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あめりか物語

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舊恨

博士B――なにがし氏とオペラを談じた時である。談話は濃艶にして熱烈なる伊太利亞派、淸楚にして又美麗なる佛蘭西派の特徵より、やがて雄渾宏壯神祕なるワグナーの獨逸樂劇オペラに進んだ。

偉大なるは Dasダス Rheingoldラインゴルト につゞく三樂劇トリロジー、神聖なるは Parsifalパルシフワル 悲哀なるは Tristanトリスタス undウント Isoldaイソルダ 美麗なるは Lohengrinローエングリン 幽鬱なるは Derデル F'liegendeフリーゲンデ Holländerホレンデル ………と何れもバイロイトの大天才が世に殘した音樂の天地と共に不朽なるが中に、自分は單だ素人耳の何となくかの Tannhäuserタンホイザー の物語を忘れ兼ねる………。

長き快樂けらくの夢覺めて己が身の罪に泣く樂師の心の中。私は其の歌、其の音樂から、突然こゝに忘れて居た結婚以前の放縱な生涯、一時消失せた快樂の夢を思起したのです。すると私には最う舞臺の上のタンホイザーは我が過去の恍惚くわうこつ煩悶はんもん慚愧ざんきの諷刺としか見えず、美しい邪敎の神快樂の神なるヰナスは丁度我が昔の情婦マリヤンと呼ばれた若い女役者であるとしか思はれなくなつた。

自分が椅子を進めるのを見て博士は語り出した。

聽いて居た私は覺えず深い溜息を漏らして目を閉りました。

私等は生きて居る人間の身の歡樂たのしみを味ひ得らるゝ限り味はうと云ふので、或時は凡ての飮食物が接吻の味をぎは爲まいかと氣遣ひ、飢を支へる水とパンとに口を動かす外は絕ず接吻して居た事もあり、又或時は若い血の暖みを遺憾なく感じて見たいつもりで、冬の夜通しを窓を明けたまゝ抱合うて居た事もあつた位。

私は默然として女の身に付けた化粧の薰を深く吸ひながら凝と其の橫顏を打目戍つた。

私は殆ど仰向に居眠つて居る彼女の唇の上に輕く我が唇を押付けた。柔かな、暖い呼吸は直に私の身中に突入る。

私は彼女が五階目の居室へやまで送つていつたが、其の夜は五分ほども長居はせず、その儘辭して家へ歸つた―――すると其の翌日の午後の事、私は使ひの子供から一通の書狀を受取つた。次のやうな文句が綴られてある。

私は妻ジヨセフインと共に綾羅りようらと寶石の海をなした場内の定の席に付くと間もなく、頭髮の長い樂長が舞臺の下の樂壇に立ち現れ、手にする指揮鞭バートンで三擊の合圖をすると、燦たる燈火一齊に消え、無數の聽衆は廣大な場中の暗澹くらきに包まれて寂となる。管弦樂オーケストラは先づ淋しく嚴かな巡禮ピルグリムの曲より熱烈な遊仙洞ペヌスベルグの曲に入り、軈て「女神ヰナス讃美ヒームン」に進み、此の樂劇の意味全體を代表したとも見るべき長い前奏オバーチユアーが了る………と幕明いて女神ヰナスの山の段。

私は場内の光景から其の夜舞臺に上つた歌人、樂人、或はかの獵の從卒や大名、巡禮の行列なぞに出る數多の合唱歌人の顏までをも、一々明かに記憶して居ます。

私は今でも能く思出すのです、吹雪の夜丁度方々の芝居が閉場はねる十二時前後のブロードウヱーの光景。此の時此處ばかりは無數の男女無數の馬車の雜沓に如何なる冬の夜とても人は寒氣を感じない。五さい燦爛さんらんたる燈火に見渡すかぎり街はさながら魔界の夢の如く、立並ぶホテルの廣間や料理屋の硝子戶の中には、明い燈火の光が幾組となく白い肩を出した女や、頭髮を綺麗に撫付けた男の姿を照し、彼方此方の高い二階の窓からは、玉突の棒を片手に、深夜の勝負に疲勞を知らぬ男の影も見え、さて其の邊の酒屋やカツフエーの彩つた戶口には媚を賣る女の出入絕える間もない。私は四辻に佇立んでは此の有樣をヂツと打目戍り、如何なる事業も天才も時來れば皆滅びて了ふ人生には、唯だこの靑春の狂樂、これより他には何物もないとつく〴〵感じた事もあつた。

