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四 むかひ火

夜通し人の出盛る銀座の草市も早や昨日と過ぎて、今日の夕暮おそしと藝者家の立ならぶ橫町々々をばお迎ひ〳〵と云つて呼步く物賣の聲、丁度その折から表通の新聞社からは何事の起つたのか、號外々々と叫んで賣兒の馳け出す鈴の響、彼方あなた此方こなたの格子戶からは火燧の響に送出されてお座敷へ急ぐ藝者の車、さても騷々しい町中の夏の夜を空には新月の影宵の明星と共にいかにも凉し氣に輝きそめる。

がらりと尾花家の格子戶を明けて出た老人、「なんだ號外だな、また飛行機でも落ちたんだらう。」

長治郞と十吉の間には二人の男の兒が生れた。老人は長男の庄八に學問させ立派な人物にして、潰れてしまつた先祖の家を興させたいを思つてゐたが、藝者家の疊に生落ちた庄八は小學校へ通ふ頃から早くも遊藝を嗜む性質を示し始めたので、父親はきびしい意見の末再三手荒な折檻までした事があるが、遂に詮方つきて、そんなら一層其の方面で名を揚げさせるより仕樣がないと、十二の時市川團洲に賴込んで弟子にして貰つた。庄八は市川雷七と云ふ名を貰ひ團洲の歿後二十の時に名題に昇進して仲間から妬み嫉まれた程な人氣役者になつたが、不圖流行風邪から急性肺炎に冒され脆くも命を取られてしまつた。

老人は小說家を奧の四疊半に案内した。こゝは狹い尾花家の家中うちぢゆうでは先一番のお座敷、老人と其の女房同樣な老妓十吉とが幾年間起伏してゐる居間で、佛壇も飾りつけてある。わづかに二坪ほどながら石燈籠に火まで入れた中庭を隔てゝ、藝者の出入りする表口の六疊、往來へ張出した櫺子窓や格子戶が濡緣の葭戶越しに遠く透いて見え、涼しい夜風は隣の二階との隙間ひやあひから絕えず吹通つて軒の風鈴を鳴してゐる。

老人、名は木谷長治郞と云つて嘉永元年の生れ、本所金糸堀邊に住んでゐた小祿な旗本の嫡子あとゝりで、八代目三升そつくりといふ美男子だつたとやら、もし世が世なりせば宛然人情本中の人物たるべきを、丁度二十の聲を聞いた時幕府は瓦解して世襲の扶持に放れ、それからはいろ〳〵士族の商法に失敗した末は遂に藝が身を助ける不仕合。長治郞は少い時分から好きで覺えた講釋で口を糊りしやうと思立ち、當時名の賣れた一山といふ軍書讀みが亡父の知己であつたのを幸ひ其の弟子となり吳山と名乗つて高座に上つたが、性來の辯才と男前の立派なので忽の中に賣出した。する中に新橋尾花家の娘の十吉がさる贔負のお座敷で見染めて入り揚げ、とう〳〵晴れて亭主にしたのである。

尾花家の主人は倉山先生の注文には誠に以て來いといふ老人である。老人の方からも倉山先生は又とない咄し相手である。いそがしい今の世の中、何處どこへ行つたとて倉山先生ほど飽きずに謹んで老人の愚痴や自慢咄を傾聽してくれる人のあらう筈はないので、暫く姿を見せないと先生はどうかしなすつたのぢや無いかと老人の方から心配する位である。

倉山は成程々々と謹聽の態度を示し、そつと懷中から覺書の手帳を取出して老人の談片を書取る用意をした。倉山は誰に限らず年寄つた人の口から親しく過ぎ去つた世の話を聞き、それを書取つて後の世に殘す事をば操觚者たる身のつとめのやうに思つてゐるので、新橋邊まで來たついでには必ず尾花家を尋ねるのである。

