五
彼はかれこれ半年の後、ある海岸へ転地することになった。それは転地とは云うものの、大抵は病院に暮らすものだった。僕は学校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行った。彼の病室は日当りの悪い、透き間風の通る二階だった。彼はベッドに腰かけたまま、不相変元気に笑いなどした。が、文芸や社会科学のことはほとんど一言も話さなかった。
「僕はあの棕櫚の木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉っぱが動いているだろう。――」
僕等は夕飯をすませた後、ちょうど風の落ちたのを幸い、海岸へ散歩に出かけることにした。太陽はとうに沈んでいた。しかしまだあたりは明るかった。僕等は低い松の生えた砂丘の斜面に腰をおろし、海雀の二三羽飛んでいるのを見ながら、いろいろのことを話し合った。
僕は彼の言葉の通り、弘法麦の枯れ枯れになった砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残っていた。
僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。
僕はこう云う対話の中にだんだん息苦しさを感じ出した。
「読みつづける気にはならなかったの?」
「動いているね。何をくよくよ海べの棕櫚はさ。……」
「何、すぐに冷たくなってしまう。」
「不愉快なやつだね。」
「ジァン・クリストフは読んだかい?」
「どうもあれは旺盛すぎてね。」
「どうして?」
「どうしてってこともないけれども。……」
「それでもうおしまいだよ。」
「それから?」
「この砂はこんなに冷たいだろう。けれどもずっと手を入れて見給え。」
「この間Kが見舞いに来たってね。」
「うん、ちょっと気味が悪いね。夜になってもやっぱり温いかしら。」
「ああ、日帰りでやって来たよ。生体解剖の話や何かして行ったっけ。」
「ああ、少し読んだけれども、……」
「何だつまらない。」
棕櫚の木はつい硝子窓の外に木末の葉を吹かせていた。その葉はまた全体も揺らぎながら、細かに裂けた葉の先々をほとんど神経的に震わせていた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違いなかった。が、僕はこの病室にたった一人している彼のことを考え、出来るだけ陽気に返事をした。
僕はなぜかはっきりとこう云う対話を覚えている。それから僕等の半町ほど向うに黒ぐろと和んでいた太平洋も。……