私は一時の擧動に耻入つて何とも答へず俯目になると、マリヤンは高くほゝゝほと笑ひながら、丁度其の時馭者の明ける車の戶から、鳥のやうに裾輕く飛び下りた。

私はまだ學業をも了らぬ中から折々長閑な春の半日書齋の窓に葉卷の煙を吹きつゝ、一生の中何時か一度は彼の種の女と戀し戀されて見たならばと、さま〴〵愚な事を空想した事がある。兎に角私は普通の人よりか高い敎育を受け讀書もした身である。飽くまで其の慾情の賤しく又愚である事を承知して居ながら、さて何うしても其れをば抑制する事が出來ない。能く佛蘭西や露西亞の自然派の小說に描かれて居る―――立派な品性の紳士がかゝる劣等の女性の爲に身を滅す物語なぞを讀むと、私はヒステリー質の女のやうに身につまされて泣き、あゝ此れが運命と云ふものかと深く懷疑の闇に彷徨うた事も度々でした。

私の聲に彼女は初めて目覺めたらしく膝の上に置いた白い鼠の毛の暖手袋マツフで眼を擦りながら、

私の方は又私自身の物思ひに知ず〳〵語少く、二人は劇場を出ると其の儘、直ぐ馬車に乗つて旅館に歸つて來た。

當時私は新婚旅行のつもりで妻と共に歐洲を漫遊し、丁度墺太利の首府に滞在して居たので、一夕この都の有名な帝室付のオペラ、ハウスに赴いた(と博士は室の壁に掛けてある寫眞の建物を指した後)其の夜の演題は乃ちタンホイザーであつた。

男の出來心は一度此謎の樣な魔力に擽られかけると、魅せられた眼には何時となく敎育あり淑德ある妻や娘は冷い道德の人形のやうに見えて來て、「戀は浮浪ならずものボヘミヤの兒よ」と歌ふ放縱な詩趣のみに醉ひ家庭や國家の感念は失せ、身の行末まゝよと激しい慾情の虜になつて了ふのです。

然し此の人の世は如何に香しい夢とても、如何に深い醉とても、時來れば覺め消えるが常である。私は今日となつて考へて見るとあれほどまでに戀し合うて居たものを、どうして別れる氣になつたものか、殆ど不思議で、それをば說明する事は出來ないのです。敎育から得た理智の念が追々魔醉した心を呼覺した爲めと見てもよからう。或は男性固有の功名心が次第に戀の夢よりも强くなつて來た爲め、或はタンホイザーの物語を其儘に溫柔郷をんじうきやうの歡樂につかれて靑山流水の淸淡せいたんに接したくなつた爲め、或は暖室の重苦しい花の香に醉うた後再び外氣の冷淸に觸れたくなつた爲めと見てもよからう………兎に角私は止るマリヤンをば打捨てゝ再び社會の人となつたのです。

然しあなたも已に感じて居られる通りワグナーの音樂には(と博士は鳥渡私の顏を見遣つて、)他の凡の音樂とは類を異にし聽く者の心の底に何か知ら强い感化を與へねば止まぬ神祕の力が籠つて居る。

此樣生涯を送つて居る中、私はかのマリヤンと呼ぶ女藝人と懇意になつたのです。

或夜例の如く劇場が閉場てから夜を生命の女供が能く集る料理屋へと、私は道樂友逹三人連で、獨身時代の銳い眼をキヨロ〳〵させながら這入つて行くと、ある食卓に二人連の女が、知己ちかづきと見えて吾々の一人を呼び止めた。

