紐育市役所の廣場を前にして、いつも人馬の雜沓するブルツクリン大橋の入口から高架鐵道の通つて居る
一口にポアリーと稱して、各國の移住民や勞働者の群集するところ。同じ紐育の市内ではありながら新世界の大都會を代表すべき「
軈て自分も席を立ちかけた途端、彼方の戶口からホールへ這入つて來た二人連の音樂師がある。
街の兩側に物賣る店の種々あるが中に、西洋にも此樣ものがあるかと驚かれるのは電氣仕掛にて痛みなく
舞蹈の音樂が又奏し出される。男や女は再び夢の世の人の如くに煙草の烟の中を、
自分は突と戶を押して這入ると、カウンターに身を倚せながら勞働者の一群が各コツプを片手に高聲で話合つて居たが、ふと自分の耳に付いたのは、奧深い彼方から幽に聞える破れピアノに女の騷ぐ聲々。で、其の儘、突當りの戶を押試みると身は流るゝ如く扉と共に眞暗な廊下へと滑り込んだ。
自分は片隅のテーブルに一人ビールを傾けつゝこの奇異なる四邊の光景から、軈て汚れた板張の壁に掛けてある額なぞを眺め廻した。
自分は微笑んだ儘答へなかつた。
自分は一本の卷煙草を渡した後通過る
給仕人がビールを近くのテーブルに持運ぶ。
然し歌の節は東洋風に極く緩かで、聲は錆のある顫ひを帶びた何處にか一種の輕い悲みを含んで居る。泥醉した水夫も女郞も職人も丁度廓で新内を聞くと云つたやうに、皆な恍惚として少時は場中水を打つたやう。
此樣工合に何處を眺めても、引續く家屋から人の衣服から、目に入るものは一齋に暗鬱な
折から又もやピアノとバイオリン、連中は以前の如くに踊り出す。
或時―――冬の夜の事である。自分は猶太町に在る猶太人の芝居を見物した歸りぶら〳〵此の邊を步いて見た。もう十二時過と見えて、古衣屋も寶石屋も、その他の店も皆燈を消して居て、街の角々にある
忽然、二人連の女が自分の占めて居るテーブルの空椅子に腰を掛けた。自分は好奇心の
彼方此方から五仙十仙と、祝儀の銀貨が床の上に投出されるので、自分もポケツトから廿五仙銀貨を奮發した。いや、自分は四邊の人目を牽く事さへ厭はなかつたなら五十仙、一弗位は惜みはしなかつたのだ。あの多く母音で終る伊太利亞語そのものが、自分の耳には云ひがたく快いのに、乞食の音樂師がゆがんだ帽子に天鵞絨の破衣、眞赤な更紗模樣のハンケチを頸に卷いた風體から、房々と額へ垂らした黑い縮れた頭髮、黑い睫毛、薄い口髯、それから南歐の
彼は人種の異つて居る自分の顏を見上げたが驚きもせず怪し氣な英語で、
女は突と握つて居る私の手を引寄せ、「今夜………いゝんでせう。」
女はと見れば、年齢の多少も分り兼るものばかり。顏中白粉を
女の笑ふ聲は更に五六步先なる戶の中と覺しいので、自分は臆せずに進んで此の二番目の戶口へ近寄ると跫音を聞き付けてか、此の度は内から戶を開けてくれたものがある。鍵穴から見張をして居た番人で、自分が這入ると再び戶をばつたり閉めた。
外部から
何れを見ても此れはと思ふ
伊太利亞人は各バンジヨーとマンドリンとを取りあげ、ピアノの橫へ直立し、さて歌出すのは自分には意味の分らぬ南歐の俗歌である。
二人は歌ひ了つて床の上に投出された祝儀の銀貨を拾ひ集めながら、やがて自分のテーブル近くまで來たので、
ピアノとバイオリンの奏樂進むにつれて、此等の女と抱き合ひながら、水兵や勞働者の入りつ、亂れつ床の塵と煙草の煙と酒の匂とで電燈の光も黃く朦朧となつて居る中を狂するやうに舞ひ踊るさま、自分は已に淺間しいと云ふ嫌惡の境を通越して、何とも云ひがたい一種の悲哀―――嘗て故郷で暗い根岸の里あたりから遠い遊廓の絃歌を聞いた時のやうな、その悲哀を感ずるのであつた。
と云ひながら突然、自分の頰に接吻した後頭から肩を左右に搖りながら―――will you love me in December, as you do in May ―――と鼻歌を歌ひ出した。
たぶんフツトボールを營業にして居る女の一組と覺しく、逞しい筋肉を其のまゝ見せた肉襦袢の四五人が手を取り合つて立つて居る一枚の寫眞に續いては、鬼のやうな顏をした
されば路行く人も地下鐵道の車中で互に衣服の美を爭ふ「西側」とはちがひ、女は帽子も戴かず、汚れた
「色男はあるのかね。」と聞くと、
「相變らずよ。」と胴着一枚に腕卷りのピアノ彈は皺枯れた聲で、「どうだ、まア一杯やりねえ。」
「暫く姿を見せなかつたぢや無えか。いゝ儲口でもあつたのか。」
「島から、シヽリー島からです。」
「家は何處だい。」
「家は………紐育でもブルツクリンでも宿屋と云ふ宿屋は皆な私の家さ。」
「大した事も無えが、暫く田舎を步いて居た………。」とその儘ピアノの傍に進寄つて、空椅子に腰を掛け、頸から襷掛にしたバンジヨーと云ふ樂器を取下して壁に倚せ掛けると他の一人は小形のマンドリンをば膝の上に抱へたまゝで、
「名前も何にもありやアしない。キッチー………黑髮のキッチーて云へば、それで通つて居るんだよ。」
「分つてるぢや無いか………ホテルさ。」
「何年ばかりに成る。」
「何が………」と態と不審さうに聞返すと女は甚く不興な顏付になつて、
「不可ないの。さう………。」と云つて女は一寸兩肩を搖上げて橫を向いたかと思ふと、忽ち舞蹈の音樂に合はせて再び鼻歌を續けたが、遠くのテーブルから目瞬せする水夫の連中を見付けて、其の儘すた〳〵立去つて又もウイスキーを煽つて居る。
「まだやツと九ケ月にしか成りませんや、初めは金儲をするつもりで來たんですがね、北の歐羅巴から來た奴等のやうに地の底や火の中で那樣手ひどい家業が出來るものか、
「ほゝゝゝほ。」と笑ひ出して、「お金のある奴は皆な色男………。」
「どうだね、親方………。」と此度は此方からピアノ彈に挨拶をする。
「お禮にや及ばねえ、好鹽梅にお客樣も大勢だ………早速いつもの咽喉を聞かしねえ。」
「お前さん、伊太利亞は何處から來たんだね。」
「おゝ、ジヨージだ、イタリアン、ジヨーだ。」と給仕人の一人が乞食の音樂師を見て叫ぶと、其の邊のテーブルに居た地廻りらしい男が、
「ありがてえ、頂かうよ。」と二人の伊太利亞人は早速飮干すと洋琴彈は如何にも親方然と、
すつかり祝儀を拾ひ集めた二人の伊太利亞人は片隅のテーブルに引退いて又二三杯のビール。自分は重い空氣の中に長く閉込められて居た苦しさに冷い深夜の風に吹かれやうと靜に席を立つた。
(明治卅九年七月)