倉山はぽんと灰吹を叩いて、「いつも御賑かですな。幾人いくたりお居でゞす。」

何ともつかず空を見上げる後から可愛らしい半玉の聲、「旦那、もうお迎ひを焚くんですか。」

云ふ中にも表通から吹通ふ夜風に迎火はパツと燃え上つて、白粉を濃くつけたお花の橫顏を紅く照らす。老人は蹲踞しやがんで手を合せ、

ゴムでこしらへた鬼灯を鳴らしてゐるお酌の花子には老人の獨語が却て不思議に思はれたらしい。

「駒代姐さん――御座敷です。」

「相變らず取り散らして居りますが、どうぞ、お羽織をお取なすつて……。」

「無い事もありません。實は一昨年三囘忌の時にもさういふ話しはあつたんですが、うちの小憎にはちとぶんに過ぎた事だと思つて其のまゝにしてしまひました。」

「旦那、千代吉姐さんのとこでも、あらお向うでも方々で燃してるわ。奇麗だわねえ。」

「旦那、お盆に三日月さまが出るとなんなんです。」

「旦那、いゝこと。燃すことよ。」

「旦那、あたいが火をつけて焚いて上るわ。」

「新橋中でも此方こちら看板かんばんなぞは一番古い方でせうな。明治何年時分からです。」

「庄八ですか、六年目です。」

「左樣です。老少不常人の命ほどわからないものはありません。」

「左樣さ、わたしがそも〳〵この土地で始めて遊んだのが、忘れもしない西南戰爭の眞最中でしたからな。その時分にやうちの十吉のお袋がまだ逹者で娘と一諸に稼いでゐましたつけ。世の中はまるで變りましたな。其の時分にや新橋と云つたらまづ當今の山の手見たやうなもんでしたね。藝者は何と云つても矢張柳橋が一でしたな。それから山谷堀、葭町、下谷の數寄屋町なんぞといふ順取りですかな。赤坂なんざつい此方まで蕎麥屋の二階へお座敷で來て、二貫も御祝儀を遣りやすぐ轉ぶつていふんで皆珍らしがつて出かけたもんでさ。」

「大丈夫よ。」と云ひ捨てゝ、半玉の花子は公然おほぴら惡戲いたづらが出來る嬉しさ、あたふたとお迎火を路傍みちばたへ持運んだ。

「只今大きいのが三人に小さいのが二人ですから、いやどうも騷々さう〴〵しいこツてす。」

「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。」

「六年、早いもんですな。ぢや來年は七囘忌ですな。」

「先生、さア、どうぞ。」と老人は格子戶をあけたが小說家は佇んだまゝ迎火の烟立迷ふ橫町を眺め、

「先生、いらつしやいまし。」

「仰せの通り何事も好かれ惡かれ御贔負のお心まかせ。老人は口を出さない方がいゝかも知れません。」

「今年は方々で追善興行がありますが。どうです來年あたりは庄さんの七囘忌……まだどこからもそんな話はありませんか。」

「云ひませうか。御主人の前で云つてもいゝなら云ひますぜ。はゝゝゝは。」

「や、これは、この間の演藝會は結構な出來でしたな。おごつてもいゝ事がありさうです。」

「もう四五年壽命があつたら少しア見られるやうになつたんでせうが、何しろ若輩だ。二十三や四で死んだんぢやいくらたちがよくたつて、まだまだ此れからといふ修行中の身ですからな。惜しいと思ふのはまア内輪の人情、また御贔負の慾目だ。それにあまへて一代の名人見たやうにやれ三囘忌だの七囘忌だのと大袈裟に追善會なんぞ持出すのは冥利に過ぎますよ。」

「はアい。」と返事をして、「先生、御ゆるり……。」と駒代は靜に立つて行つた。

「どれ、どこに……。」と老人は燃殘りの迎火に水打つ手をとめて、「成程、子供は目が早いな。」

「そうツと持つて來なさい。炮烙をこわしなさんな。」

「さうだな。」と老人は兩手を後に猶も空を見上げながら獨語ひとりごとのやうに、「お盆だといふのに今年は三日月樣が出てゐる。」

「これさ。さう一ときに燃さずと……あぶねえから、そろ〳〵やんなさい。」

「お彼岸とお盆だけは今だに昔らしい氣がしますな。時にお宅の庄さんは……もう何年目になります。」

「お前さんの氣性から云へばそれも尤さ。然し以前の御贔負筋から自然とさういふ話が出たんなら、何も此方こつちから無理に賴んで人樣に御迷惑をかけるのぢやないからね。いゝやうにまかして置いたらどうです。」