我が身は君を待たんが爲めに、何丁目なるホテルに引移り候。かの上町の住居は戀の私語さゝめごとに便ならず候へば。

我が身は君を一目見て戀し候。我等の戀は此の如し、何故とな問ひ給ひそ。あゝ今宵の逢瀨まで、さらば―――(と此の最後は佛蘭西語で書いて)戀するMより

恁う質問すると、B――博士は忽ち胸を刺されたやうにはツ﹅﹅と深い吐息を漏し、暫く無言で自分の顏を打目戍つて居たが、

御存じの通り下手に女神ヰナスの寐臺の下に樂師タンホイザー立琴を手にした儘居眠つて居る。數多あまた女神ニンフが舞蹈から空中に現れる幻影なぞタンホイザーの夢よろしくあつて、樂師は遂に目覺め、此の年月美しい女神の愛に人間の歡樂と云ふ歡樂に醉うて居たが、今は浮世の却つて戀しく、別れを吿げて歸りたいと云ふ。それをば女神は引止め、もし浮世に歸るならば必ず昔の夢を思起してくゆるであらう。女神と共に何時までも戀の立琴を搔鳴らして歡びの歌を唱へと。然しタンホイザーの心動かずその唱ふ聖女マリヤの歌に魔界の夢は破れ、女神は其の山もろともに闇の中に消去り、タンホイザーは唯一人、故郷なるワルトブルグに近き山道のほとりに立つて居る。

彼女はハドソン河に近いアツパートメントに住んで居ると云ふので、ブロードウヱーを北へ小半時間、市内目拔の場所を離れると、直ぐ樣眞夜中過ぎの淋しさは物凄いばかり、我を運ぶ馬のひづめの空遠く反響し、車の窓から射込む夜の空明りは白粉した女の顏をば蒼く朧ろに照す。

年紀は二十一二か。全體が小作りで頸の長いおとがひの高慢らしく尖つた眼の大きい圓顏で、小くて堅く締つた口許には何か冷笑するやうな諷刺が含まれて居る―――決して美人と云ふのでは無い、大きな油畫のモデルでは無いが、一筆ペンシルを振つた漫畫の風情。人は時として「完成」よりも「未成」の風致に却て强く見せられる事がある。

大きな古い旅館の一室、片隅の小机の上に、綠色の笠を冠つた燈火が點いて居るばかり、窓の外には何の物音も聞えぬ。吾々米國人には、この寂とした舊世界の都の夜半には、何處からともなく、幾世紀間の樣々な人間の聲も聞き得らるゝやうに思はれ、驚いて見廻せば凡てを暗色に飾つてある壁と天井に調和して、窓や戶口に掛けてある重く濃い天鵞絨の帷帳とばりの粛然と絹の敷物の上に垂れて居る樣子、私は古い寺院の壁から迫るやうな冷氣を感じた。

夜の二時過まで騷いだ後、吾々は二人の女をば例の如く各その家まで送つて行く事となつたが、往來へ出て辻馬車を呼ぶ時に、どう云ふ其の場のはずみであつたか、二人の友はネリーと呼ぶ女と三人一組になり、私とマリヤンとは全くの二人連で別の馬車に乗つた。

吾々は其の儘女の食卓に着いて、例の愚な話に罪もなく笑ひ興ずるのです。が、時としては聞くに堪へない劣等な語に思はずぞつとすると、絕えず自分の弱點を憤つて居る念がむら〳〵と湧起り、同時に果敢さが身に浸渡つて私ばかりは兎角無言に陷り易い。

