きりしとほろ上人伝在线阅读

きりしとほろ上人伝

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三 魔往来のこと

さるほどに「れぷろぼす」は、いまだ繩目もゆるされいで、土の牢のやみの底へ、投げ入れられたことでおぢやれば、しばしがほどは赤子のやうに、唯おうおうと声を上げて、泣きわめくより外はおりなかつた。その時いづくよりとも知らず、ころもをまとうた学匠がくしやうが、忽然こつねんと姿をあらはいて、やさしげに問ひかけたは、

如何いかに『れぷろぼす』。おぬしは何として、かやうな所に居るぞ。」とあつたれば、山男は今更ながら、滝のやうに涙を流いて、

なれど隠者は悪魔ぢやぼ障碍しやうげなほもあるべいと思うたれば、夜もすがら御経の力にすがり奉つて、目蓋まぶたも合はさいであかいたに、やがてしらしら明けと覚しい頃、誰やら柴のとぼそをおとづれるものがあつたによつて、十字架くるすを片手に立ち出でて見たれば、これは又何ぞや、藁屋の前にうづくまつて、うやうやしげに時儀じぎを致いて居つたは、天から降つたか、地から湧いたか、小山のやうな大男ぢや。それが早くもあけを流いた空を黒々と肩にかぎつて、隠者の前に頭を下げると、恐る恐る申したは、

それにはさすがの隠者の翁も、ほとほとことばのつぎ穂さへおぢやらなんだが、やがてたなごころをはたと打つて、したり顔に申したは、

されば「れぷろぼす」はいよいよ胆をいて、学匠もろとも中空を射る矢のやうにかけりながら、をののく声で尋ねたは、

こなたはそのあばら家に行ひすまいて居つた隠者のおきなぢや。折から夜のふけたのも知らず、油火あぶらびのかすかな光の下で、御経おんきやう読誦どくじゆし奉つて居つたが、たちまちえならぬ香風が吹き渡つて、雪にもまがはうず桜の花が紛々とひるがへいだいたと思へば、いづくよりともなく一人の傾城けいせいが、鼈甲べつかふくしかうがいを円光の如くさしないて、地獄絵をうたうちかけもすそを長々とひきはえながら、天女のやうなこびこらして、夢かとばかり眼の前へ現れた。翁はさながら「えじつと」の沙漠が、片時の内に室神崎むろかんざきくるわに変つたとも思ひつらう。あまりの不思議さに我を忘れて、しばしがほどは惚々ほれぼれ傾城けいせいの姿を見守つて居つたに、相手はやがて花吹雪はなふぶきを身に浴びながら、につこと微笑ほほゑんで申したは、

「難儀かな。夜もすがら眠らいで居る事は如何あらう。」

「如何にも、その流沙河とやらの渡し守になり申さうずる。」と云うた。ぢやによつて隠者の翁も、「れぷろぼす」が殊勝な志をことの外よろこんで、

「如何なこと、それがしは聞えた大寝坊でおぢやる。中々眠らいでは居られまじい。」

「何を隠さう、われらは、あめが下の人間をたなごころにのせてもてあそぶ、大力量の剛の者ぢや。」とあつたによつて、「れぷろぼす」は始めて学匠の本性が、悪魔ぢやぼぢやと申すことに合点がてんが参つた。さるほどに悪魔ぢやぼはこの問答の間さへ、妖霊星の流れる如く、ひた走りに宙を走つたれば、「あんちおきや」の都の燈火ともしびも、今ははるかな闇の底に沈みはてて、やがて足もとに浮んで参つたは、音に聞く「えじつと」の沙漠でおぢやらう。幾百里とも知れまじい砂の原が、有明の月の光の中に、夜目にも白々と見え渡つた。この時学匠は爪長な指をのべて、下界をゆびさしながら申したは、

「何としてさほどつれないぞ。」と、よよとばかりに泣い口説くどいた。と見るや否や隠者の翁は、さそりに刺されたやうに躍り上つたが、早くも肌身につけた十字架くるすをかざいて、霹靂はたたがみの如くののしつたは、

