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一 幕あひ

幕間まくあひに散步する人逹で帝國劇場の廊下はどこもかしこも押合ふやうな混雜。丁度表の階段をば下から昇らうとする一人の藝者、上から降りて來る一人の紳士に危くぶつからうとして顏を見合はせお互にびっくりした調子。

「あら、吉岡さん。」

舞臺からは早くも拍子木の音が聞える。駒代はそのまゝ自分の席へと廊下を右の方へ小走に立去つた。吉岡は反對なる左の方へと同じく早足に行きかけたが何と思つたか不圖立止つて後を振向いた。廊下には案内の小娘と賣店の女が徘徊するのみで駒代の姿はもう見えなかつた。吉岡は有合ふ廊下の腰掛に腰をおろして卷煙草に火をつけ思ふともなく七八年前の事を囘想した。二十六の時學校を卒業し二年程西洋に留學してから今の會社に這入つて以来こゝ六七年の間といふものは、思へば自分ながらよく働いたと感心する程會社の爲めに働きもした。株式へ手を出して財產をも作つた。社會上の地位をもつくつた。それと共に又思へばよく身體をこはさなかつたと思ふ程、よく遊びよく飮んだ。彼はいつも人に向つて得々として云ふ如く誠にいそがしい身體なので、過去つた日の事なぞは唯の一度も思返して見るやうな暇も機會もなかつたのである。ところが今夜偶然にも學生の頃始めて藝者といふものを知りそめた其の女に邂逅して、吉岡は自分ながらどういふ譯とも知らず、始めて遠い昔のことに思を寄せたのであつた。

洋服をきた身丈せいの低い肥つた男。二階の食堂で大分ウイスキイでも傾けたらしく惠比須のやうな圓い顏をば眞赤にし鼻の先には玉の汗をかきながら、「さつき電話がかゝりました。」

江田は顏中を皺だらけに身體からだ搖上ゆりあげて笑ひながらハンケチで額の汗を拭く、其の樣子なり其の物云ふ調子なり誰が見てもすぐ吉岡の幇間おたいこと知られるのである。縮れた薄い頭髮は大分禿げ上つてゐるが年はさして吉岡とは違つてゐるのでもないらしい。吉岡の切廻してゐる會社の株式係の一人で、宴會だの園遊會だのある折にはいつも接待係をつとめる處から、營業係長の吉岡さん同樣に花柳界には顏が賣れてゐる。何處へ行つても○○會社の江田さんと云へばお酒の好きな罪のない縹輕へうきんな方だと藝者は勿論お茶屋の女中までが心安立に折々は隨分失禮な事を云ふが江田は決して怒つたことがない。女逹から馬鹿にされたり挑戲からかはれたりすると益々調子に乗つてわざと自分から三文の値打ねうちもないやうに自分の身を輕く取扱ふ。然し家には子供が三人もあり其の長女はそろ〳〵嫁の口をさがす年頃だと云ふ事である。

江田は合槌を打ちながら廊下を地下室の廣い食堂へとついて行つた。

幕のあく知らせの電鈴が鳴る。各自の席へと先を爭ふ散步の人で廊下は一時ひとしきり一層の混雜。その爲め却て人目に立たないのを幸と思つてか、藝者は紳士の方へ鳥渡身を寄せながら顏を見上げて、

吉岡は眞實不思議さうに女の顏を目戍みまもるのであつた。この前藝者に出てゐた頃の事を思合はせると其時分十七八であつたから、七年たつたとすればもう二十五六になる譯だ。然し現在目の前に見る姿はお酌から一本になつて間もない其の時分と少しも變つてゐない。中肉中丈、眼のぱつちりしたしもぶくれの頰には相變らず深い笑靨が寄り、右の絲切齒を見せて笑ふ口元には矢張何處やら子供らしい面影が失せずにゐる。

吉岡は新橋に湊屋といふ看板を出してゐる力次といふ藝者をば三年ほど前から世話をしてゐる。然し有ふれた旦那のやうにたわい﹅﹅﹅なく鼻毛をよまれてゐるのではない。吉岡は力次の容貌のよくないことは其の目で見る通りよく承知してゐる。容貌はわるいが藝はたしかである。何處へ出してもまづ姐さんで通れる女である。吉岡は世の中の仕事をして行く上から宴會其の他の事で藝者の一人や二人は自分のものにして置く方が却つて何かの便利にもなるし又無駄な物費ものいりが除けると見て、此方こつちから打込んだやうな風を見せて手に入れたのであつた。