二人とも疲れて煖爐の前の椅子に身を落すと、間もなく妻は片手に頰を支へながら、「一體、あのオペラの理想は如何云ふんでせう。」と私の顏を見上げました。

世には禁ぜられた果物程味深いものが又とあらうか。罪の恐れ毒の慮りは却つて其等の魔力を增すに過ぎない。今は何も彼も打明けてお話しやう………(と博士は耻らふ如く稍俯目になつて、)男と云へば一時は誰でも此の種の女の化粧の力に魅せられるものであらうが、と云つて私ほど魂を奪はれたものも少いであらう。如何なる譯からか、私には美しい衣裳に身を飾り舞臺のフツトライトの前で、態とらしい眼付や身振をして舞ひ歌ふ女藝人や女役者、さらずば料理屋劇場舞蹈場をどりば又は往來や馬車の途すがらも其の特種の樣子と容貌きりやうに人の目を惹く一種の女が、何となく愛らしく好いたらしく見えてならなかつた。デユーマが「公爵夫人にもあらず又處女にもあらず」と云つた此の種の女には全く云ひ難い美がある。魔力がある。よし畫家の夢みる美人では無くとも其の濁つた眠氣な眼の中、細い不健全な指先や、時には恐しく下賤に見える口許に敵し難い誘惑の力がある。乃ち其の眼色は何時でもお前の云ふまゝにと身を投掛ける心を見せながら、口許では用心するが好い、酷い目に逢ふぞと云はぬばかりの冷笑とすね﹅﹅氣味を含ませて居る。

マリヤンは每夜を深す身の疲勞か、今は力なく頭を後に倚せかけ、重げな瞼を折々は押開いて、私の方を流眄ながしめに見ながら態とらしく紅さした口許に笑ひを浮べる。が、最う强ひて話しをしかける元氣も無いらしい。

マリヤンはぱつちりと其の大きな眼を開いて私の顏を見たが、その儘再び居眠つて了ふ。私は車窓まどの外に並木の影の後方うしろざまに動いて行くのを見、又遠く空の端れに風の走る音を聽いたが、心は早くもゆめうつゝに彷徨ひ、今一度と重て顏を近付ける―――途端に馬蹄の響ハタと止み車は明い入口の前に止つた。

タンホイザーは先程から此等の歌に聽き取れて居たが忽ち今まで耽つた我が罪の歡樂の空怖しくなり、感慨極つて其の場に泣き伏して了ふ。

もう二度と若い時代の愚な夢には耽るまい。人間の職務は地上の生命と共に消えて了ふ歡樂に醉ふ事よりも、もつと高尚で且つ永久のものがある。先づ善良なる市民となる爲めに正當な家庭を作れ。幸ひにして私は米國の社會には名のある家に生れ父の遺產も少からずあつた爲め交際社會へ出ると、世は狹くて又廣いもので、誰一人私の昔を知つて居るものはなく、程なく私はジヨゼフインと云ふ判事某の令孃と結婚しました。

もう二十年も昔の事です。私の妻ジヨゼフインが丁度貴君と同じやうにかのタンホイザーの意味は何であるかと訊いた事がある。

と、山道の岩の上に幼い羊飼一人、塵に汚れぬ聲も淸らかに笛を吹いては歌を唱うて居る。間もなく山の彼方よりはる〴〵羅馬ローマへ行く巡禮の悲しい聲が聞え巡禮の行列は山道を通つて行き過る。

して今日、歐洲に新婚旅行の途すがら、此處に共々オペラを聽いて居る………私は舞臺で歌つて居る樂師タンホイザーの恨をば其の儘に我が胸の底深く、懷舊の淚を呑込んで居たが、それをば知る由もない妻ジヨゼフインは上流社會の女性の常として唯だ主義なく技巧的に修練された藝術鑑賞の態度で傾聽して居るのに過なかつたらしい。

されば一幕目は濟み二幕目の廣い宮殿の場、三幕目巡禮の歸り………とオペラ三幕を聽き了つた時には、私の妻は何やら物思はしい樣子になり、搔亂された空想の中から、何か纏つた感念を探りたいと悶えるらしく見えたです。

