ〳〵お世話になりましたわ。」と鼻高々と報吿に行くものさへある。駒代が三春園を吉岡さんに勸めたのも矢張この邊の魂膽こんたんからであらう。

社會に出てからも矢張その通りである。これまで湊家の力次の旦那になつてゐた譯は性慾からでも戀愛からでもなく、所謂當世紳士の巧妙心とも云ふべきものからであつた。力次は先年井藤春步公が手をつけた女だとかいふ事で今だに何かあると藝者仲間の評判、當人は其當時から一足飛びに貴婦人になりすました樣な氣位。俄に茶の湯に琴書畫までを習ふといふ有樣。吉岡は近頃賣出した若手の實業家として、いづれどの道藝者の旦那になるなら、よかれ惡しかれ取られる金は同じこと。さすれば都新聞の艷種に出されても人を驚すやうなのがよいと無鐵砲に力次を口說いた。ところが男振のよいのと切放れのいゝのとで力次はお高くとまつてゐるといふ評判にも似ず案外譯なく落ちたのである。然し力次は吉岡より年も既に三ツうへ、白襟に紋付でも着て出る時には流石に押しも押されもせぬ本場所の藝者と見えるが、普段つくらずに居る時は小皺の寄つた目の緣の黑ずみ、額の廣い、口の大きい、どことなく底意地の惡るさうな中年の婆さんである。吉岡は力次に對して最初からどういふ譯か一もくいてゐたので、いくら旦那になつたからとてさう何も彼も自分の自由にする譯には行かない。殊にどうかするとこの若僧わかぞうがと人を馬鹿にしてゐるやうな氣がしてならない事がある。又時にはもう少し年が若くて、根こそぎ男の自由になるやうな色ツぽい女がと思ふ事もある。元はお茶屋の女中で萬事安手やすでに出來てゐる濱町の待合村咲のおかみと兎角手が切れないのもつまりは其れや此れやの原因からであつた。ところが茲に偶然、書生時代に買馴んだ駒代に再會して見ると、何となく其の情交がしつくりと合つて誠に自然であるやうな氣がした。以前から知つてゐるので何をやうが云はうが氣の置けるといふ處はない。それに年增盛りの容貌もよく人に見られてもさして自分の顏のよごれる虞もない。吉岡はそこで駒代を引かして妾にし、日頃望んでゐた別莊を鎌倉邊に新築してそこへ駒代を置き、自分は土曜から日曜日へかけて氣保養がてらに遊びに行かうと思立つたのである。

駒代は獨り座敷へ立戾ると、ばつたり倒れるやうに坐ると共に疊へ突伏して泣出した。自分ながら何が何やら分らないまでに氣がうはづツてしまつたのである。この二日二夜といふもの、逃げたいにも逃場がなく立通たてとほしにしつツこく問ひ詰められ、うるさくきまとはれて、機嫌も氣褄ももう取りやうがない。身體からだはつかれきつて頭はぴん〳〵痛む。まだこの上二日も三日もこゝに留められてゐたらどうなる事だらうと思ふと、最初は自分から勸めて泊りに來たこの三春園が牢屋としか思はれなくなつた。

駒代は敷島を啣へ腹這ひに寢そべつて女中の置いて行つた都新聞を見てゐたが、生叭なまあくび一ツ、やがて顏をあげると急に取つて付けたやうに「いゝわねえ、閑靜だわねえ。」

駒代は急に情けなくなつて、其の儘行かうとする一糸の袖を捉へ、「お苦しみなのよ。兄さん。察して頂戴よ。」

駒代は俄に顏を赤くしながら、「ほんとに堪忍して頂戴よ。」

駒代はこの前新橋から出てゐた時分一糸とは踊の師匠花柳の稽古場で知合つてゐた。其の時分一糸はまだ修行最中の少年であつたが、二度目に駒代が藝者になつてつい此の春歌舞伎座の新橋演藝會の折樂屋で逢つた時には既に立派な名題役者になつて大勢の藝者から兄さん〳〵と云はれてゐた。駒代は無暗とわが身が心細く夢中で寢衣のまゝ此家を逃出さうと思詰めた矢先、思ひもかけず一糸の姿を見ると、忽然どういふ譯ともわからず、宛ら他國で圖らず同鄉のものに出遇つたやうな懷しさを覺え、あたりの物淋しさが俄にそれほどでもないやうに、自然と心丈夫な氣がして、あまりの嬉しさに思はず寄添はぬばかり進みて、

