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あめりか物語

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夏の海

七月十日の記

自分の泊つて居るヱムの住居は炎暑の爲め折々人死のある東側イーストサイドの貧民町からは遠く七八哩も離れて、殆ど紐育の市中とは思へぬ位、五階の窓からは西の方一帶にハドソンの河上を見渡し、東の方にはコロンビヤ大學の深い木立を望む極く閑靜な山手でありながら、然し敷石や煉瓦に燒け付く暑はまだ人の目を覺さぬ中から室中を溫室むろのやうに爲て居る。汗は油となつて總身から湧起わきだして來るので、朝の食卓についても食慾は全く去り一皿のオートミールさへ啜り了る勇氣がない。

日曜日なのでM子は自分を案内かた〴〵ニユーゼルシー州のアシベリパークとよぶ海水浴場に行つて見やうといふ。

は暫くの間不審さうに四邊の樣子を眺めて居たが、忽ち思付いて、

電車はアシベリイパークの海邊に臨む町の四辻に停つた。

途中で日は落ちたので、大西洋上に燃る夕榮の美しさを見盡し、おもむろに紐育の港口に近づく頃には、逸早くかの自由の女神像の高く差上げた手先に、皎々かう〳〵たる燈明の輝き初めるのを認めた。續いて夕波高く漲る彼方に、山脈のやうに空を限る紐育の建物、ブルツクリンの大橋、無數の碇船舶、引つゞく波止場々々々燈火の一齋にきらめき渡るさま、日の中に眺めた景色よりも更に偉大に更に意味深く見える。

茫々たる大西洋を前に四五軒並んで居る高い木造りの旅館の緣側、辻の角の藥種屋ドラツグストアー、波の上に築き出した散步場、何れも男や女で一杯になつて居る。其の眞白な衣服と日傘は靑い空と海の色とに相映じて云はれぬ快感を與へるのである。

自分等を載せた汽船は一度は遠く海岸の景色も見分みえわかぬほど、廣い沖合に出たが、軈て再び靜かな陸地に沿うて進んだ。晴れ渡つた靑空に滿渡る明い夏の日光は水平線上に浮ぶ眞白な雲の峯、平な海水、枝も重氣に茂つて居る海岸の樹木を照して、雲の白さ、水の藍色、木葉の綠に、云はれぬ愉快な光澤を與へて居る。見渡すと沿岸は一帶に牧場にでもなつて居るらしい低地續きで、水面には處々に、高く茂つた蘆荻あしの洲が現れ、其の蔭をば眞白な輕舟ヤツトの帆が走つて行く。鷗の群が花の散るやうに飛ぶ。自分は此う云ふ水彩畫その儘の小山水を、偶然無名の里に見出した嬉しさ。世界に知れ渡つた名所古跡に遊ぶの比では無い。

自分はMヱムしと共に散步場の階段から海邊の砂地に下り、何處か水着を貸す家はあるまいかと其の邊を見廻したが、不思議や人は大勢波際を散步して居ながら游泳するものは一人も無い。衣服を脫ぐべき小屋は皆な戶と閉して居る。

自分は走行く電車の上から幾人と數へ盡されぬ程多くの美人多くの美男子を見た。自分は美人美男子を見る時程、現世に對する愛着の念と、我と我存在を嬉しく思ふ事はない。科學者ならぬ無邪氣の少女は野に咲く花を唯だ美しいとばかり毒艸どくさうなるや否やを知らぬと等しく道學者警察官ならぬ自分は、幸にして肉體の奧に隱された人の心の善惡よしあしを洞察する力を持たぬので美しい男美しい女の步む處、笑ふ處、樂しむ處は、凡て理想の天國であるが如く思はれる。ましてや、此の夏の海邊は冬の都の劇場舞蹈場の如く、衣服と寶石の花咲く溫室では無く、赤裸々たる雪の肌の薰る里であるをや。

