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彼は六高へはいったのち、一年とたたぬうちに病人となり、叔父おじさんの家へ帰るようになった。病名は確かに腎臓結核じんぞうけっかくだった。僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつもとこの上に細いひざいたまま、存外ぞんがい快濶かいかつに話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵たいてい硝子ガラスの中にぎらぎらする血尿けつにょうかしたものだった。

「こう云うからだじゃもう駄目だめだよ。とうてい牢獄ろうごく生活も出来そうもないしね。」

彼は明かに不快ふかいらしかった。が、僕の言葉には何も反駁はんばくを加えなかった。それから、――それから何を話したのであろう? 僕はただ僕自身も不快になったことを覚えている。それは勿論病人の彼を不快にしたことに対する不快だった。

彼はちょっとうなずいたのち、わざとらしく気軽につけ加えた。

彼はこう言って苦笑くしょうするのだった。

僕はとうとう口をすべらし、こんな批評ひひょうを加えてしまった。

僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、勿論もちろん何も言わずに彼の話の先を待っていた。

しかし彼を慰めるものはまだ全然ないわけではなかった。それは叔父さんの娘に対する、極めて純粋な恋愛だった。彼は彼の恋愛を僕にも一度も話したことはなかった。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けられた。突然?――いや、必ずしも突然ではなかった。僕はあらゆる青年のように彼の従妹いとこを見かけた時から何か彼の恋愛に期待を持っていたのだった。

「天才の伝記か何かが善い。」

「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時でいから。」

「バクニインなどは写真で見ても、たくましい体をしているからなあ。」

「どんな本を?」

「それは矛盾むじゅんしているじゃないか? 君は美代ちゃんを愛してもい、美代ちゃんは他人を愛してはならん、――そんな理窟りくつはありはしないよ。ただ君の気もちとしてならば、それはまた別問題だけれども。」

「それで?」

「それで僕は美代ちゃんに忠告しようかと思っているんだがね。……」

「すると電車の中で知り合になった大学生のことが書いてあるんだよ。」

「じゃ僕は失敬するよ。」

「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」

「ああ、何でも旺盛おうせいな本が善い。」

「ああ、じゃ失敬。」

美代みよちゃんは今学校の連中と小田原おだわらへ行っているんだがね、僕はこのあいだ何気なにげなしに美代ちゃんの日記を読んで見たんだ。……」

僕はあきらめに近い心を持ち、弥生町やよいちょうの寄宿舎へ帰って来た。窓硝子ガラスの破れた自習室には生憎あいにく誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈のした独逸文法ドイツぶんぽうを復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望せんぼうを感じてならなかった。

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