駒代はだまつて唯だはなやかな笑顏を見せたばかりである。

誰もゐないと思ふと廣い家の中は一際しんとしたやうに思はれ、廊下の窓から見える裏庭一面、激しく照りつける殘暑の日の光に、構内かまへうちは勿論垣根の外の往來まで何の物音もなく、只耳に入るのは蟬の聲と蟲の音ばかりである。

葉卷を啣へて吉岡は最前から女の姿に餘念もなく見惚れた樣子であつたが、靜に肱枕の身を起し、「だからさ、惡い事は云はん。好加減に藝者はよしたらどうだ。」

女中が朝飯の膳を下げて行つた時はもう十時過であつた。初秋の空は薄く曇つて徐ろに吹き通ふ風時折さつと緣先の萩の葉の露をこぼしながら、蟲の音はそれにも驚かず夜と同じやうに靜に鳴きしきつてゐる。

吉岡は眞實駒代の丸髷がよくて〳〵ならないのだ。何でも四五度目に呼んだ時、駒代はさる病院へ朋輩の病氣見舞に行つたとかいふので、其の爲に結つた丸髷のまゝ着物も端折はしをつてお座敷へ來た事がある。其の姿がいつも潰島田つぶしか銀杏返に裾を引いた藝者の姿とはちがつて、如何にも目新しく、どこやら新派の河合にも似た處があるやうに思はれ、今まであまり藝者になりきつてゐる力次と、又一方には、いかにも重苦しくそして又時にはいやにぢゞむさい村咲のおかみと、此のいづれにも見られなかつた新しい特別の心持を覺えた。其の時から不圖ふとこの女を此れなりこの姿のまゝにして置きたいと思出したのが、やがて呼ぶ度每にいよ〳〵押え難くなつてしまつたのである。

吉岡は全く我ながら不思議でならない。以前洋行する時分には平氣で捨てゝ行つて此の女が今更となつてこれ程氣に入つてやうとは全く意外である。つい此の夏のはじめ偶然帝國劇場で出會つた晩、築地の濱崎へ呼んだ折には、唯學生時代の昔を思返して見る面白さ、云はゞ其夜かぎりの物好であつたが、一度二度と度重る中にどういふ譯ともわからず唯何んとなしに徹頭徹尾駒代を我がものになしふせてしまひたくなつた。

吉岡はこの夏中なつぢうとほして出勤してゐた代り秋口になつてこの一週間ほどゆつくり休暇を取つた處から、にもこの間に駒代を說伏せてしまはうとあせつてゐる。それには二人ぎり鼻をつき合せて外に氣のまぎれやうがない、外に邪魔のはいりやうがないこの三春園は箱根や修善寺の溫泉なぞにも增して猶好都合だと見て取つたので、三日目の朝ふと東京の江田から株の賣買か何かの事で電話がかゝり、據處なく一寸市中まで歸らなければならない用事が出來たが吉岡はおそくも夕方までには戾つて來る。其の間誰か友逹でも呼んで待つてゐるやうにと、十吉の家の花助と別の家の千代松といふ二人へ遠出の口をかけて出て行つた。

全く不思議だ。さういふつもりでは決してなかつたのだが……と吉岡は駒代の顏を見る度自分の心がその思ふやうに自由にならないのを不思議がる。これまで隨分遊散してゐるが、實際吉岡はかういふ妙な心持になつた事は唯の一度もなかつた。書生の時分から吉岡は非常に規則正しい代り潤ひのない薄情な、折々木で鼻をくゝつたやうな事を言ふ男だとよく人からいはれてゐた。蕎麥屋や牛肉屋へ上つても友逹からおごられるのが嫌ひ、又友逹をおごるのも嫌ひ、勘定は厘毛まできちんと割前にするといふやり方、其時分始て藝者買をし出したのも、云はゞ確固たる分別あつての事であつた。それはなまじ性慾を抑壓して却て下宿屋の下女のやうな素人しらうとの女に引掛り飛んだ耻をかくよりも、金で立派に買ふ女に間違はない。間違のない女を安心して買つて、それで性慾の壓迫を排除し精神爽快となつて學期試驗每に上席を占めればこれ則ち實益と快樂を一擧に兩得する譯であると思つてゐた。所謂現代の靑年たる彼には前時代の人々の心を支配した儒敎の感化は今や全く消失せてゐたので、最終の勝利たる其の目的の貫徹に對しては手段の如何を問ふべき必要も餘裕もないのであつた。其の人の罪ではない。これ則時勢の然らしむる處であらう。吉岡は每月何囘遊べば其勘定は大略どの位といつもきちんと豫算を立ててゐるので、もし豫算を超過しない場合には、その剰餘は惜しまず女にやつてしまふ代り、また豫算の額より以外にはいかほど買馴染の女から呼出しの手紙を貰つても嚴として應じなかつた。