この樣子を見て取つたマリヤンは私をば至極遊樂あそびには初心うぶな男と思つたらしく、「何故、そんなに鬱いでいらつしやるんです、もつと大きな聲でお笑ひなさい。」と時には氣の毒さうに私の顏を見ました。

この年月の夢は今こそ誠となつた。私の決心は恐らく彼女の決心よりも迅速であつたらう。私は取るものも取りあへず其の夜示されたホテルに駈け付けると其の儘一年半ばかりの長い月日を女と二人で夢のやうに暮して了つた。

かく一方で理と智惠とが非難すればするほど慾望はます〳〵高まる。私は學校を出ると直ぐ道樂者ばかり寄集つて居る倶樂部の會員となつて、劇場しばゐから舞蹈場、玉突場から料理屋と、燈火の輝き紅粉の薰ずる處と云へば場所を選ばず夜を探したもので、當時を回想すると私は如何しても狂氣して居たとしか思はれない。晝の中太陽の照り輝いて居る間だけは私は確に正當な判斷を有し充分に自己の力に信賴する事が出來たが、さて夕暮の霧と共に、街頭に燈火がちらちら爲始めるともう最後です。燈火は私の良心廉耻心希望の凡を灰燼にして了ふと同時に、その燈火の影をば往來する女の姿は我が眼には全く快樂の表象シンボルとしか見え無かつた。

「好い心持に夢を見て居たんです………が、それぢや接吻なすつたのはあなたなんですか。」

「博士よ、貴君はあのオペラの理想については如何いふ說をお持ちですか。」

「不幸にして、私は彼のオペラを學術的に判斷する資格がないのです。」と俯向いて、「何故ならばあのタンホイザーを聞いた當時の事を思出すと無限の感に打たれる………お話しませうか、もうざつと二十年も昔の事ですが………。」

「マリヤン。」

椅子から立上つて天井から釣してある電燈を點じやうとすると、妻は手振でそれをば制した。しんみりと話でもするには餘り明くない方がよいと思つたのであらう。元の椅子に坐ると妻は沈んだ聲で問ひ掛けます。

「あなた。私にはどうも合點が行かないのです、タンホイザーが女神に別れて故郷に歸つて來る心持はさも然うであらうと思ふんですが、さて歸つて來た後、自分を慕つて居る領主の姫君ヱリザベツトの目前で一度後悔した女神の事を思ひ出すと云ふのは何う云ふ譯でせう。私にはあの心持が分らないのです。」

私の耳には忽如として、

戀の女神よ………ヰナスのみこそ御身に愛を語るなれ

(Die Göttin der Liebe)

と激しいタンホイザーの歌が聞え出す、同時に心の底にはマリヤンの面影。私は燈火あかりの逹かぬ暗い天井の一隅に眼を注いだ儘、夢に獨語するやうな調子で答へた。

「それが卽ち人生とも云ふべきものだ。忘れやうとするけれども忘れられない。愚と知りながら陷り悶える。何に限らず理と情との煩悶、一步進めれば肉體と精靈の格闘、現實と理想の衝突矛盾。此の不條理が無ければ人生は如何に幸福であらう………然し其れは及ばぬ夢で私にはこの肉心にくしんの煩悶が人生の免れない悲慘な運命であるやうに思はれる………。」

話す中に私は弱い我身の上のみならず地上に住む凡ての人の運命が果敢く思はれて來て、子供のやうに譯もなく大聲を上げて泣いて見たいやうな氣がして來た。

「それですから、私逹は神に………宗敎に依賴するのではありませんか。」

此う云ふ妻の聲は、生きて居る女の口からではなく、何處か遠くから響いて來るやう。私は聲を顫はし、

「然し、宗敎も信仰も、時としては何の慰藉なぐさめも與へぬ事がある………例へば彼のタンホイザー、彼は神のやうな乙女ヱリザベツトに勸められ羅馬へ跣足はだしまゐりに行つたが、法王から謝罪の願が許されない。其故再び邪敎の神ヰナスの山に還らうと云ふ………あの一節は宗敎が一度闇に迷つた人間に何の光も與へなかつた事を諷したのでは無からうか。然し最後には如何に魔界の愛に迷つたタンホイザーも淸い乙女ヱリザベツトの亡骸を見て悶絕する。其の刹那に救の歌は遠く響く………タンホイザーの魂を奈落から救つたのはヱリザベツトの愛である淸い乙女の愛である。」

