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あめりか物語

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落葉

アメリカの木の葉ほど秋に脆いものはあるまい。九月の午過の堪へがたい程暑く、人はまだ夏が去り切らぬのかとかこつて居る中、其の夜ふけ露の重さに、オークエルム菩提樹リンデンや殊に碧梧のやうな楓樹メープルの大きな葉は夏のまゝなる其の色さへ變へずして、風もないのにばさりばさりと重さうに懶氣ものうげに散り落ちる。

自分は四邊がすつかり秋らしくなつて、朝夕の身にしむ風に枯れ黃ばんで雨の如く飛ぶ落葉を見るよりも、如何に深い物哀れに打たれるであらう。譯もなく早熟した天才の滅び行くのを見るやうな氣がする。

自分は若い中にも猶若く、美しい中にも猶美しい女の笑顏を眺めると、譯もなく幸福な戀を空想するのである………自分は麗しい英文で何か著作をする、それを讀んだ女が作者の面影を慕つて訪ねて來る。人生を語る、詩を語る、遂には互に祕密をかたる。何時か自分は結婚して了つて、ロングアイランドか、ニユーゼルシーの海邊あたり、ニユーヨークからは汽車で一二時間位で往來の出來る田舎に家庭を作る。小さいペンキ塗の村莊カツテーヂで、そのまはりには櫻や林檎の果樹園があり、裏手の森を拔ければひろ〴〵した牧場から、ずツと遙かに海が見える。自分は春や夏の午後、秋の日暮前、冬の眞晝なぞ、窓際の長椅子に身を橫へて、讀書につかれたまゝ、居眠まどろむともなく居眠む。と、隣の室からは極く緩かなリツストのソナタのやうなものが可い。妻の彈ずるピヤノの曲にはつと目覺むれば………自分はこゝに初めて夕暮の冷い風に面を吹かれてベンチの上なる現實の我れに立返るのであつた。

自分は夕暮に一人、セントラル、パークの池のほとりのベンチに腰をかけた。日曜日の雜沓に引變へて平常の日の靜けさ。殊に丁度今頃は時間の正しい國の事とて何處の家でも晚餐をして居る時分であらう。馬車自動車は無論、散步の人の跫音も絕えて、最後の餌をあさり了つて栗鼠りすの鳴く聲が梢に高く聞えるばかり。灰色に曇つた空は夜にもならば雨か、夢見る如くどんよりと重く暮れはてゝ行く。湖のやうな廣い池の面が黑く鉛のやうに輝き、岸變一帶を蔽ふ繁りは次第々々に朧になつて、その間からは黃い瓦斯燈が瞬きしはじめた。

自分はシエーキスピア、ラシーンからイブセン、ヅーデルマンに至る種々な舞臺を見て、世界古今のドラマを鵜呑みにした氣になつた。ワグナーの理想もヴエルヂの技術も盡く味つて其の意を得たと信じたばかりか、自分は早くも將來日本の社會に起るべき新樂劇の基礎を作る一人である。あらねばならぬ樣な心地がした。自分は管弦樂を聽いて、クラシツク音樂の繊細美麗な處から、近代ロマンチツクの自由なる熱情を味ひ、更に破天荒なるストラウスの音樂の不調和無形式を讃賞した。猶これのみには止まらず、折々は美術館の戶口を潜つてロダンの彫刻マネーの畫を論じた事もあつた。

自分の机はプログラムやカタログの切拔の新聞紙の山をなしたが、それをば整理して行く間もなく季節は過ぎて、淋しい梢は若芽と咲く花に飾られ、重い外套の人は輕い春着の粧ひに變じた。自分も世間の人と同じやうに新しい衣服新しい半靴新しい中折帽を買つた。然しアメリカの流行は商業國だけあつて形が俗である。自分は飽くまで米國の實業主義には感化されないと云ふ事を見せたいばかりにいろ〳〵苦心した結果は「ラムルーズ」を書いた時分の若いドーデの肖像か、もしくは寧そバイロンをまねたいものだと每朝頭髮を縮し太い襟かざりをばわざ〳〵無造作らしく結ぶのである。

絕えずあたりの高い楡の木の梢からは細い木の葉が三四枚五六枚づゝ一團になつて落ちて來る。耳を澄ますと木の葉が木の葉の間を滑り落ちて來るその響が聞きとれるやうに思はれる。木の葉同士が互に落滅を誘ひ囁き合ふのであらう。

眼の前には絕間なく輕裝した若い女が馬車を馭したり、馬に乗つたりして行過ぎるが、何れも皆自分の方を眺めては微笑んで行くとしか思はれない。

木葉もやがて落ち盡すであらう。寒い北風と共に劇界樂界の時節も再び廻つて來るであらう。街の辻々停車場の壁は到る處劇場の廣吿畫や音樂者の肖像に飾られるであらう。然し自分は去年のやうに大膽な無法な幸福な藝壇の觀察者として存在する事が出來るであらうか。また來る春には再びかゝる烟のやうな夢に醉ふ事が出來るであらうか。