どこかで鷄の鳴く聲が聞えた。駒代の耳にはそれが際立つて田舎らしく聞えると、忽ち遠い〳〵秋田にゐた時のつらい事悲しい事心細い事のさまざまが胸に浮んでる。鷄につゞいてからすの鳴く聲。緣先には絕えずかすかに蟲が鳴いてゐる。駒代はもうたまらなくなつた。もうこゝに愚圖ぐづ々々してゐたら一生新橋へは歸られなくなつてしまふかも知れない。何故新橋がそんなに懷しく心丈夫に思はれるのか。唯譯もなく駒代は夢中でこの家を逃げ出さうと、厠の外はよくも案内知らぬ廊下へと細帶のまゝ飛び出した。

すると出合であひがしらに、駒代よりも猶更びつくりしたのは、團扇片手の浴衣がけ、誰もゐないと思つて間每まごと々々〳〵の普請でも見步いてゐたらしい綺麗な男である。年は二十七八、剃つた眉の痕へ墨を引き、髮を五分刈にした中肉中ぜい、すぐに役者と知れる樣子、藝名瀨川一糸といふ女形である。

お前の爲に別莊を建て、立派に引祝までして身受をしてやると云つたら駒代は二返事で承知するだらうと思ひの外、これは兎角はつきりした返答をしないので吉岡は侮辱されたやうに腹も立つ、又早くも掌中の玉を失つたやうに落膽もする。一體どういふ譯で自分のいふ事をきかないのか、女の心中を見定め、とても駄目なものなら此方こつちも男の意地、これなりきつぱり關係を絕たうと決心しながら、さて今日けふのあたり、いかにも素人しらうとらしい丸髷の艷かしくも崩れ亂れて、細帶しどけない姿を見ては、これが思ひ通り自分のものになつて新築の別莊に居たならと兎角未練な氣が出る……。

「駒代さんか。冗談じようだんぢやない。びつくりさせるぢやないか。」と一糸は片手を胸に殊更動悸を押へるふうをしてほつと大きな息をついた。

「駒代、一體お前はどうしてす氣になれないんだ。乃公おれを信用せんのだな。」

「誰もゐやしないわよ。あたい一人置いてき﹅﹅﹅﹅堀なのよ。」

「力次の方はもう切れたも同樣ぢやないか。昨夜もあれほど話したのにまだそんな事を云つてゐるのか。濱町はもと〳〵きまつて世話をしてゐるんぢやなしさ。そんなに不安心ならまアそれでいゝさ。」

「兄さん、びつくりして。御免なさいよ。」

「信用しなかないわ。ですけれどさ……。」

「何がつて。おつれはだれなの。東京へ行つたら奢つて頂戴よ。」

「何がさ。」

「まだ胸がどき〳〵してゐるぢやないか。譃ぢやない。そらさはつて御覽。」と一糸は無造作に駒代の手を取つて其胸を押へさせた。

「どうせとまつて行くんだらう。後で又逢はうよ。」

「だつて無理だわ。あなたには力次姐さんがついて居るんだし、それから濱町の村咲の内儀おかみさんもあるんでせう。ですから私なんぞそれア一時はいゝかも知れないけれど、きつと直にいけなくなつてよ。」

「そら見ろ。矢張信用しないんぢやないか。」

「さうかい。それぢやお前さんと私と二人ぎりだね。内儀おかみさんは用たしにはまへ行つたんだとさ。」

「さう、女將おかみさんもお留守なの。」

「お樂しみねえ。兄さん。」

「お前さんこそ。人知れずしけ込﹅﹅﹅んでゐる處を、お邪魔樣でしたね。」

「いゝよ。今に仕返しかへしするよ。」

「あら兄さん、あやまつてるぢや無いの。兄さんが惡いのよ。だまつてそんなとこに立つてるんですもの。」

「あらにいさん。」

「あなたすぐおこるんだもの。ちよいと――。」と女はきつぱり云切つた男の調子に忽ち鼻聲になり、男の胸の上に顏を押付けた。

にいさんは駒代の髮も亂れ裾も亂れた姿をぢろ〳〵見ながら、猶もその手を握つたまゝで、昨日明治座が千秋樂らくになつたから二三人で約束してこゝへ花を引きに來たのであるが、まだどうしたのか誰も來ないと云ふのである。

二人は佇んだまゝ暫くは默つて顏を見合はしてゐた。

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