四
彼は六高へはいった後、一年とたたぬうちに病人となり、叔父さんの家へ帰るようになった。病名は確かに腎臓結核だった。僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつも床の上に細い膝を抱いたまま、存外快濶に話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵硝子の中にぎらぎらする血尿を透かしたものだった。
「こう云う体じゃもう駄目だよ。とうてい牢獄生活も出来そうもないしね。」
彼は明かに不快らしかった。が、僕の言葉には何も反駁を加えなかった。それから、――それから何を話したのであろう? 僕はただ僕自身も不快になったことを覚えている。それは勿論病人の彼を不快にしたことに対する不快だった。
彼はちょっと頷いた後、わざとらしく気軽につけ加えた。
彼はこう言って苦笑するのだった。
僕はとうとう口を辷らし、こんな批評を加えてしまった。
僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、勿論何も言わずに彼の話の先を待っていた。
しかし彼を慰めるものはまだ全然ない訣ではなかった。それは叔父さんの娘に対する、極めて純粋な恋愛だった。彼は彼の恋愛を僕にも一度も話したことはなかった。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けられた。突然?――いや、必ずしも突然ではなかった。僕はあらゆる青年のように彼の従妹を見かけた時から何か彼の恋愛に期待を持っていたのだった。
「天才の伝記か何かが善い。」
「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で善いから。」
「バクニインなどは写真で見ても、逞しい体をしているからなあ。」
「どんな本を?」
「それは矛盾しているじゃないか? 君は美代ちゃんを愛しても善い、美代ちゃんは他人を愛してはならん、――そんな理窟はありはしないよ。ただ君の気もちとしてならば、それはまた別問題だけれども。」
「それで?」
「それで僕は美代ちゃんに忠告しようかと思っているんだがね。……」
「すると電車の中で知り合になった大学生のことが書いてあるんだよ。」
「じゃ僕は失敬するよ。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも旺盛な本が善い。」
「ああ、じゃ失敬。」
「美代ちゃんは今学校の連中と小田原へ行っているんだがね、僕はこの間何気なしに美代ちゃんの日記を読んで見たんだ。……」
僕は詮めに近い心を持ち、弥生町の寄宿舎へ帰って来た。窓硝子の破れた自習室には生憎誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈の下に独逸文法を復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望を感じてならなかった。