自分は西洋婦人の肉體美を賞讃する一人である。その曲線美の著しい腰、表情に富んだ眼、彫像のやうな滑な肩、豐な腕、廣い胸から、踵の高い小な靴を穿いた足までを愛するばかりか、彼等の化粧法の巧妙なる流行の選擇の機敏なるに、無上の敬意を拂つて居る一人である。彼等は其の毛髮の色合、顏立、身體付によつて、各巧に衣服の色合や形を選び、十人並の容貌も、能くその以上に男の眼を引くやうにする。飜つて日本の兒女の態を見れば彼等は全く此の般の能力を缺いて居るやうに見えるでは無いか。尤も日本人と云へば非難と干涉の國民であるから此の社會に養成された繊弱かよわい女性は恐れ縮つて思ふやうに天賦の姿を飾り得ないのかも知れない。

自分は無暗と幸福の念に打たれ、半は身を草の上に橫へながら、更に眼を靜な水の上に注ぐと、湖水に等しい入江の唯中に一葉の眞白な小舟ボートが飄然として中空から舞下りたローヘングリンの白鳥かとも怪しまれた。然し乗手は若い女と男の二人ぎりらしく、男は其の强い腕に力を籠めて漕ぎ行くと見え、舟は見る〳〵中に一方に突出た蘆の洲の茂りの蔭に隱れて了つた。自分はハタと草の上に倒れ全く寢床の上に臥るやうに身を伏ると自分の眼の高さは丁度水の面と並行するやうになるので、滿々たる潮は忽ち身を浸すやうに思はれ、靑い楓の葉越に見える夏の空は平常よりも更に高く、更に廣く見えながら、懶く動く白雲は其に反して次第〳〵に我身を包むべく下りて來るやうに思はれた。軈て四邊は模糊として霧の中に隱れるが如く、折々水面を渡つて來る微風そよかぜの靜に面を撫て行くのを感ずるばかり。身體中は骨も肉も皆溶けて氣體となり殘るものは繊細な皮膚ばかりとなつて、遂に水と雲の間に自分は魚よりも鳥よりも輕くふはふは浮び出した………あゝ白日ひるの夢。

自分は今まで此の樣な威儀犯すべからざる銅像を見た事は無い。覺えず知らず身を其の足下になげうつて拜伏したいやうな氣がするのである。この深い感動は全く銅像建設の第一義とも云ふべき其の位置の宜しきが故に外ならぬ。何れの美術にしても所謂アクセツソリーなるものを無視しては美術の效果を全からしむる事は出來ないが殊に銅像記念碑等について自分は此の感を深くする。人は木の葉に等しい船よりして、彼方に民主國の大都府を臨みつゝ大西洋上に此の巨像を仰いだなら、誰とて一種の感慨に打れざるを得まい。この銅像は新大陸の代表者、新思想の說明者であると同時に、金城鐵壁の要塞よりも更に强力な米國精神の保護者である。自分は此の銅像が佛蘭西より寄贈されたものである事を聞いて居るが、其の建設者なる一美術家の力を思へば、神にも等しいではないか。

米國では土地によると、宗敎上の關係から日曜日には凡ての遊戲を禁制する所がある。アシベリイパークもかゝる例の一ツであつたのだ。

異郷の晝の夢。單調な我が生涯に嘗て經驗した事の無い盡せぬ情味を添へてくれたものは此の晝の夢である。今日も又端無く大西洋の潮流れ入るプレザントベーの邊に臥して、自分は夢の中に忽ち美妙の音樂を聞つけて目を覺した。公園の端の料理屋で樂隊オーケストラが何やら靜かなクラシツクの一曲を奏し出したのである。

男は身輕なジヤケツトに麥藁帽子、女は眞白な日傘に帽子も冠らず渦卷く金髮や黑髮ブルネツトの光澤を誇り、短い袴の裾から、皺一ツ無い絹の靴足袋に愛らしい小形の靴を見せ、胸さへ透見えるやうな薄い上衣ウヱーストの袖は二の腕までも捲り上げ腰を振り肩で調子を取りながら、輝く日光の中を步む樣、恰も空飛ぶ鳥のやうである。

然し、自分は猶暫く睡後の意識の朦朧として居る處から眼前の入江から森、雲までを、もう十年も過ぎた會遊の地を望む如き心持で、何とは無しにしげ〳〵眺め入つたが、やがて後の方に近く跫音を聞き付けたので振向くとM君であつた。彼も今方目を覺して、歸りの汽船の時間を聞きに波止場まで行つて來たのだと云ふ。

