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薤露行

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三袖

可憐かれんなるエレーンは人知らぬすみれの如くアストラットの古城を照らして、ひそかにちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。う人はもとよりあらず。共に住むは二人の兄とまゆさえ白き父親のみ。

「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。

部屋のあなたに輝くは物の具である。よろいの胴に立て懸けたるわが盾を軽々かろがろと片手にげて、女の前に置きたるランスロットはいう。

聞くならくアーサー大王のギニヴィアをめとらんとして、心惑える折、ながらに世の成行なりゆきを知るマーリンは、首をりて慶事をがえんんぜず。この女のちに思わぬ人を慕う事あり、娶る君にくいあらん。とひたすらにいさめしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人たれなるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人の誰なるかを知りたる時、あめしたに数多く生れたるもののうちにて、この悲しきさだめめぐり合せたる我を恨み、このうれしきさちけたるおのれをよろこびて、楽みと苦みのないまじりたる縄を断たんともせず、この年月としつきを経たり。心ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をもかもせと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃をてず。ただ疑の積もりて証拠あかしと凝らん時――ギニヴィアの捕われてくいに焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。

老人ははたと手をつ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーはさんぬる騎士の闘技に足を痛めて今なおじょくを離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合にきずつきて、その創口きずぐちはまだえざれば、赤き血架はむなしく壁に古りたり。これをかざして思う如く人々を驚かし給え」

眠られぬ戸に何物かちょとさわった気合けわいである。枕を離るるかしらの、音するかたに、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸なきがらに脈も通わず。しずかである。

白き香りの鼻をって、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故なにゆえとは知らず、ことごとく身はえて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。

男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹もみ衝立ついたてに、花よりも美くしき顔をかくす。常にまさ豊頬ほうきょうの色は、く血潮のく流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたるびんの毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪したり。

木にるはつた、まつわりて幾世を離れず、よいいてあしたに分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。ほそき身の寄り添わば、幹吹くあらしに、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかにくくる恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けてまぶたに余る、露の底なる光りを見ずや。わが住めるやかたこそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物のあわれの胸にみなぎるは、とざせる雲のおのずから晴れて、うららかなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷をうずめて千里のほかに暖かき光りをひく。明かなる君が眉目びもくにはたと行き逢える今のおもいは、あなを出でて天下の春風はるかぜに吹かれたるが如きを――言葉さえわさず、あすの別れとはつれなし。

再び障った音は、ほとんどたたいたというべくも高い。たしかに人ありと思いきわめたるランスロットは、やおら身を臥所ふしどに起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭ろうそくの火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女のかたにまたたく。乙女の顔はかざせる赤き袖の影に隠れている。面映おもはゆきは灯火ともしびのみならず。

ランスロットは腕をやくして「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。

ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人のほおに畳めるしわのうちには、うれしき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。

カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業しわざ故である。闘技のらちに馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、とうたわるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠あかしよといわば何と答えん。今さいわいに知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖をまとい、二十三十の騎士をたおすまで深くわがおもてを包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――たれかれ共にわざと後れたる我をうけがわん。病と臥せる我の作略さりゃくを面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットはようやくに心を定める。

エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何いかなる風の誘いてか、かく凛々りりしき壮夫ますらおを吹き寄せたると、折々はつるせたる老人の肩をすかして、恥かしのまつげの下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るるすべもあろう。偃蹇えんけんとして澗底かんていうそぶく松がには舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶こちょうは薄き翼を収めて身動きもせぬ。

やがてわが部屋の戸帳とばりを開きて、エレーンは壁にる長ききぬを取りいだす。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこるよるんで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如くあざやかである。エレーンは衣のえり右手めてにつるして、しばらくはまばゆきものとながめたるが、やがて左に握る短刀をさやながら二、三度振る。からからとゆかに音さして、すわというひらめきは目をかすめてくれない深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭てしょくは、風に打たれてと消えた。外は片破月かたわれづきの空にけたり。

「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、を冒して参りたるにはあらず。思のこもるこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットはまどう。

「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――ねずみだに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。

「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日あすと定まる仕合の催しに、おくれて乗り込む我の、何のたれよと人に知らるるは興なし。新しきをきらわず、古きを辞せず、人の見知らぬたてあらば貸し玉え」

「次男ラヴェンは健気けなげに見ゆる若者にてあるを、アーサー王のもよおしにかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛のひづめのあとにし連れよ。翌日あすを急げと彼に申し聞かせんほどに」

「守らでやは」と女はひざまずいて両手に盾をいだく。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。

「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士のほまれ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。

「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔をのぞく。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「たたかいに臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたるためしなし。なさけあるあるじの子の、情深き賜物をいなむは礼なけれど……」

「北のかたなる仕合に参らんと、これまではむちうって追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえわかれたるを。――乗り捨てし馬も恩にいななかん。一夜の宿の情け深きにむくいまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なるほうに姿を改めたる騎士なり。シャロットをせる時何事とは知らず、岩のくぼみの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、ほおあおきが特更ことさらの如くに目に立つ。

「この深きを……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。

「うけてか」と片頬かたほめる様は、谷間のひめ百合ゆりに朝日影さして、しげき露のあとなくかわけるが如し。

「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身かたみと残す。試合果てて再びここをぎるまで守り給え」

くれないに人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、われぬに参らする。かぶといて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前にいだす。男は容易に答えぬ。

しょく尽きてこうおしめども、更尽きて客はねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理にひとみの奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんとつとめたれどせんなし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼のうちに潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。たまえるものの話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛かわゆき者の前に夢の魔を置き、物の怪のたたりを据えてのおそれと苦しみである。今宵こよいの悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消えせて、求むれどもついに得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我をつかさどるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるをしく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへかうしなえる。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、ひさし深きかぶとの奥より、高きやぐらを見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンはせてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンはかすかなる毛孔けあなの末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千の香油を注いで、日にそのはだえなめらかにするとも、潜めるエレーンは遂に出現しきたはなかろう。

右手めてささぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居すまい、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。

この時やぐらの上をからす鳴き過ぎて、はほのぼのと明け渡る。

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