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あめりか物語

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一月一日

一月一日の夜東洋銀行米國支店の頭取某氏の社宅では、例年の通り初春を祝ふ雜煮餅の宴會が開かれた。在留中は何れも獨身の下宿住ひ、正月が來ても屠蘇とそ一杯飮めぬ不自由に、銀行以外の紳士も多く來會して二十人近くの大人數である。

キチーと云つて、此の社宅には頭取の三代も變つて、最う十年近く働いて居る獨逸種の下女と、頭取の細君の遠い親類だとか云ふ書生と、時には細君御自身までが手傳つて、目の廻る程に忙しく給仕をして居る。

騷然たる一座の雜談は忽ち此の奇妙な人物の噂に集注した。頭取は流石老人だけに當らず觸らず、

處が幸にも一度日本を去り此の國に來て見ると、萬事の生活が全く一變して了つて、何一ツ悲慘な連想を起させるものがないので、私は云はれぬ精神の安息を得ました。私は殆どホームシツクの如何なるかを知りません。或る日本人は盛に米國の家庭や婦人の缺點を見出しては非難しますが、私には縱へ表面の形式僞善であつても何でもよい、良人が食卓で妻の爲めに肉を切つて皿に取つて遣れば、妻は其の返しとして良人の爲めに茶をつぎ菓子を切る。其の有樣を見るだけでも私は非常な愉快を感じ、强ひて其の裏面を覗つて、折角の美しい感想を破るに忍びない。

聞いて下さいますか―――

私は殆ど父の膝に抱かれた事がない。時々は優しい聲を作つて私の名を呼ばれた事もあつたですが、猫のやうにいぢけて了つた私は恐くて近き得ないのです。殊に父の食事は前申す通り到底子供の口になぞ入れられる種類のものではないので、一度も膳を並べて箸を取つた事もなく、幼年から少年と時の經つに從つて、私は自然と父に對する親愛の情が疎くなるのみか、其の反對に父なるものは暴惡ばうあく無道ぶだうな鬼のやうに思はれ、其れにつれて母上は無論私の感ずる程では無かつたかも知れないが、兎に角父が憎さの私の眼だけには世の中に何一つ慰みもなく樂みもなく暮らして居られるやうに見えた。

私は春の野邊へ散策ピクニツクに出て大きなサンドウイツチや林檎を皮ごと橫かじりして居る娘を見ても、或はオペラや芝居の歸り夜深よふけの料理屋でシヤンパンを呑み、良人や男連には眼もくれず饒舌つて居る人の妻を見ても、よしや最少し極端な例に接しても、私は寧ろ喜びます。少くとも彼等は樂んで居る、遊んで居る、幸福である。されば妻なるもの母なるものゝ幸福な樣を見た事のない私の目には此れさへ非常な慰藉なぐさめぢやありませんか。

私は實に大打擊を蒙りました。其の後と云ふものは友人と一緖に牛肉屋だの料理屋なぞへ行つても、酒の燗が不可ないとか飯の焚き方がまづいとか云ふ小言を聞くと、私は直ぐ悲慘な母の一生を思出して胸が一杯になり、緣日や何かで人が植木を買つて居るのを見れば私は非常な慘事を目擊したやうに身を顫はさずには居られなかつた。

私の父は或人は知つて居ませう、今では休職して了ひましたが、元は大審院の判事でした。維新以前の敎育を受けた漢學者漢詩人其れに京都風の風流を學んだ茶人です。書畫骨董を初め刀劍盆栽盆石の鑑賞家で、家中はまるで植木屋と古道具屋を一緖にしたやうでした。每日のやうに、何れも眼鏡を掛けた禿頭の古道具屋と、最う今日では鳥渡見られぬかと思ふ位な、妙な幇間ほうかんはだの屬官や裁判所の書記どもが詰め掛けて來て父の話相手酒の相手をして十二時過ぎで無ければ歸らない。其の給仕や酒の燗番をするのは誰あらう、母一人です。無論下女は仲働に御飯焚と二人まで居たのですが、父は茶人の癖として非常に食物のやかましい人だもので到底奉公人任せにしては置けない。母は三度々々自ら父の膳を作り酒の燗をつけ、時には飯までも焚かれた事がありました。其程にしてもまだ其の嗜好には適しなかつたものと見えて、父は三度々々必ず食物の小言を云はずに箸を取つた事がない。朝の味噌汁を啜る時からして三州味噌の香氣にほひがどうだ、鹽加減がどうだ、此の澤庵漬たくあんの切方は見られぬ、此の鹽からを此樣皿に入れる頓馬はない、此間買つた淸水燒きよみづやきはどうした又破したのぢやないか、氣を付けてくれんと困るぞ………丁度落語家が眞似をする通り傍で聞いて居ても頭痛がする程小言を云はれる。

