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二 逸品

「今晩はようこそ……。」と濱崎といふ待合の女將おかみ恭しく手をついて次の間から、「どちらのお歸りでゐらつしやいます。」

「帝國座へさそはれた。藤田さんの義理で女優劇の見物だ。」と袴をぬぎかけてゐた吉岡は立つたまゝで、「女優の旦那になるのも並大抵ぢやないね。始終しよつちう見物をこしらへてやらなくちやならんやうだから。」

江田はわざと飛上るやうに坐り直した。

女中が戾つて來て、「駒代さんはお芝居ですつて。すぐに伺ひます。」

兎角する中に、やがて廊下に足音がして、「姐さんこちら……?」

今度は女中を座敷へ殘して女將が電話の返事にと立つた。

おかみは怪訝けげんな顏をして吉岡の方を見ると吉岡は唯にや〳〵笑つて葉卷をふかしてゐる。女中が酒肴を運んで來た。江田はいそがしさうに一杯を干して女將おかみにさしながら、

「駒代さん……。」と女將は女中の顏を見る。

「萬事よさゝうですな。一人の方が話が早うござんすからな。」

「笑ふ奴があるか。失禮なやつだな。」

「矢張藝者衆の方が無事でございますよ。」と女將は紫檀の食卓の側へ座を移し、「江田さん、大層お暑さうですね。お着換へ遊ばしたらいかゞです。」

「畏りました。」と女中はついで急須茶碗を盆にのせて立去る。女將は杯を江田に返しながら、

「江田さん先刻さつきから何がをかしいんですよ。」

「新奇のだよ。美人だぜ。」

「左樣さ。兎に角力次は呼ばない事にしよう。」

「大層御行儀がいゝぢやありませんか。」

「十吉さんも外の方もみんなもう少々伺ひかねるツて云ふんでございますよ。どう致しませう。」

「來ましたよ。一昨日の晩も鳥渡御挨拶に來たぢやありませんか。そら、千代松さんのお座敷で……。」

「何なりと伺ひませう。」

「何だか狐につまゝれたやうですね。あなた。」

「何だかまるで譯がわかりませんね。」

「をかしいから仕樣がない。お前知らないのか。駒代つていふのはあれア僕の藝者だぜ。先に七年ほど前だ、この土地に出てゐた時分一時は隨分騷がれたものだぜ。」

「まあいゝ。それからほかやつはどうした。」

「ほんとうならとはなんだい。うたぐりつぽいやつだな。お蝶。その時分には僕だつて禿げちや居ないよ。もつと痩せて居てすらりとしたもんだ。見せたかつた位のものだぜ。」

「はゝゝゝは。」と江田は覺えず笑ひ出した。

「はゝゝゝは。」と江田は再び大聲に笑出す。

「はゝゝゝ。わからないのも尤だ。今夜急に湧いた話だからな。實は僕も大に面食つたんだよ。はゝゝは。兎に角かうしてゐる中も返事が待ち遠しいて、來られるか知らん。」

「はい〳〵。どういふ處をかけますんです。」

「なに暑くつても今夜は我慢しよう。浴衣つていふ奴はどうもよくない。伊勢音頭の芝居で切られる奴見たやうでな。」

「だから賴みたい事があると云つたぢやないか。あとで追々わかるよ。」

「それは全くの話だ。僕が證明するよ。一時江田さんに熱くなつてゐたんだがね、譯があつて別れたんだとさ。そこで今夜が十年ぶりの御對面なんださうだ。」

「それでもあなた……。」

「それから後は誰にしやうかな。十吉も暫らく呼びませんな。」と江田は吉岡の方を顧みて、「一しよの家のものがいゝでせう。」