汽船は五分ほどしてともづなを解いた。波止場の上に往來して居る女の衣服が遠く花園の花の如く見える頃になると、ハドソン河口の偉大な光景が遺憾なく眼前に開展せられる。赫々たる夏の空高く聳ゆる紐育の高い建物を中心として、右の方にはハドソン河を隔てゝ煤烟雲と棚曳くニユーゼルシーの市街を眺め、左の方には世界の港灣から集來る幾多の汽船が自由に其の下を往來して居るブルツクリンの大橋、續いてブルツクリンの市街。而して此の恐るべく驚くべき平和の戰場をば唯の一目に見下して居るのは、片手にほこを差上げて港外遙かの海上に立つ自由の女神像である。

汽船は二三箇所狹い海水浴場の波止場に立ち寄り、午後の一時過プレザントベーと云ふ同じ夏場に到着した。水際一帶の低地は公園になつて居て、小い音樂堂、料理屋、玉場などが樹の蔭に散在して居る。此處から電車に乗つて一時間あまり、目的のアシベリイ、パークに到るまでの沿道には盡く夏のホテル夏の貸別莊と、木立の涼しい牧場とが入替り立替り續いて居る。

此の晴渡つた明い夏の日、爽快な海の風吹く水村は世の夢を見盡した老人の隱場では無く、靑春の男女が靑春の娯樂靑春の安逸靑春の癡夢ちむ醉ひ狂すべき溫柔郷である。

此の州の或町に行くと、日曜日には一切舟遊びを禁じながら馬車や自動車オートモビルを馳らす事を許して居る滑稽な矛盾を見た事もあるとM子はやがて自分に話した。

木庭の楓に網床ハンモツクを吊し身を長々と橫へて小說を讀んで居る若い姉妹、綠滴る緣側ベランダに安樂椅子を並べて往來を眺めながら樂し氣に語り合うて居る若い夫婦、牧場から野の花を摘んで鐵の垣根道を歸つて來る若い戀人同士、手を引合ひ唱歌を歌つて走廻つて居る小娘の幾群、花園を前にした門の戶口に其の友を訪れる美少年の幾組、到る處愉快な笑ひ聲と話聲、口笛とピアノの響。

早速家を出で地下鐵道サブウヱーに乗り、市の北端から南端まで僅に三十分あまり。停車場の石段を上つて市中でも一番高い建物の群り立つて居る紐育中の紐育とも云ふべき下町の街を過ぎて南の波止場に赴いた。見ると橫付にされた汽船の甲板、切符の賣場、波止場の前の公園、共に一杯の人である。亞米利加人ですら初めて紐育を見るものは市中如何なる處へ行つても人並の溢れ漲つて居るのに一驚を喫すると云ふ位である。氣の弱い自分は、「到底乗り切れまい。」と落膽した調子で云つたが、永く此の修羅場に馴れて居る所謂敏捷スマートなM子は平氣なもので、自分の手を引きながら、ズン〳〵群衆の中へ割つて這入り、どうやら道を造つて、到頭汽船の甲板に上り、あり合ふ疊椅子を捜出して腰を下した。

去年自分は落機山ロツキーさんを越え、またナイヤガラ瀑布を過ぎた折、この世界の奇勝も豫想した程には自分の心を動さなかつたが、それに反してミゾリ州の落葉の村、ミシガン州の果樹園の夕暮に忘れられぬ詩興を催されそゞろに感じた事がある―――およそ造化の巧を集めたそれ等の名山靈水は久しい間世の人に驚かれ敬はれて居る事、若しミルトンが失樂園ダンテの神曲にも譬へ得べくば、彼の名も無き村落の夕暮の景色は正に無名詩人が失戀の詩とも云ふべき歟。トルストイはベトーヴエンの音樂よりも農奴ムージツクが夕の歌に動され、ジヨージ、エリオツトは古代の名畫よりも小さな和蘭畫を愛したと云へば、自分が常に博士や學者が考究の玩弄物になつて居るクラシツクの雄篇大作よりも、ツルゲネフ、モーパツサンの小篇に幾多の興を覺ゆる事、獨り淺學の故とのみ限られはせまい。

