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彼 第二

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僕が最後に彼に会ったのは上海シャンハイのあるカッフェだった。(彼はそれから半年はんとしほどのち天然痘てんねんとうかかって死んでしまった。)僕等は明るい瑠璃燈るりとうしたにウヰスキイ炭酸たんさんを前にしたまま、左右のテエブルにむらがった大勢おおぜい男女なんにょを眺めていた。彼等は二三人の支那人シナじんを除けば、大抵は亜米利加アメリカ人か露西亜ロシア人だった。が、その中に青磁色せいじいろのガウンをひっかけた女が一人、誰よりも興奮してしゃべっていた。彼女は体こそせていたものの、誰よりも美しい顔をしていた。僕は彼女の顔を見た時、砧手きぬたでのギヤマンを思い出した。実際また彼女は美しいと云っても、どこか病的だったのに違いなかった。

なんだい、あの女は?」

彼は肩をそびやかし、しばらくはなんとも言わなかった。僕は後悔こうかいに近いものを感じた。のみならず気まずさをまぎらすために何か言わなければならぬことも感じた。

彼は僕の顔をのぞきこむようにし、何か皮肉に微笑していた。

彼はウヰスキイ炭酸たんさん一口ひとくち飲み、もう一度ふだんの彼自身に返った。

彼はもう一度黙ってしまった。それから、――僕はいまだにはっきりとその時の彼の顔を覚えている。彼は目を細めるようにし、突然僕も忘れていた万葉集まんようしゅうの歌をうたい出した。

僕等はもう船のの多い黄浦江こうほこうの岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、あごで「見ろ」と云う合図あいずをした。もやの中にほのめいた水には白い小犬の死骸が一匹、ゆるい波に絶えずすられていた。そのまた小犬は誰の仕業しわざか、くびのまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷ざんこくな気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった万葉集まんようしゅうの歌以来、多少感傷主義に伝染していた。

僕等はいつか笑いながら、椅子いすを押しのけて立ち上っていた。

僕は彼の日本語の調子に微笑しないわけにはかなかった。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかった。

僕はこう云う彼の不平をひやかさないわけにはかなかった。

僕は咄嗟とっさ快濶かいかつになった。

「支那もだんだん亜米利加アメリカ化するかね?」

「支那にじゃない。上海シャンハイにだろう。」

「支那にさ。北京ペキンにもしばらく滞在したことがある。……」

「勿論オペラ役者やくしゃにでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」

「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。息子むすこ、兄、独身者どくしんもの愛蘭土アイルランド人、……それから気質きしつ上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」

「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ。」

「世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」

「ニニイだね。」

「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯せいたいを調べて貰った話は?」

「どこに住んでも、――ずいぶんまた方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思うのはソヴィエット治下ちか露西亜ロシアばかりだ。」

「どう云う量見でもいじゃないか?」

「それは君の一生の損だね。」

「それならば露西亜へ行けばいのに。君などはどこへでもかれるんだろう。」

「それから彼女には情人じょうじんだろう。」

「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」

「じゃどこに住みたいんだ?」

「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」

「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」

「いや、決してくはないよ。僕などはもう支那に飽き飽きしている。」

「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」

「あれか? あれは仏蘭西フランスの……まあ、女優と云うんだろう。ニニイと云う名でとおっているがね。――それよりもあのじいさんを見ろよ。」

「あの爺さんは猶太ユダヤ人だがね。上海シャンハイにかれこれ三十年住んでいる。あんな奴は一体どう云う量見りょうけんなんだろう?」

「あの爺さん」は僕等のとなりに両手に赤葡萄酒あかぶどうしゅさかずきを暖め、バンドの調子に合せては絶えず頭を動かしていた。それは満足そのものと云っても、少しも差支さしつかえない姿だった。僕は熱帯植物の中からしっきりなしに吹きつけて来るジャッズにはかなり興味を感じた。しかし勿論幸福らしい老人などには興味を感じなかった。

「あのじいさんは勿論だがね。ニニイさえ僕よりは仕合せだよ。何しろ君も知っている通り、……」

「ああ、ああ、聞かないでもわかっているよ。お前は『さまよえる猶太ユダヤ人』だろう。」

上海シャンハイでかい?」

夜更よふけの往来はもやと云うよりも瘴気しょうきに近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた黄色きいろに見えるものだった。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように大股おおまたにアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。

彼はこう答えるが早いか、途方とほうもなく大きいくさめをした。

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