「お佛壇の下にお迎ひが買つてあるよ。いいだ。持つて來ておくれ。」

「いや、結構、いゝ風が來ます。」と小說家の倉山くらやま先生は、扇子をぱち〳〵させながら、興味あり氣にあたりを見廻してゐる折から、煙草盆に菓子鉢を持つて來たのは藝者の駒代である。駒代は既に二三度こゝで倉山先生を見知つてゐるばかりでない。宴會や御座敷でお酌をした事もあるし、芝居や演藝會なぞで折々見掛ける事もあるので馴れ〳〵しく、

「いや、お變りもありませんか。」と二三軒先から老人の姿を見て一寸麥藁帽子に手をかけ往來の水溜りを大股に踏み越して進寄つたのは、お酌の花子から根岸の先生と云はれた新聞小說家倉山南巢といふ人である。年は四十前後白薩摩に無地透綾すきやの羽織、白足袋に雪駄をはいた樣子、會社員とも見えず商人とも見えず、さうかと云つて藝人とも思はれぬ風采をしてゐる。多年休みなく都下の諸新聞に續物を書いてゐる傍折々芝居の狂言もかく。淨瑠璃もかく。演藝の批評もする。そんな事で世間にはかなり名が賣れてゐるのである。

「あら、旦那、根岸の先生がいらしつてよ。」

「あら、嬉しいわ。わたし見たやうなものでも、おごる筋があるんなら何でもおごりますよ。」

ぶんに過ぎるといふ事もないでせう。兎に角惜しい藝人でしたな。」

仰有おつしやる事があるなら仰有いまし。そんな弱身はない筈なんですから、ほゝゝゝほ。」とはなやかに笑ひながら立掛けた時、表の方から半玉の花子が甲走かんばしつた聲で、

家每いへごとに焚く迎火の烟にあたりは何となく電話や電燈の新しい世の町には似合はしからぬしんみりした趣を示した。尾花家の老人はいつまでも地にかゞまつて長たらしく念佛を唱へてゐたが、やがて兩手に腰をさすりながら立上つた。年齢としはもう何年か前に六十の坂をも越してしまつたに相違ない。見るから古ぼけた洗晒しの帷子に女帶の仕立直しと覺しい黑繻子の帶を締めてゐるので、腰はまださして目に立つほど曲つてはゐないが、手足のよく透けて見える老體は全く骨ばかりのやうにいたいたしく思はれた。頭はきれいに禿げ頰は落ちてしまつたが、眞白な眉毛だけは筆の穗のやうに長く垂れてゐるのが、いかにも福々しく、衰へながらぱつちりした眼付と、凛々りゝしい口元、品のいゝ鼻筋、どうしても根から藝者家の亭主とは見受けられぬ容貌かほだちである。

丁度その頃に庄八の弟なる次男の瀧次郞――これは中學校も卒業間近まで進んでゐたが、或時各區の警察署で不良少年の検擧をした折、どういふ譯かその嫌疑で呼出され說諭を喰つた爲め中學は退校されてしまつた。それや此れやで老人はひどく世をはかなんだ矢先、講談師仲間と席亭の悶着が起り、老人はむしやくしや腹で四方八方へ當散した揚句、講釋師の鑑札を返してしまつた。

老人は根からの藝人ではないので、いつも頑固な事を云出して仲間のものから嫌はれてゐた。自分だけでは心底あきらめて世をも自分をもすつかり茶にしてゐるつもりであるが、知らず〳〵昔の氣位と性癖を現はすのであつた。師匠の一山が生きてゐた時分には折々宴會や御座敷なぞへも招れて行つたが、或時、さる成金紳士の新宅開に呼ばれ、御さしさはりになるやうな事をば興に乗じて滔々と辯立てゝ大失敗おほしくじりをやつた、其れ以来、お座敷藝は窮屈でいけないと云つて、どこから呼ばれても一切斷つて寄席の高座ばかりを勤めてゐた。講釋は高座で自由氣儘にやらなくちや面白いものぢやアねえ。吳山の講釋が聞きたけれア華族樣でも紳士でも寄席へ來るがいゝ。吳山は職人衆の前だらうが、紳士の前だらうが、相手を見て話をするんぢやねえと昔の風流志道軒もよろしく老いて益々壯に善く罵り善く人を笑はすので、これが却て人氣となり吳山の席は二八月の不入な時節にも相應に客足を引くのであつた。