「さア。」と江田は吉岡の方を見ながら「來られたら來いと云つて置かうぢやありませんか。」

「さうして貰はう。」

「お蝶。一杯やらう。」と吉岡は女中へさして、「お前、知らないか。駒代にはだれかきまつた人があるか。」

「お十さんとこの、さうかい。」と女將は始めて會得した體で、杯を下に置き、「家へはまだ來なかつたね。」

「おかみ、實はすこし賴みたい事があるんだがね……」

「いゝ藝者衆ですわねえ。」と女中は巧みに逃げて、「先に此の土地にゐたんですつてね。」

「いゝから安心して見ておゐで、今にはなしが段々面白くなるから…。」

「あゝさう〳〵。それぢや、ぽつちやりした小作りの…年を取ると何もかもみんな一緖くたになつてしまふんですよ。」

「あゝお十さんとこの……さうでせう。」と女中は直樣思付いたらしい顏付。

「ありがたい。今夜はおゆるしで我輩が御主人役だ。いゝか、それで藝者もいつものとはまるでちがつたのを呼んで貰ふんだ。」

「あら、どうして、あなた。」

「あら、さう、ほんとうなら隨分お安くないわね。」

「あら、あなたが、ほゝゝほ。」

「あら……喫驚びつくりするぢやありませんか。」

大急おほいそぎで駒代をいふのを掛けて貰はう。駒代だよ。」

襖を明けたのは駒代である。

髮はつぶしに結ひ銀棟ぎんむねすかし彫の櫛に翡翠の簪。唐棧柄のお召の單衣ひとへ。好みは意氣なれどその爲め少しふけて見えると氣遣きづかつてか、半襟はわざとらしく繍の多きをかけ、帶は古代の加賀友禪に黑繻子の腹合、ごくあらい絞の淺葱縮緬の帶揚をしめ、帶留は大粒な眞珠に紐は靑磁色の濃いのをしめてゐる。

「先程は……。」と挨拶したが新しい顏の江田がゐるのに心付いてか少し調子を改めて、「今晩は。」

江田は早速杯をさして、「今まで芝居にゐたのかい。」

「はい。あなたもらしつて?」

「歸る時實はさそはうと思つたんだがね、どこにゐるのか分らないもんだから……。」と云ふ中にも江田はさりなく駒代の衣裳から持物から座敷の取持樣までにあまねく心をつけた。何も直接自分の身に關係する事ではないが、江田は色氣なしに斯ういふ場所で賑かに騷ぐのが好きなので、吉岡の爲めに今夜は駒代といふ藝者の値打ねうちをば岡目八目眞實しんじつ間違まちがひのないところを見屆けやうと思つたのである。一口に新橋の藝者とはいふものゝ其中には天から切まである事を知つてゐるので、何ぼ昔のお馴染だからと云つてあまり安ツぽい藝者では吉岡さんの顏にかゝはる。書生時代の吉岡さんと今日實業界に其人ありと云はれた吉岡さんとは少し事がちがふと、江田は眞實の老婆心から今夜ばかりは醉つてはお役がすまぬやうな氣がしてゐるのであつた。

御當人の吉岡は猶更の事である。現在駒代の身の上はまるで抱えか見世借りか又は遊び半分の勤めか、その邊の事情まで、口に出して野暮らしく聞く必要はない。衣服の着こなし座敷の樣子萬事を綜合して日頃藝者を見馴れたものゝ眼力で一見して推察してしまはうと思つてゐる。

駒代は江田に貰つた杯を鄭寧に洗つて返し行儀よく酌をしながら、これも客商賣の經驗で、無論しかとはわからぬけれど今夜初對面の江田さんと吉岡さんとの關係も大槪は見當がついたものゝ然し猶大事を取るつもりらしく、何とも付かぬ世間ばなし。

