薤露行在线阅读

薤露行

Txt下载

移动设备扫码阅读

二鏡

ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高きうてなの中に只一人住む。ける世を鏡のうちにのみ知る者に、おもてを合わす友のあるべき由なし。

春恋し、春恋しとさえずる鳥の数々に、耳そばだてて隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。あざやかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。

鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄くろがねの黒きをみがいて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇るかがみの霧を含みて、芙蓉ふようしたたる音をくとき、むかえる人の身の上に危うき事あり。砉然けきぜんゆえなきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期まつごの覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月いくとしつきの久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。あしたに向いゆうべに向い、日に向い月に向いて、くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとするおそれありとは夢にだも知らず。湛然たんぜんとして音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗えいろうたるおもてを過ぐる森羅しんらの影の、繽紛ひんぷんとして去るあとは、太古の色なきさかいをまのあたりに現わす。無限上に徹する大空たいくうを鋳固めて、打てば音ある五尺のうちし集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。

鏡の中なる遠柳とおやなぎの枝が風になびいて動くあいだに、たちましろがねの光がさして、熱きほこりを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊をねらわしの如くに、影とは知りながらまたたきもせず鏡のうちつむる。十ちょうにして尽きた柳の木立こだちを風の如くにけ抜けたものを見ると、鍛え上げたはがねよろいに満身の日光を浴びて、同じかぶと鉢金はちがねよりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ毿々さんさんと靡かしている。栗毛くりげこまたくましきを、かしらも胸もかわつつみて飾れるびょうの数はふるい落せし秋の夜の星宿せいしゅくを一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼をえる。

曲がれるどてに沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩にたてを懸けたり。女はえりを延ばして盾に描ける模様をしかと見分けようとするていであったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜けるいきおいで、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わずげて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットはかぶとひさしの下より耀かがやく眼を放って、シャロットの高きうてなを見上げる。爛々らんらんたる騎士の眼と、針をつかねたる如き女の鋭どき眼とは鏡のうちにてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓のそばけ寄ってあおき顔を半ば世の中に突きいだす。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。

恋の糸とまことの糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いをたてに怒りをよこに、あられふる木枯こがらしの夜を織り明せば、荒野の中に白きひげ飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしきくれないと恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和おとなしき黄と思い上がれる紫をかわがわるに畳めば、魔に誘われし乙女おとめの、われがおに高ぶれるさまを写す。長きたもとに雲の如くにまつわるは人に言えぬねがいの糸の乱れなるべし。

女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。

夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡のそばに坐りて、夜ごと日ごとのはたを織る。ある時は明るきはたを織り、ある時は暗きはたを織る。

古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らしてえらぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちにながとどまる事は天にかかる日といえどもかたい。ける世の影なればかくなきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際にけよりて思うさま鏡のほかなる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女にのろいのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐きょくせきせねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。

去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住みめば山にのがるる心安さもあるべし。鏡のうちなる狭き宇宙の小さければとて、き事の降りかかる十字のちまたに立ちて、行きう人に気を配るらさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃ばんけいの乱れは永劫えいごうを極めて尽きざるを、渦く中にかしらをも、手をも、足をもさらわれて、行くわれのはては知らず。かかる人を賢しといわば、高きうてなに一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆あほうの極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物のたすけにて、よそながらうかがう世なり。活殺生死かっさつしょうじ乾坤けんこん定裏じょうり拈出ねんしゅつして、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心をさわがして窓のそとなる下界を見んとする。

シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、かすかなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳をおおうてまた鏡に向う。河のあなたにけぶる柳の、果ては空とも野とも覚束おぼつかなき間よりづる悲しき調しらべと思えばなるべし。

シャロットの女はまなこ深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日ののぼりてより、刻を盛る砂時計のここのたび落ち尽したれば、今ははやひる過ぎなるべし。窓を射る日のまばゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟どうくつの如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手めてより投げたる左手ゆんでに受けて、女はふと鏡のうちを見る。ぎ澄したるつるぎよりも寒き光の、いつもながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事なにごとぞ!音なくてと曇るは霧か、鏡のおもては巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うてきつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女のまぶたは黒きまつげと共にかすかにふるえた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷いっさつに晴れて、河も柳も人影も元の如くにあらわれる。梭は再び動き出す。

シャロットの女の織るは不断のはたである。草むらの萌草もえぐさの厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散るなみの花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒きに、燃ゆるほのおの色にて十字架を描く。濁世じょくせにはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯たてよこの目にも入ると覚しく、焔のみははたを離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋はけ落つるかと怪しまれて明るい。

シャロットの女の投ぐるの音を聴く者は、さびしきおかの上に立つ、高きうてなの窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しきにただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居すまいである。つたとざす古き窓よりるる梭の音の、絶間たえまなき振子しんしの如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。しずかなるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにもまさる。恐る恐る高き台を見上げたる行人こうじんは耳をおおうて走る。

シャロットのみち行く人もまたことごとくシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白きひげゆるき衣をまといて、長きつえの先に小さきひさごくくしつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときはかしらよりただ一枚と思わるる真白の上衣うわぎかぶりて、眼口も手足もしかと分ちかねたるが、けたたましげにかね打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これはらいをやむ人の前世のごうみずから世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。

 色やうつろう、

 朝な夕なに。」

 住みうからまし、

 むかしも今も。」

 うつつに住めば、

 うつせみの世を、

 うつす鏡に、

 うつくしき恋、

旅商人たびあきゅうどに負えるつつみの中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚さんご瑪瑙めのう、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女のひとみには映ぜぬ。

ぴちりと音がして皓々こうこうたる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたるおもては再びぴちぴちと氷を砕くが如くこな微塵みじんになってしつの中に飛ぶ。七巻ななまき八巻やまき織りかけたる布帛きぬはふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切ちぎれ、解け、もつれてつち蜘蛛ぐもの張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期まつごのろいを負うて北のかたへ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分のわきを受けたる如く、五色の糸と氷をあざむく砕片の乱るる中にどうたおれる。

21.16%
二鏡