倉山南巢が老人と懇意になり出したのもつまりは久しく吳山の出る席の定連であつた事からである。

「もう一度出て見る氣はありませんか。お前さんがしてからわたしもとんと講釋場へは行きません。」

「何しろかういふ世の中になつちやもう駄目だ。講釋なんぞゆつくり聞いてゐやうといふ世の中ぢや御座んせんよ。」

「今の世の中は活動でなくつちや承知が出來ないのだからね。」

「義太夫も落語も總じて寄席はもうすたりでさ。」

「寄席ばかりぢやない。近頃は芝居も同じこツてすよ。考へて見るとそれも無理はないのさ。今の見物は藝を見やうとか聞かうとか云ふのぢやない。唯何でもいゝんだ。値段が安くて手取り早く一つ處でいろんな物が見たり聞いたりしたいと云ふんだから、これア活動に限りまさ。」

「全くさ。先生の仰有る通り、ゆつくり役者の藝を見てやらうとか講釋師の讀振りを聞いてやらうとか、そんな事は今のお客にや面倒で面白くないんですね。だから席亭は不入でも講談筆記は賣れるといふぢやありませんか。わしは蓄音機の藝と講釋の筆記はどうも好きませんて。ねえ、先生、一體何にかぎらず藝といふものはつてゐる中に知らず〳〵氣乗りがして來るもんだ。其の氣乗が自然とお客へ移る。そこでお客の方も知らず〳〵氣を取られて力瘤を入れるやうになる。そこが藝の不思議といふもんで、きく方とやる方の氣合が通じ合つて來なかつたら藝にはならない。さうぢやありませんか。」

老ぼれた講釋師と古手の小說家とは冷えた澁茶に咽喉のどを潤しながら互に氣焰を吐く最中、

「おや入らつしやいまし。」と葭戶を片よせて這入つて來たのはこの家の女主人尾花家十吉であつた。

身丈せいのひくい橫幅の廣い肥つた婆さんである。然しよく待合や料理屋の女將にあるやうな見るから憎々しく肥滿し、人を見れば無暗とお世辭たら〳〵後を向けばすぐ舌を出しさうなふてぶて﹅﹅﹅﹅しい樣子は少しもない。眼の圓い頰の垂下つた福々しい顏立は誰が目にも腹藏のない好い人だと見える。今お座敷からの歸りと覺しく絽の鮫小紋に絽朱珍の帶を〆めた着こなしから一體の身體からだつき何となく落ちついて當世らしからぬ處、新橋の藝者といふよりは河東か一中節の師匠とも云ひたである。十吉は全く見掛けの通り同じ年頃の老妓からも又生意氣盛りの若いからも誰からも惡く云はれた事のないく隱な女である。十吉と同じ年頃の老妓逹はいづれも此の土地のはゞきゝでみんなから大姐おほねえさんで立て通されてゐるが、十吉はさういふ幅きゝの老妓逹のなす事には善惡ともに一切口を出した事がなく萬事組合の世話人のなすまゝにまかしきつて置くので、さういふ人逹からは十吉さんはかどのない物のわかつた人だと云はれてゐる。飜つて組合中へはゞがきかしたくもかす事の出來ない一部の不平連中または老妓でもなく若くもない中途半端な自前の姐さん逹からは十吉姐さん見たやうなさつぱりした慾のない人はないと感心されてゐる。時によつてはもう少し十吉姐さんに何とか口をきかせるやうにしたらばと氣の毒がられもするのである。然し十吉にはこの年になつて殊更面倒な組合の世話人なぞになつて、演藝會だの踊のさらひなぞの指圖さしづをして幅をきかせ自分の家の抱えを無理にも賣出させやうといふ程の必要がないのである。それも長男の庄八が逹者でゐて今時分は立派な役者になり、又次男の瀧次郞が首尾よく學校でも卒業して末に望があるやうならば、身を粉にして稼ぎもし金をためもしやうけれど、一人は死んでしまひ、一人は不良少年となつて勘當同樣義絕同樣今では父の手前表向は出入をさせぬやうになつてゐるので、云はゞ自分と亭主の吳山と二人ぎりもう先の知れた餘生を送つて行けるだけのものさへあればよいのである。それには新橋開けて以來ずつと賣込んだ店だけにわきから是非置いてくれと賴込まれる抱もあるし自分も出てさへゐれば年來御贔負のごく手堅いお客樣があるので結構その日の商賣は出來て行く。それにつけ思ふまいとしても思出されるのは矢張忰の事ばかり……。