母の仕事は恁く永久に賞美されない料理人の外に、一寸觸つても破れさうな書畫骨董の注意と盆栽の手入で、其れも時には禮の一ツも云はれゝばこそ、何時も料理と同じやうに行屆かぬ手拔りを見付出されては叱られて居た。ですから私が生れて第一に耳にしたものは、乃ち皺枯しわがれた父の口小言、第一に目にしたものは何時も襷を外した事のない母の姿で、無邪氣な幼心に父と云ふものは恐いもの、母と云ふものは痛しいものだと云ふ考へが、何より先に浸渡りました。

此う云ふ境遇から此う云ふ先入の感想を得て、私は軈て中學校に進み、圓滿な家庭のさまや無邪氣な子供の生活を寫した英語の讀本、其れから當時の雜誌や何やらを讀んで行くとラヴだとか家庭ホームだとか云ふ文字の多く見られる西洋の思想が實に激しく私の心を突いたです。同時に、父の口にせられる孔子の敎だの武士道だのと云ふものは人生幸福の敵である、と云ふやうな極端な反抗の精神が何時とは無しに堅く胸中に基礎を築き上げて了つた。で、年と共に鳥渡した日常の談話にも父とは意見が合はなくなりましたから、中學を出て高等の專門學校に入學すると共に、私は親許を去つて寄宿舎に這入り折々は母を訪問して歸る道すがら、自分は三年の後卒業したなら、父と別れて自分一個の新家庭を作り、母をしやうじて愉快に食事をして見やう………とよく其樣事を考へて居ましたが、人生は夢の如しで、私の卒業する年の冬母上は黃泉あのよに行かれた。

其の時突然、

僕は返事に困つて、飮みたくもない水を飮みながら其の場を紛らした。

何れも西洋人相手の晚餐會デンナーとはちがひスープの音の氣兼もない處から、閉切つた廣い食堂には、此の多人數がニチヤ〳〵嚙む餅の音、汁を啜る音、さては、ごまめ、かずのこを嚙み碎く響、燒海苔の舌打なぞ、恐しく鳴り渡るにつれて、「どうだ。君一杯ひとつ。」の叫聲、手も逹かぬテーブルの彼方此方を酒杯の取り遣り。雜談蛙の声の如く湧返つて居た。

何でも夜半近くから急に大雪が降出した晚の事で、父は近頃買入れた松の盆栽をば庭の飛石に出して置いたので、この雪の一夜を其の儘にして置いたなら雪の重さで枝振りが惡くなるからと、下女か誰かを呼び起して家の中へ入れさせやうと云はれた。處が母上は折惡しく下女が二三日風邪の氣味で弱つて居た事を知つて居られたので、可哀さうですからと自ら寢衣ねまきのまゝで雨戶を繰つて庭に出て、雪の中をば重い松の盆栽を運ばれた………母は其夜から俄に感冒かぜを引かれ忽ち急性肺炎を起した。

お分りになりましたらう。私の日本料理日本酒嫌ひの理由はさう云ふ次第からです。私の過去とは何の關係もない國で出來る西洋酒と母を泣かした物とは全く其の形と實質の違つて居る西洋料理、此れでこそ私は初めて愉快に食事を味ふ事が出來るのです。」

* * * *

「鳥渡人好きはよくないかも知らんが極く無口な柔順しい男です。長く居るだけ米國の事情に通じて居るから、事務上には必要の人才です。」と隱な批評を加へて、酒杯に舌を潤はした。