「今もなほ、仕へようずる。」と答へた。学匠は大いにこの返事を悦んで、土の牢も鳴りどよむばかり、からからと笑ひ興じたが、やがて三度やさしげに申したは、

「はてさて、せんない仕宜しぎになられたものかな。総じて悪魔ぢやぼの下部となつたものは、枯木に薔薇の花が咲かうずるまで、御主『えす・きりしと』に知遇し奉る時はござない。」とあつたに、「れぷろぼす」は又ねんごろに頭を下げて、

「ならば断食は出来申さうず。」

「たとへ幾千歳を経ようずるとも、それがしは初一念を貫かうずと決定けつぢやう致いた。さればまづ御主『えす・きりしと』の御意みこころに叶ふべい仕業の段々を教へられい。」と申した。所で隠者の翁と山男との間には、かやうな問答がしかつめらしうとり交されたと申す事でおぢやる。

「それがしは『れぷろぼす』と申す『しりや』の国の山男でおぢやる。ちかごろふつと悪魔ぢやぼ下部しもべと相成つて、はるばるこの『えじつと』の沙漠まで参つたれど、悪魔ぢやぼ御主おんあるじ『えす・きりしと』とやらんの御威光には叶ひ難く、それがし一人を残し置いて、いづくともなく逐天ちくてん致いた。自体それがしは今天が下に並びない大剛の者を尋ね出いて、その身内に仕へようずる志がおぢやるによつて、何とぞこれより後は不束ふつつかながら、御主『えす・きりしと』の下部の数へ御加へ下されい。」と云うた。隠者の翁はこれを聞くと、あばら家の門にたたずみながら、俄に眉をひそめて答へたは、

「それがしは、帝にそむき奉つて、悪魔ぢやぼに仕へようずと申したれば、かやうに牢舎致されたのでおぢやる。おう、おう、おう。」と歎き立てた。学匠はこれを聞いて、再びやさしげに尋ねたは、

「それがしが繩目を赦いてたまはつた御恩は、生々世々しやうじやうよよ忘却つかまつるまじい。なれどもこの土の牢をば、何として忍び出で申さうずる。」と云うた。学匠はこの時又えせ笑ひをして、

「そもそもごへんは、何人でおぢやらうぞ。ごへんほどな大神通だいじんづうの博士は、世にも又とあるまじいと覚ゆる。」と申したに、学匠は忽ち底気味悪いほくそ笑みを洩しながら、わざとさりげない声で答へたは、

「さらばおぬしは、今もなほ悪魔ぢやぼに仕へようず望がおりやるか。」と申すに、「れぷろぼす」はかうべたてに動かいて、

「ごへんは御経おんきやうの文句を心得られたか。」

「これは『あんちおきや』の都に隠れもない遊びでおぢやる。近ごろ御僧のつれづれを慰めまゐらせうと存じたれば、はるばるこれまでまかり下つた。」とあつた。その声ざまの美しさは、極楽にむとやら承つた伽陵頻伽かりようびんがにも劣るまじい。さればさすがに有験うげんの隠者もうかとその手に乗らうとしたが、思へばこの真夜中に幾百里とも知らぬ「あんちおきや」の都から、傾城けいせいなどの来よう筈もおぢやらぬ。さては又しても悪魔ぢやぼめの悪巧みであらうずと心づいたによつて、ひたと御経に眼をさらしながら、専念に陀羅尼だらにし奉つて居つたに、傾城はかまへてこの隠者の翁を落さうと心にきはめつらう。蘭麝らんじやの薫を漂はせた綺羅きらの袂をもてあそびながら、嫋々たよたよとしたさまで、さも恨めしげに歎いたは、

「ここを南に去ること一里がほどに、流沙河りうさがと申す大河がおぢやる。この河は水嵩みづかさも多く、流れも矢を射る如くぢやによつて、日頃から人馬の渡りに難儀致すとか承つた。なれどごへんほどの大男には、容易たやす徒渉かちわたりさへならうずる。さればごへんはこれよりこの河の渡し守となつて、往来の諸人を渡させられい。おのれ人にあつければ、天主も亦おのれに篤からう道理ことわりぢや。」とあつたに、大男は大いに勇み立つて、

「かしこの藁屋わらやには、さる有験うげんの隠者が住居すまひ致いて居ると聞いた。まづあの屋根の上に下らうずる。」とあつて、「れぷろぼす」を小脇に抱いたまま、とある沙山すなやま陰のあばら家のむねへ、ひらひらと空から舞ひ下つた。