云ひ切つて凝と妻の顏を見た。妻は白い兩肩と廣い胸とを出した卵白色の夜會服を着けて居たので、靜止ぢツとして居る其の姿が薄い綠色の燈火を受け、暗い室の中に浮んで居る樣、彼女の身の廻りからは氣高い女德の光榮が輝き發するかと思はれた。

私は一時の感激に襲はれる儘、突然身を其の足許に投伏し、力一杯に其の手を握り締め、「永劫の罪から吾々を救ふものは淸い乙女の愛である。ジヨゼフイン、お前は私のヱリザベツトである。」と叫んで熱い淚を其の膝の上に濺いだ。

「それぢや、あなたは何かタンホイザーのやうな………。」と妻も今は稍いぶかし氣に、打仰ぐ私の顏を見下す。私は加特敎徒が懺悔臺の前に膝付いたと同樣、唯だもう懺悔したいと云ふ切ない必要に迫られるばかり、前後の考へもなく過ぎた身の一伍いちぶ一什しじふを殘らず打明けて了つた。

結果は如何であつたか。妻はヱリザベツトのやうな氣高い愛をもつて居たか。否々。私の話を聞くと共に妻の眼は激しい嫉妬の焰と、銳い非難の光に、雷光いなづまの如く………あゝ、其の恐しい一瞥。

私は忽ち我に立返ると同時に一時の感激からよしない祕密を語つた輕率を悔い、打詫びるやら、云慰めるやらいろ〳〵に心を盡したが、もうそれは誠實の意氣を缺いて居た。云はゞ技巧的に自分の非を蔽ひ隱さうとするのであつたから事はます〳〵惡い方に進むばかり。

「よくも私を今日まで欺しておいでなすつた………。」と此の一語を最後に妻は縋る私の手を振拂つて次の室へと行つて了つた。

人生第一の幸福なる私等の新婚旅行は其の後如何に悲慘なるものとなつたであらう。翌日に維納ウヰンナを立ち行先は獨逸に出で直にハンブルグの港から歸航の途についたが、其の途すがらも妻は食事のテーブル汽車の窓船の上、私には一語も云ひ掛けない。

然し私は何時か一度はわが眞心の通ずる時妻の怒の打解ける折が來やう、と有る限りの勇氣と忍耐に漸く一縷の望みを繫いで居た。が、一度閉ぢた女の胸は永遠に開くものではない。彼の女の頰は日一日に肉落ち、その眼は恐しい程に銳く輝いて來て、幾日の後、紐育へ歸つて來た時には出發當時のジヨゼフインとは宛ら別人のやうに思はれて了つた。

で、私は妻の申出づる儘に止むを得ず一時夫婦別居する事になつたが、程なく正當な離婚の請求を受け續いて四年の後には他へ再婚したとの報知に接したです。あゝ、わがジヨゼフイン。此して私は此に二十年あまり孤獨の生活を續けて居る………

B――博士は語了ると共に椅子から立ち二三度室の中をば手を振つて步き廻つたが、やがて室の片隅に据ゑてある大きなグランド、ピアノの方によろめく如く走り寄るかと見ると、忽ち顫へる手先にタンホイザー中の巡禮の一曲を奏出した。

ピアノの上に置いた花瓶はないけから白い薔薇の花が湧起る低音ベースの響につれて、一片二片と散り掛ける。

(明治四十年正月)

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舊恨