吉岡はそれやこれやの複雜な關係に比較して、相手の駒代はたしか十八自分はたしか二十五、互に何が何やら分らずに馴染を重ねた其の時分の單純な無邪氣な心の中を思返すと、自分ながら何となく芝居か小說でも見るやうな美しい心持がして來る。美しいだけにたわい﹅﹅﹅がなく又何やら眞實らしからぬ變な氣もするのであつた。

吉岡にはもう一人妾同樣にしてゐる女がある。それは濱町に相應な構をしてゐる村咲といふ待合の主婦おかみである。以前代地邊の料理屋の女中をしてゐる頃、吉岡は藝者遊にも飽きかけた人が往々にして飛でもない厄介を背負込むためしに漏れず、ふと醉つたまぎれに手を出したが、醒めて見るとお茶屋の女中なんぞに手をつけたといふ事が日頃宴會で出逢ふ藝者仲間に知られてはたまらないと後悔したのが、女の方のつけ目である。一切この事は秘密にして後腐あとくされなしにするからといふ約束で今の待合村咲を開業する資金を内々で出してやる事にした。村咲は運よく繁昌して每夜お座敷が足りない位の景氣、さうなつて見ると尠からぬ資金を出しつぱなしにして寄付かないのも馬鹿々々しいと云ふ氣が起つて、吉岡は一度二度と呑みに行く中いつか又内所で關係をつけた。おかみは色の白い肉付のいゝ大柄の女で今年三十になる。再三燒棒杭になつた後今はどうやら腐緣とでも云ふやうな間柄になつてゐるのであつた。

全く其の通りかも知れない。吉岡は今の會社に這入つてまだ十年にならないのに早くも營業係長の要路に用ひられ社長や重役から珍らしい才物だと云はれてゐるだけ、同僚や下のものにはあまり受のよい方とは云はれない。

何にも知らないあの時分には藝者といふものが何となく凄艷に見えた。そして藝者から何とか云はれるのが眞實嬉しくてならなかつた。今日あの時のやうな初生うぶな淸い心持にはならうと思つてもなれるものではない――吉岡は舞臺から漏れ聞える合方の三味線を耳にしながら、始めて新橋へ遊びに來た當時の事を思浮べ、我ながら可笑しくなつて獨り微笑を漏したが、それにつけて今は遊ぶが上にも遊馴れてしまつた身の上に思及ぶと、これは又一寸人には話も出來にくい程萬事が拔目なく胸算用から割出されてのみゐるのに、自分ながら少し氣まりの惡いやうな妙な氣がした。乃公おれはこんな方面にまであんまり悧巧に立廻り過ぎてゐた。どうも乃公は知らず〳〵細密こまかい處に氣がつき過ぎていかんのだと始めて自分を知つたやうな心持がしたのであつた。

「珍談とは一體何です。」とボオイの置いて行つたビイルを片手にしながら江田はいかにも聞きたさうに力を入れて、「まさか拙者を出拔だしぬいて新色のおのろけぢや有りますまいね。はゝゝは。」

「江田君、實はそんな事より今夜は少し珍談があるんだがね。」と吉岡は金口きんくちの卷煙草を江田にすゝめながら四邊あたりを見廻し、「食堂へ行かう。」

「江田君、ひやかしちやいかんよ。僕は今夜始めて女に迷つたやうな氣がした。」云終つて吉岡はあたりに人もやあると見廻したが廣い食堂には遠い片隅にボオイが二三人寄つて話をしてゐるばかり、見渡すかぎり人のゐない卓子テーブルの白布に電燈の光の照添うて其の上に置いた西洋草花の色をば一層あざやかに輝してゐるばかりである。