「金田は又來ないな。あゝハイカラになつちや駄目だ。」とテーブルの片隅から喧嘩の相手でも欲しさうな醉つた聲が聞えた。

「金田か、妙な男さね、日本料理の宴會だと云へば顏を出した事がない。日本酒と米の飯ほど嫌ひなものは無いんだツて云ふから………。」

「米國まで來て此樣御馳走になれやうとは、實に意外ですな。」と髯を捻つて嚴めしく禮を云ふもあれば、

「米の飯が嫌ひ……其ア不思議だ。矢張り諸君の………銀行に居られる人か。」と誰れかゞ質問した。

「私は………父はまだ逹者ですが、母は私が學校を卒業する少し前に死亡なくなりました。」

「然しまアさう攻擊せずと許して置き給へ。人には意外な事情があるもんだ。僕もつい此間まで知らなかつたのだが、先生の日本酒嫌ひ、日本飯嫌ひには深い理由があるんだ。」

「然し、餘り交際を知らん男ぢや無いですか。何程、酒が嫌ひでも、飯が嫌ひでも、日本人の好誼よしみとして、殊に今夜の如きは一月一日、元旦のお正月だ。」と最初の醉つた聲が不平らしく非難したが、すると此に應じて片隅から、今までは口を出さなかつた新しい聲が、

「死んだ母の事を思ひ出すからです。酒ばかりぢやない、飯から、味噌汁から、何に限らず日本の料理を見ると、私は直ぐ死んだ母の事を思ひ出すのです。

「正月の話には、ちと適當しないやうだが………。」と其男は前置して、「つい此間、クリスマスの二三日前の晚の事さ。西洋人に贈る進物の見立をして貰ふには、長く居る金田君に限ると思つてね、彼方此方とブロードウヱーの商店を案内して貰つた歸り、夜も晚くなるし、腹も空いたから、僕は何の氣なしに、近所の支那料理屋にでも行かうかと勸めると、先生は支那料理はいゝが、米の飯を見るのが厭だから………と云ふので、其のまゝ先生の案内で、何とか云ふ佛蘭西の料理屋に這入つたのさ。葡萄酒が好きだね………先生は。忽ちコツプに二三杯干して了ふと、少し醉つたと見えて、ぢツと目を据ゑて、半分ほど飮殘した眞赤な葡萄酒へ電氣燈の光の反射する色を見詰めて居たが、突然、

「恁う云つてね、金田君は身の上話を聞いてくれたお禮だからと、僕が止めるのも聞かずに到頭三鞭酒シヤンパンしゆを二本ばかり拔いた。流石西洋通だけあつて葡萄酒だの、三鞭酒なぞの鑑別みわけは委しいもんだ。」

「奧樣、此れでやツとホームシツクが直りました。」とにや〳〵笑ふもあり、又は、「何しろ二年振こんなお正月をした事がないんですから。」と愚癡ぐちらしく申譯するもある。

「君は兩親とも御健在ですか。」と訊く。妙な男だと思ひながらも、「えゝ、丈夫ですよ。」と答へると、俯向いて、

「君の父親フアーザーは、酒を飮まれるですか。」少時して又訊出す。

「僕はそれ以來大に同情を表して居る。」

「何故です。」

「一體、どう云ふ譯だ。」

「はア、さうか。」

「それぢや、君の家庭は平和でせうね。實際、酒は不可んです。僕も酒は何によらず一滴も飮るまいと思つて居るんですが、矢張り多少は遺傳ですね。然し、私は日本酒だけは、どうしても口にする氣がしないです………匂ひを嗅いだゝけでも慄然ぞつとします。」

「さうです。」と答へたのは主人の頭取で、「もう六七年米國に居るんだが………此の後も一生外國に居たいと云つてゐます。」

「いや、時々麥酒位は遣るやうです。大した事はありません。」

辯者は語り了つて再び雜煮の箸を取上げた。一座暫くは無言の中に、女心の何につけても感じ易いと見えて頭取夫人の吐く溜息のみが、際立つて聞えた。

(明治四十年五月)

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