公園の入口に下車すると直樣二人は水邊の木蔭に步み寄り柔い靑草の上に腰を下す。見渡す眼の前の景色は白い夏雲の影を映した平かな入江を隔てゝ、夏木立の低く茂る間から農家の屋根や風車。まるで平和な和蘭畫を見るとしか思はれぬ。

二人は木蔭を出で音樂を奏して居る公園の料理屋に入り冷した果物と生薑しやうがしゆに咽喉を潤した後、夕の五時過に船に乗つた。

二人は少時砂の上に腰を下し雲のみ浮ぶ無限の大洋に對して居たが、軈て再び散步場に出で、レモン水の一杯に渴いた咽喉を濕した後、先刻上陸したプレザントベー公園に戾り、歸りの汽船ふねの出帆するまで一睡を試る事にしてせ來る電車に飛び乗つた。

一卷の詩集は例の如く衣嚢の中に携へて居たものゝ、奇しき自然の前に對しては、如何なる美術も如何なる詩篇も、要するに怪異と誇張と時には全く虛僞としか見えぬので、其樣人工的のものには手を觸るゝ氣もせぬ。思ふが儘に身を延して、高い梢越の空を仰ぎ、濕つた土と草の香を嗅ぎつゝ、鳥の歌、栗鼠の叫びに耳を澄まして居ると、自分は全く世間を見捨てた或は世間から見捨てられたやうな氣になる。日本であると隨分遠い山里に行つても、土地は多く開拓され盡して居るので、何となく浮世の風の通つて居る氣がするけれども、さすがは新大陸の廣漠たる、町から二哩出るならば、何處へ行つても此う云ふ無人の境が現れ、此れに異郷の寂寞と云ふ主觀的の情趣を加味して見るので、樹木の茂り、水の流、空行く雲の有樣は、凡て自分には一種云ひ難い悲愁の美を感じさせる。空想は泉の如く湧起り自分は放浪の生活の冷い快味を思ふにつけ、一層の事アラビヤの女と駱駝と並べて砂漠を步み、天幕の下に眠つて見たらば如何であらう、かと思ふと、忽ち旅で病にかゝり日光の照さぬ裏町の宿屋に倒れるやうな運命に出逢つたら………と今度は覺えず慄然ぞつとして明日にも日本に歸り度いやうな、極端から極端の事に思を走せ、遂には氣疲れして其のまゝ混惑の夢に落ちて了ふのである。

ミシガン州の片田舎に居た頃、丁度五月の末であつた。メープルエルムオークなぞの大樹の若葉は鬱蒼として村落を包み、野草は萋々せい〳〵として牧場を蔽ひ、林檎、桃、櫻の花は小丘をかづる果樹園に、紫色のライラツク眞白な雪球花スノーボール、紅の薔薇は人家の小庭に咲き亂れる北國の春の半。南方から春夏を此地に集ひ來る駒鳥ロビン黑鳥ブラツクバードは庭と云はず墓場と云はず街と云はず村と云はず、樹のある處、花咲く處には、聲を限りに長閑な歌を歌ひ續ける。然し大陸の常として日和續きの日中は、日本ならば最う七月の暑かとも思はれる强い日の光に、自分は狹い居室の氣を晴す爲め、村はづれから起伏する小丘の間を、鐵道の線路に沿ひ、次第々々に人無き檞の森林に迷ひ入り、白い雛菊デージーや黃金色なすバタカツプスの咲き亂るゝ野草の中に身を投入れると、幾多の栗鼠は物音に驚いて、草の中を四方に逃げ散り、逸早く檞の梢から梢を渡つてキヽと鳴く。

「日曜日だからだ。」といつた。

「別に海が荒れて居る譯でもないのに、如何したのであらう。」

汽船の波止場についた時は丁度八時、二人は晚餐をとゝのへる爲め、夜は殊に賑ふ十四丁目通りのる佛蘭西の料理屋カツフヱーに這入つた。

(明治卅八年七月)

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夏の海