腕くらべ在线阅读

腕くらべ

Txt下载

移动设备扫码阅读

三 ほたる草

箱屋から掛つた電話の返事をして駒代はそのまゝ座敷へ行かうとするのを帳場にゐたおかみ、

「あ、鳥渡、駒ちやん。」

駒代は突然何といふ譯もなく、あゝ藝者はいやだ、藝者になれば何をされても仕樣がない……さう思ふと私見たやうなものでも一時は大家の奧樣と大勢の奉公人から敬はれた事もあつたのにと覺えず淚ぐまれるやうな心持になる……

駒代は早速返事につまつてしまつた。勿論以前に出てゐた吉岡さんの事だから、今更別に否應いやおう云ふべき處ではない。吉岡さんなら全く結構なのである。然し久振りで呼ばれて直ぐ其の晩にさうなつてしまつては、お茶屋の手前何となく昔の丸抱まるがゝえの子供時分と同じやうに安ツぽく思はれやしないかと、唯その事が氣にかゝつたのだ。駒代は實のところ吉岡さんの方に其の心持があるのかどうかといふ事もまだ考へてはゐなかつたのである。何しろ久振偶然芝居で出逢つた其の歸りの事、もし吉岡さんの方にその氣があつて呼んでくれたのなら、何も初めての女ではなし、待合のおかみさん抔にさう云はずとも、直接ぢかに鳥渡まぜか何かで知らせてさへくれゝば、どんなに私の顏がよくなるか知れやしないのに……と少しむつとした氣にもなつた。

色戀の浮いた苦勞ではない。深く煎じ詰めて行つたら或はそれも屈托のもとになつてゐるかも知れないが、兎に角駒代自身では自分の苦勞はそんな浮いたものぢやないと堅く信じてゐる。駒代の思に暮れるのはこの身の行末といふ一事である。今年二十六と云へばこれから先は年々にけて行くばかり、今の中にどうとか先の目的めあてをつけなければと、唯譯もない心細さと、じれつたさである。十四の時から仕込まれ十六でお酌のお弘め其れから十九の暮に引かされて二十二の時に旦那の郷里なる秋田へ連れて行かれ、三年目に死別れた。その日まで駒代は全く世の中も知らず人の心も知らず自分の身の始末さへ深く考へた事はなかつた。旦那の死んだ後も秋田の家にゐやうと思へば居られない事はなかつたかも知れない。然しさうするには尼になつてゐるよりも猶一倍身をないものとあきらめてしまはなければならない。田舎の金持の一家親族どこを見ても自分とはまるつきりちがつた人の中に唯一人取殘されてこれから先一生を終へやうといふ事はとても町育の女の忍び得られる處でない。いつそ死なうかと思つた末はもう慾も德もなく東京へ逃歸つて來た。歸つては來たものゝ駒代は上野の停車場へつくと共に早速身の落付け處に困つてしまつた。生れた家とは何年となく音信不通なので最初抱えられて行つた新橋の藝者家より外にはこの廣い東京中にさしづめ尋ねべき家は一軒もない。駒代はこの時生れて始めて女の身一ツの哀れさ悲しさを身にしみ〴〵知りそめたと共に、これから先其の身の一生は死ぬなり生きるなり何方どつちになりと其の身一人でどうにともして行かなければならないのだといふ事を深く〳〵感じたのであつた。以前養女に抱えられてゐる家へ行けば當分の宿は勿論これから先の事も何とか世話がして貰はれるであらう、駒代はさう思うと同時に譯もない女の意地で、七年前には立派に引いて出た其の家へ今この途法に暮れ果てた身のさまを見せるのはいかにも辛い。死んでもあすこへは行きたくない……駒代は既に新橋へ向ふ電車に乗りながら唯只思案にくれてしまつた其の橫合から、突然女の聲で、しかも駒三と云つた昔の名を呼びかけたものがある。びつくりして其方を見ると其時分秋田の旦那が行きつけた待合の女中お龍といふ女である。聞けば幾年間辛棒のかひあつて、つい去年の暮から南地へ新しい店を出したといふので、駒代は無理やりにすゝめられるのを幸ひ一先お龍の家へ身をおちつけ、やがて今の家――尾花家の十吉といふ老妓の家からワケで出る事になつたのであつた。

云捨てゝ其のまゝ駒代は二階のお座敷へ立戾ると、電氣燈が杯盤狼藉たる紫檀の食臺ちやぶだいの上に輝いてゐるばかりで吉岡さんも江田さんも誰の姿も見えない。はゞかりへでもお立ちなのであらうと氣はついたけれど、何だか自分ながら譯も分らず妙に捨氣味な自暴やけなやうな氣になつて、打捨うつちやつて置けといふやうに、そのまゝ燈火の下にすわつてしまつた。すると普段の手癖になつてゐるのですぐ帶の間の化粧鏡を取出し鬢を撫でゝ白粉紙で顏を拭きながら、ぼんやり鏡の面を見てゐる中、駒代はどういふ譯ともなく日頃絕えず胸の底に往來してゐるいつもの屈托くつたくに暮れてしまつた。

すると駒代は甘つたれた聲をしながらも、素早すばやせんを越したつもりで、

「それぢや、おかみさん、時間にはいたゞかして頂戴よ。」

「おかみさん、いたゞいてもいゝでせうか。」

「あゝ、うかゞって御覽よ。」とおかみも馴れたもので煙草を一服しながら萬事もう咄はついてゐると云つた調子、「いつだつてお泊りになる事はないんだから……。」

丁度その時急しさうに廊下を走つて來た女中が、「あら、駒代さん、こゝに居たの。」と座敷の杯盤を取片付けながら、「あちら、あの離れのお座敷ですよ。」

2.05%
三 ほたる草