「屹度誰か連中の見物にでも來てゐたのが知らせたんでせう。お歸りに是非一寸でいゝからお寄り下さるやうにといふ事です。」

「小說見たやうな話があるといふのさ。」

「實は誰かと思つて少しは自惚うぬぼれましたね。ところが例の如くで、われながらチトお氣の毒でしたな。はゝゝゝは。」

「實はさう有りたいんだがね。」

「君は相變らずウイスキイだつたね。」

「君、力次は今夜僕等がこゝにゐるのを知つてると見えるね。」

「去年の暮から…………また出ました。」

「何てお久振なんでせう。」

「何ていつて出てゐるんだ。せんか。」

「や、こゝにおゐでゞしたか。先刻さつきから方々はう〴〵お尋ねしてゐたです。」

「また濱町の件ですか。」

「へゝえ。これア大分罪が深さうですな。」

「どこから。」

「どうぞ……。」

「ちつともお變りになりませんね。」

「その中、一度ゆつくりお目にかゝらせて頂戴。」

「さうですか。面白さうですな。」

「さうかな、お前こそ何だか大變若くなつたやうだぜ。」

「さうか。何しろ久振だ。」

「さうか。その中呼ばう。」

「さうか、もう七年になるかな。」

「お前、藝者をしてゐたのか。」

「おやお前は。」

「え、何です。」

「いゝえ、今度は駒代ツて申します。」

「いや全く變らないな。」

「いや、今夜は少し廻つてゐますからビイルにして置きませう。まだ腰を拔かすにはちつと早過ぎませうて、はゝゝゝは。」

「いや、そんな舊聞ぢやない。ロオマンスだ。」

「いつもの處です。」と身丈せいの低い肥つた男はあたりに人のゐないのを見定めて、吉岡の側に腰をおろし、「近頃は湊家の方へはあんまり御出馬がないと見えますな。」

「あれから丁度七年ばかり引いてゐました。」

「あら御冗談ですよ。この年になつて………。」

きみのところへ電話が掛かつたのか。」

「江田君これア眞實まじめな話だよ。」

「はゝア此の通謹聽してゐます。」

「いかんなア。いつでも君には冗談ばかり云ふもんだから……眞劍な話はどうもしにくい實はその何だ。先刻さつき階段の處で偶然出遇つたんだがね……。」

「ふむ〳〵。」

「僕がまだ學校にゐた時分知合つた女なんだがね。」

「お孃さんですか。どこかの奧樣になつてゐると云んでせう。」

「氣が早いな。素人しろとぢやない。藝者だよ。」

「藝者ですか。して見ると隨分早くから御修行なすつたもんですね。」

「あれが、その僕が道樂をし出したそも〳〵一番初めの藝者なんだ。其の時分駒三と云つてゐたんだ。さうさ、一年ばかりも遊んだかな。さうかうする中に僕は學校を出てすぐ洋行するんで、其の時には相應にまアかたをつけて別れたと思ひたまへ。」

「ふむ〳〵。」と江田は吉岡から貰つた葉卷を惜し氣もなくスパリ〳〵と吸つてゐる。

「七年ぶりで新橋へ出たんだとさ。駒代といふんださうだ。」

「駒代……うちはどこです。」

「名前を聞いたばかりだから、自分で店を出したのか、それとも借金をしたのか其の邊の事は何にも知らない。」

「外のものに内々で聞いて見ればすぐにわかりませう。」

「兎に角七年も引いてゐて又出たんだといふから何れ仔細があるに違ひないさ。今までどう云ふ方面の人の世話になつてゐたんだか、實はその邊の事も知つて置きたいんだがね。」

「大分御詮議がこまかうございますな。」

「仕方がないさ。かう云ふ事は始めに承知して置くが一番だよ。友達の女と知らずにくどいて、出來てしまつた後で恨まれるなんて云ふ話はよくあるやつだからな。」

「さう急に話が進んで來ちや拙者も愚圖々々しちや居られませんな。兎に角一度お姿を拜んで置きませうどの邊に居るんです。棧敷ですか。」

「今廊下で見たばかりだから、何處に居るか分らない。」

「お歸りにはどうせ何處へかおでゝせう。お伴しますから其の時ゆつくり手前に鑑定させて下さい。」

「よろしく賴むよ。」

「力次はいよ〳〵祇王妓女ですな。かわいさうに…はゝゝは。」

にあれアあれで構やせんよ。君も知つてる通りこれまでに隨分世話をしてやつたからね。僕が居なくなつたからつて、今ぢや抱も四五人居るし、きまつた座敷はあるし、困る事はないさ。」

廊下の方から無遠慮に大きな聲で話をしながら這入つてくるお客がある。吉岡はそれと氣付いて話と途切した。舞臺の方では立廻でもあるのか頻に付板を叩く響がする。

「おいボオイ、勘定……。」

吉岡は椅子から立つた。

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