或ものは自分の帽子、肩、膝の上。あるものは風が誘ふのでもないのに、遠く水の上に舞ひ落ち流れと共に猶も遠くへ遠くへと行つて了ふ。

夢、醉、幻、これが吾等の生命である。吾々は絕えず、戀を思ひ、成功を夢みて居ながら、然し、それ等の實現される事を望んで居るのではない。唯だ實現されるらしく見えるあだなる影を追うて、その豫想と豫期とに醉つて居たいのである。

去年始めてこの都會の落葉を見た頃には、自分は如何に傲慢で得意で幸福であつたらう。自分は新大陸の各地方の異る社會異る自然をすつかり見盡して了つたつもりで、これからは世界第二の大都會の生活を觀察するのだと、無意味に自分を信用して、日曜日每に、この池のほとりに來ては散步の人の雜沓を打ち眺めた。

人は定めし自分の愚を笑ふであらうが、自分獨りは決して愚とも狂とも思つては居らぬ。自分はかのイブセンが世を去つた當時、ボストンの或る新聞で見た事であるが………イブセンは眞白になつた頭髮をば一度も櫛を入れた事がないと云ふ樣に、わざ〳〵搔亂し、國王から贈られた勳章を胸にさげて鏡に向つて喜んだと云ふ意外の弱點があつたとやら。

上陸したその年の秋を太平洋の沿岸に、其の翌年はミゾリの野ミシガンの湖邊又ワシントンの街頭に、やがてこのニユーヨークの落葉も旣に二度目である。

ボードレールは云ふ。―――醉ふ、これが唯一の問題である。人の肩をおさへて地に屈ませやうとする「時」と云ふ恐ろしい荷の重さを感じまいとすれば、人は躊躇する事なく醉つて居ねばならぬ。酒、詩、德、何でもよい。若し、宮殿の階段、谷間の草の上、或は淋しい室の中、時として、醉が覺めてわれに返る事があつたら、風、波、星、鳥、又時計、凡そ飛び、動き、廻り、歌ひ、語る諸有るものに向つて、今は如何なる時かと問ふがよい。風は、波は、星は、鳥は、時計は答へるであらう、醉ふべき時だ、酒でも、詩でも、美德でも、何でもよい、もし「時」と云ふものゝ痛しい奴隷になるまいとすれば、絕ゆる間なく醉うて居ねばならない………。

* * * *

ベンチの背に頰杖をついて自分は何やら耽る物思ひの中に、ふと詩人ヴヱルレーンが「秋の歌」と云ふのを思ひ出した。

Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon cœur
D'une langueur
Monotone.

やがて木の葉は落盡した。寒い風が枝を吹き折つた、雪が芝生を蔽ひ盡した―――藝界社交の時節が到來した。

すると、何時ともなく暖い春の日光ひかげに照される身のうつとり夢心地になるや否や、自分も已にそれ等不朽の詩聖の列に加られたやうな氣になつて了ふ。自然と口の端の筋肉が緩んで來て深い笑靨ゑくぼがよる。遂には自分ながら妙に氣まりが惡くなつて、そツと身のまはりを見まはせば道の兩側に並ぶ大樹の若葉の美しさ。その梢から透き見える大空の靑さ、晴れやかさ。道の左右に海の如く廣がつて居る芝生の綠りの濃さ、爽快さわやかさ、何處から流れて來るとも知れぬ花の香の優しさ懷しさ。恐らく、自分の一生涯、この時ほど幸福な事はなかつたであらう。

かやうな夢に耽つた春の日も一夏を過ぎて………今は早や秋、飛散る木の葉を見ればさながら失へる戀の昔を思ふにひとしい。

「秋の胡弓のむせび泣く物憂き響きわが胸を破る。鐘鳴れば、われ色靑ざめて、吐く息重く、過し昔を思出でゝ泣く。薄倖の風に運ばれて、こゝかしこ、われは彷徨さまよふ落葉かな。」と人の身を落葉に比ぶる例は新しからぬだけ、いつも身にしむ思ひである。殊に今旅の身の上を思出せば………あゝ自分は早や何處に何度異郷の地に埋るゝ落葉を眺めたであらう。

虛言うそまことか問ふ處ではない。よいも惡いも泰西詩人の事と云へば隨喜の淚に暮れるあまり、人眞似せずには居られない。自分はわざとこれも無造作らしく帽子を斜に冠り櫻の枝の杖を片手に詩集か何かを小脇にして、稍しばらく己れの佇む姿を鏡に映して見た後、漸く外に出て、春の午後人の出盛る公園に赴くのである。例の如く池のほとりを一廻り步み了れば、必ずシエーキスピーヤ初めスコツトやバーンズなぞの銅像の並んで居る廣い並木道に出で、ベンチに腰を下して、銅像と向合ひに悠然と煙草の煙を吹く。

四邊は早や夜である。森は暗く空は暗く水は暗い。自分は猶もベンチを去らず木間に輝く電燈の火影に頻と飛び散る木の葉の影を眺めて居た。

(明治卅九年十月)

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落葉