十吉は靜に佛壇の前に坐つて念佛を稱へた後御燈明を消して扉をめ、表口の六疊へ戾つて絞の浴衣に着換へ何やら箱屋の婆さんと話をしてゐる中、來客の南巢先生は吳山老人に送られて歸りかける。

「アラお歸りですか、先生、まア御ゆつくりなさいましな。」

「ありがたう、その中また御邪魔に出ます。」

「久振で編笠でもさらつて戴かうと思ひましたのに。」

「はゝゝゝは。さういふ事ならいよ〳〵以つて長居は出來ませんな。この頃はもうとんと怠つて居ます。師匠にお會ひでしたらよろしく仰有おつしやつて下さい。」

「それではまたお近い中に……。」

十吉は老人と一しよに奧の間に這入つて煙草を一服したが、仔細あり氣に「お前さん。」と呼掛けて、「駒代は二階にゐますか。」

「今方出たよ。」

わたしやちつとも知らなかつたけれど、あの、何だつてね、この間から濱崎さんへ行くのは力次さんの旦那に呼ばれてゐるんだつてね。」

「ふう、さうかい。」と老人は夏蜜柑の皮を干した煙草入を光澤つやぶきんできはじめた。

「實は二三日前力次さんと一所になつたんだよ。すると何だか妙な事を云つてるから變だとは思つたけれど、さうとは氣がつかなかつたのさ。處が今夜すつかりお客樣から其の事を聞いてはゝアと思つたのさ。」

「ぢやアあれも見掛によらずなか〳〵腕があると見えるね。」

「何だか私が知らない顏をして取持でもしたやうに思はれるといやぢやないか。」

「何さ、なまじ口を出さねえがいゝ。打捨うつちやつて置きなよ。出來る前に相談でもされたんなら知らねえ事出來てしまつた後ぢや仕樣がないやな。だが此の頃の子供は皆いゝ腕だな。あのばかりに限つた話ぢやねえ、此の頃のは義理といふ事を構はねえのだから何處どこへ出しても强いもんさ。」

「ほんとうだよ。今夜いろ〳〵話を聞いたんだがね、旦那の方から身受の話まで持出してあるんだとさ。引かして世話をしてやらうと仰有つてるんださうだけれど駒代の方ではつきりした返事をしないんだとさ。」

彼奴あいつもこの頃は大分出るやうになつたんで、何か途方もねえ夢でも見出したんだらう。」

「まアあゝして稼いでゐてくれゝばうちぢやそれに越した結構な事はないんだけれど、誰にしろいつまでも若くつてゐるんぢや無いからね、世話をしてやらうといふ方があるなら、そのかたの云ふなりになる方が當人の爲めだらうがね……。」

「一體その旦那といふのは何處のお方だ。華族さまか。」

「力次さんの旦那なんだよ。」

「だからその旦那といふのはどう云ふ方だ。」

「お前さん、知らないのかい。そら、あの何とかいふ保險會社の方だよ。三十七八かね、まだ四十にやお成りなさるまいよ。お髯のある立派な好い男さ。」

「大したものを見付けたな。それぢや商賣が面白くつて止められねえのも無理はない。旦那がいゝ男で道樂に六代目か吉右衞門でも色にすりやそれこそ兩手に花だ。はゝゝゝは。」

「お前さん見たやうな呑氣な人アありやしない……。」と十吉は呆れて腹も立てぬといふやうな顏付をして灰吹をぽんと叩いた。折から表の方で電話がしきりに鳴出す。「誰もゐないのかね。」と云ひながら十吉は退儀さうに立上つた。

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