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彼 第二

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彼は生憎あいにく希望通りに従軍することは出来なかった。が、一度ロンドンへ帰ったのち、二三年ぶりに日本に住むことになった。しかし僕等は、――少くとも僕はいつかもうロマン主義を失っていた。もっともこの二三年は彼にも変化のないわけではなかった。彼はある素人下宿しろうとげしゅくの二階に大島おおしまの羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、こう云う愚痴ぐちなどを洩らしていた。

「日本もだんだん亜米利加アメリカ化するね。僕は時々日本よりも仏蘭西フランスに住もうかと思うことがある。」

(何箇月かたったのち、僕は何かの話の次手ついでに『悪魔』の作家に彼の言葉を話した。するとこの作家は笑いながら、無造作むぞうさに僕にこう言うのだった。――「世界一ならばなんでもい。」!)

彼は浮かない顔をしながら、どんよりと曇った高台たかだいの景色を硝子ガラス戸越しに眺めていた。

彼は机の抽斗ひきだしから白い天鵞絨びろうどはこを出した。筐の中にはいっているのは細いプラティナの指環ゆびわだった。僕はその指環を手にとって見、内側にってある「桃子ももこへ」と云う字に頬笑ほほえまないわけにはかなかった。

彼は口笛を吹きながら、早速さっそく洋服に着換え出した。僕は彼にを向けたまま、漫然とブック・マンなどをのぞいていた。すると彼は口笛の合いに突然短い笑い声を洩らし、日本語でこう僕に話しかけた。

彼の言葉は咄嗟とっさあいだにいつか僕の忘れていた彼の職業を思い出させた。僕はいつも彼のことをただ芸術的な気質きしつを持った僕等の一人ひとりに考えていた。しかし彼は衣食する上にはある英字新聞の記者をつとめているのだった。僕はどう云う芸術家も脱却だっきゃく出来ない「みせ」を考え、つとめて話を明るくしようとした。

それはあるいは職人の間違いだったかも知れなかった。しかしまたあるいはその職人が相手の女の商売を考え、ことさらに外国人の名前などは入れずに置いたかも知れなかった。僕はそんなことを気にしない彼に同情よりもむしろ寂しさを感じた。

これもやはり東京人の僕には妙にどくな言葉だった。しかし彼はいつのにか元気らしい顔色かおいろに返り、彼の絶えず愛読している日本文学の話などをし出した。

「僕もそう思っているがね。しかしその前にもう一度ロンドンへ行って来なければならない。……時にこれを君に見せたかしら?」

「僕はその『桃子へ』の下に僕の名を入れるように註文ちゅうもんしたんだけれど。」

「僕は近々きんきん上海シャンハイの通信員になるかも知れない。」

「そんなことは空論じゃないか? 僕などは僕自身にさえ、――いまだに illusion を持っているだろう。」

「それは誰でも外国人はいつか一度は幻滅げんめつするね。ヘルンでも晩年はそうだったんだろう。」

「それはそうかも知れないがね。……」

「じゃちょっと待ってくれ。そこに雑誌が四五冊あるから。」

「この頃はどこへ行っているんだい?」

「この間谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろうの『悪魔』と云う小説を読んだがね、あれは恐らく世界中で一番きたないことを書いた小説だろう。」

「うん、僕もそのつもりで来たんだ。」

「いや、僕は幻滅したんじゃない。illusion を持たないものに disillusion のあるはずはないからね。」

「あれは僕の日本語じゃ駄目だめだ。……きょうはめしぐらいはつき合えるかね?」

「『虞美人草ぐびじんそう』は?」

柳橋やなぎばしだよ。あすこは水の音が聞えるからね。」

上海シャンハイは東京よりも面白おもしろいだろう。」

「僕はもうきちりと坐ることが出来るよ。けれどもズボンがイタマシイですね。」

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