「芝居ももう暑くつていけませんのね。」

「駒代。」と吉岡は突然ながら然し極めて親しい調子で、「お前いくつになつた。」

わたし……年のことはよしませう。吉岡さん、あなたは。」

わたしはもう四十さ。」

「噓ですよ。」駒代は子供らしく一寸首をかしげ指を折つて數へながら獨語のやうに、「あの時私が十七……ですもの。それから……。」

江田はそばから「おい〳〵人前があるよ。」

「あら堪忍して頂戴。つい……。」

「あの時だの其時だのと、一體それアどういふ時だ。」

駒代は愛嬌の糸切齒を見せて笑ひながら、「吉岡さん。あなた、まだ半分位ぢやありませんか。」

「今夜は一ツ身の上話を聞く事にしよう。」

「あなたの……?」

「お前のさ。私が洋行してから後何年程出てゐたんだ。」

「さうねえ。」と駒代は扇子を弄びながら一寸天井の方へ上目を使つて考へながら、「彼れこれ二年ばかしも稼いでゐましたわ。」

「さうか、ぢや私が洋行から歸つて來たのと彼れ此れ同じ時分だつたかも知れん。」吉岡は心中駒代は其の時誰に引かされたのかと云ふ事をきゝたいと思つたが、云ひ出しかねて、さあらぬふうに「素人しろとより矢張藝者の方がいゝかね。」

このんで出た譯ぢや無いんですけれど、藝者より外に仕樣がなくなつてしまつたんですもの。」

「一體、今まで奧樣になつてゐたのか、お妾でゐたのか、どつちだい。」

駒代は盃をゆつくり干して下に置き其のまゝだまつてゐたが決心したやうに、「隱してゐたつて仕樣がないわね。」とすこし膝をすゝめて「一時はちやんとした奧樣になつたのよ。あなたは洋行なすつておしまひなさるしさ、其の時分私も實は少し悲觀してたのよ。ほゝゝゝほ、あら噓ぢやない事よ。それでね、丁度その時分田舎の大盡の若旦那で東京こつちの學校へ勉强に來てゐらつした方があつたのよ。世話をしてやるからと仰有るんで其の方で引いたんです。」

「さうか。」

「その當座はお妾でゐましたの。する中に是非お國へ行けツて仰有るんでせう。お國へ行けばほんとの奧樣にしてやるからと仰有るのよ。いやでしたけれど何時いつまで若いんぢやなし、奧樣になれゝばとさう思つたのが淺果敢だつたんですね。」

「どこだへお國つて云ふのは……。」

「何でもずつと彼方あつちの方よ。そら、あのさけの出る方よ。」

「新潟だね。」

「いゝえ。ちがふわ。北海道の方ですよ。あの秋田ツて云ふ處、寒くつて〳〵實にいやな處でしたわ。忘れもしないわ。三年辛棒したんですもの。」

「とう〳〵爲切しきれなくなつたんだね。」

「それがツて云ふのが、あなた。旦那ツて云ふかた死亡なくなつたんですよ。さうなると私はもと〳〵藝者でせう。親御さんはお兩方ふたかたともちやんとしてゐらつしやるし、それに弟御さんが二人もあるんですもの。なんだのだのつて、わたし一人居られたものぢやないわ。」

「さうか、わかつた。息つぎに一杯……。」

「すみません。」と駒代は江田に酌をして貰つて、「さういふ譯ですから何分御贔負に願ひます。」

「外の藝者はどうしたらう。もう來ないかな。」

「まだ十一時前ですが。」と時計を出して見たが、江田は丁度其時電話だといふ知らせに席を立つ駒代の後姿を見送つて、聲をひそめ、

「なか〳〵いゝですな。逸品ですぜ。」

「はゝゝゝは。」

「誰も來ない方がいゝでせう。ところで僕も今夜はこの邊のところで消えてしまひませう。」

「なに、それにや及ばんよ。何も今夜にかぎつた事ぢやない。」

「乗掛つた舟でさ。當人だつてもう其の氣でせう。恥をかゝせるのは罪です。」江田は自分の前にあつた杯を二ツとも一度に片付け、遠慮なしに吉岡の煙草入から葉卷を一本取出しマツチをすりながら立掛けた。

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