アメリカの木の葉ほど秋に脆いものはあるまい。九月の午過の堪へがたい程暑く、人はまだ夏が去り切らぬのかと
自分は四邊がすつかり秋らしくなつて、朝夕の身にしむ風に枯れ黃ばんで雨の如く飛ぶ落葉を見るよりも、如何に深い物哀れに打たれるであらう。譯もなく早熟した天才の滅び行くのを見るやうな氣がする。
自分は若い中にも猶若く、美しい中にも猶美しい女の笑顏を眺めると、譯もなく幸福な戀を空想するのである………自分は麗しい英文で何か著作をする、それを讀んだ女が作者の面影を慕つて訪ねて來る。人生を語る、詩を語る、遂には互に祕密をかたる。何時か自分は結婚して了つて、ロングアイランドか、ニユーゼルシーの海邊あたり、ニユーヨークからは汽車で一二時間位で往來の出來る田舎に家庭を作る。小さいペンキ塗の
自分は夕暮に一人、セントラル、パークの池のほとりのベンチに腰をかけた。日曜日の雜沓に引變へて平常の日の靜けさ。殊に丁度今頃は時間の正しい國の事とて何處の家でも晚餐をして居る時分であらう。馬車自動車は無論、散步の人の跫音も絕えて、最後の餌をあさり了つて
自分はシエーキスピア、ラシーンからイブセン、ヅーデルマンに至る種々な舞臺を見て、世界古今のドラマを鵜呑みにした氣になつた。ワグナーの理想もヴエルヂの技術も盡く味つて其の意を得たと信じたばかりか、自分は早くも將來日本の社會に起るべき新樂劇の基礎を作る一人である。あらねばならぬ樣な心地がした。自分は管弦樂を聽いて、クラシツク音樂の繊細美麗な處から、近代ロマンチツクの自由なる熱情を味ひ、更に破天荒なるストラウスの音樂の不調和無形式を讃賞した。猶これのみには止まらず、折々は美術館の戶口を潜つてロダンの彫刻マネーの畫を論じた事もあつた。
自分の机はプログラムやカタログの切拔の新聞紙の山をなしたが、それをば整理して行く間もなく季節は過ぎて、淋しい梢は若芽と咲く花に飾られ、重い外套の人は輕い春着の粧ひに變じた。自分も世間の人と同じやうに新しい衣服新しい半靴新しい中折帽を買つた。然しアメリカの流行は商業國だけあつて形が俗である。自分は飽くまで米國の實業主義には感化されないと云ふ事を見せたいばかりにいろ〳〵苦心した結果は「
絕えずあたりの高い楡の木の梢からは細い木の葉が三四枚五六枚づゝ一團になつて落ちて來る。耳を澄ますと木の葉が木の葉の間を滑り落ちて來るその響が聞きとれるやうに思はれる。木の葉同士が互に落滅を誘ひ囁き合ふのであらう。
眼の前には絕間なく輕裝した若い女が馬車を馭したり、馬に乗つたりして行過ぎるが、何れも皆自分の方を眺めては微笑んで行くとしか思はれない。
木葉もやがて落ち盡すであらう。寒い北風と共に劇界樂界の時節も再び廻つて來るであらう。街の辻々停車場の壁は到る處劇場の廣吿畫や音樂者の肖像に飾られるであらう。然し自分は去年のやうに大膽な無法な幸福な藝壇の觀察者として存在する事が出來るであらうか。また來る春には再びかゝる烟のやうな夢に醉ふ事が出來るであらうか。
或ものは自分の帽子、肩、膝の上。あるものは風が誘ふのでもないのに、遠く水の上に舞ひ落ち流れと共に猶も遠くへ遠くへと行つて了ふ。
夢、醉、幻、これが吾等の生命である。吾々は絕えず、戀を思ひ、成功を夢みて居ながら、然し、それ等の實現される事を望んで居るのではない。唯だ實現されるらしく見える
去年始めてこの都會の落葉を見た頃には、自分は如何に傲慢で得意で幸福であつたらう。自分は新大陸の各地方の異る社會異る自然をすつかり見盡して了つたつもりで、これからは世界第二の大都會の生活を觀察するのだと、無意味に自分を信用して、日曜日每に、この池のほとりに來ては散步の人の雜沓を打ち眺めた。
人は定めし自分の愚を笑ふであらうが、自分獨りは決して愚とも狂とも思つては居らぬ。自分はかのイブセンが世を去つた當時、ボストンの或る新聞で見た事であるが………イブセンは眞白になつた頭髮をば一度も櫛を入れた事がないと云ふ樣に、わざ〳〵搔亂し、國王から贈られた勳章を胸にさげて鏡に向つて喜んだと云ふ意外の弱點があつたとやら。
上陸したその年の秋を太平洋の沿岸に、其の翌年はミゾリの野ミシガンの湖邊又ワシントンの街頭に、やがてこのニユーヨークの落葉も旣に二度目である。
ボードレールは云ふ。―――醉ふ、これが唯一の問題である。人の肩を
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ベンチの背に頰杖をついて自分は何やら耽る物思ひの中に、ふと詩人ヴヱルレーンが「秋の歌」と云ふのを思ひ出した。
Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon cœur
D'une langueur
Monotone.
やがて木の葉は落盡した。寒い風が枝を吹き折つた、雪が芝生を蔽ひ盡した―――藝界社交の時節が到來した。
すると、何時ともなく暖い春の
かやうな夢に耽つた春の日も一夏を過ぎて………今は早や秋、飛散る木の葉を見ればさながら失へる戀の昔を思ふにひとしい。
「秋の胡弓の
四邊は早や夜である。森は暗く空は暗く水は暗い。自分は猶もベンチを去らず木間に輝く電燈の火影に頻と飛び散る木の葉の影を眺めて居た。
(明治卅九年十月)