「かうすべいに、なじかは難からう。」と申しもはてず、やにはに緋の袍の袖をひらいて、「れぷろぼす」を小脇にかかいたれば、見る見る足下が暗うなつて、もの狂ほしい一陣の風が吹き起つたと思ふほどに、二人は何時いつか宙を踏んで、牢舎を後に飄々へうへうと「あんちおきや」の都の夜空へ、火花をとばいて舞ひあがつた。まことやその時は学匠の姿も、折から沈まうず月を背負うて、さながら怪しげな大蝙蝠おほかはほりが、黒雲の翼を一文字に飛行ひぎやうする如く見えたと申す。

「おぬしの所望は、近頃殊勝千万ぢやによつて、これよりただちに牢舎をゆるいてとらさうずる。」とあつて、身にまとうた緋の袍を、「れぷろぼす」が上に蔽うたれば、不思議や総身のいましめは、ことごとくはらりと切れてしまうた。山男の驚きは申すまでもあるまじい。されば恐る恐る身を起いて、学匠の顔を見上げながら、慇懃いんぎんに礼をいて申したは、

「あら、痛や。又しても十字架くるすに打たれたわ。」とうめく声が、次第に家のむねにのぼつて消えた。もとより隠者はかうあらうと心にして居つたによつて、この間も秘密の真言しんごんを絶えず声高こわだかし奉つたに、見る見る黒雲も薄れれば、桜の花も降らずなつて、あばら家の中には又もとの如く、油火ばかりが残つたと申す。

生憎あいにく一字半句の心得もござない。」

らば唯今、御水おんみづを授け申さうずる。」とあつて、おのれは水瓶みづがめをかい抱きながら、もそもそと藁家の棟へ這ひ上つて、やうやく山男の頭の上へその水瓶の水を注ぎ下いた。ここに不思議がおぢやつたと申すは、得度とくどの御儀式が終りも果てず、折からさし上つた日輪の爛々らんらんと輝いた真唯中から、何やら雲気がたなびいたかと思へば、忽ちそれが数限りもない四十雀しじふからの群となつて、空にそびえた「れぷろぼす」がくさむらほどな頭の上へ、ばらばらと舞ひ下つたことぢや。この不思議を見た隠者の翁は、思はず御水を授けようず方角さへも忘れはてて、うつとりと朝日を仰いで居つたが、やがてうやうやしく天上を伏し拝むと、家の棟から「れぷろぼす」をさし招いて、

業畜ごふちく御主おんあるじ『えす・きりしと』の下部しもべに向つて無礼むらいあるまじいぞ。」と申しも果てず、てうと傾城のおもてを打つた。打たれた傾城は落花の中に、なよなよと伏しまろんだが、忽ちその姿は見えずなつて、唯一むらの黒雲が湧き起つたと思ふほどに、怪しげな火花の雨がつぶての如く乱れ飛んで、

如何いかに遊びの身とは申せ、千里の山河もいとはいで、この沙漠までまかり下つたを、さりとはきよくもない御方かな。」と申した。その姿のたへにも美しい事は、散りしく桜の花の色さへ消えようずると思はれたが、隠者の翁は遍身へんしんに汗を流いて、降魔の呪文を読みかけ読みかけ、かつふつその悪魔ぢやぼの申す事に耳を借さうず気色けしきすらおりない。されば傾城もかくてはなるまじいと気をいらだつたか、つと地獄絵のもすそひるがへして、斜に隠者の膝へとすがつたと思へば、

如何いかなこと、それがしは聞えた大飯食ひでおぢやる。中々断食などはなるまじい。」

勿体もつたいなくも御水を頂かれた上からは、向後かうご『れぷろぼす』を改めて、『きりしとほろ』と名のらせられい。思ふに天主もごへんの信心を深うよみさせ給ふと見えたれば、万一勤行ごんぎやう懈怠けたいあるまじいに於ては、必定ひつぢやう遠からず御主『えす・きりしと』の御尊体をも拝み奉らうずる。」と云うた。さて「きりしとほろ」と名を改めた「れぷろぼす」が、その後如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らうず方々はまづ次のくだりを読ませられい。

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三 魔往来のこと