博士B
偉大なるは
長き
自分が椅子を進めるのを見て博士は語り出した。
聽いて居た私は覺えず深い溜息を漏らして目を閉りました。
私等は生きて居る人間の身の
私は默然として女の身に付けた化粧の薰を深く吸ひながら凝と其の橫顏を打目戍つた。
私は殆ど仰向に居眠つて居る彼女の唇の上に輕く我が唇を押付けた。柔かな、暖い呼吸は直に私の身中に突入る。
私は彼女が五階目の
私は妻ジヨセフインと共に
私は場内の光景から其の夜舞臺に上つた歌人、樂人、或はかの獵の從卒や大名、巡禮の行列なぞに出る數多の合唱歌人の顏までをも、一々明かに記憶して居ます。
私は今でも能く思出すのです、吹雪の夜丁度方々の芝居が
私は一時の擧動に耻入つて何とも答へず俯目になると、マリヤンは高くほゝゝほと笑ひながら、丁度其の時馭者の明ける車の戶から、鳥のやうに裾輕く飛び下りた。
私はまだ學業をも了らぬ中から折々長閑な春の半日書齋の窓に葉卷の煙を吹きつゝ、一生の中何時か一度は彼の種の女と戀し戀されて見たならばと、さま〴〵愚な事を空想した事がある。兎に角私は普通の人よりか高い敎育を受け讀書もした身である。飽くまで其の慾情の賤しく又愚である事を承知して居ながら、さて何うしても其れをば抑制する事が出來ない。能く佛蘭西や露西亞の自然派の小說に描かれて居る―――立派な品性の紳士がかゝる劣等の女性の爲に身を滅す物語なぞを讀むと、私はヒステリー質の女のやうに身につまされて泣き、あゝ此れが運命と云ふものかと深く懷疑の闇に彷徨うた事も度々でした。
私の聲に彼女は初めて目覺めたらしく膝の上に置いた白い鼠の毛の
私の方は又私自身の物思ひに知ず〳〵語少く、二人は劇場を出ると其の儘、直ぐ馬車に乗つて旅館に歸つて來た。
當時私は新婚旅行のつもりで妻と共に歐洲を漫遊し、丁度墺太利の首府に滞在して居たので、一夕この都の有名な帝室付のオペラ、ハウスに赴いた(と博士は室の壁に掛けてある寫眞の建物を指した後)其の夜の演題は乃ちタンホイザーであつた。
男の出來心は一度此謎の樣な魔力に擽られかけると、魅せられた眼には何時となく敎育あり淑德ある妻や娘は冷い道德の人形のやうに見えて來て、「戀は
然し此の人の世は如何に香しい夢とても、如何に深い醉とても、時來れば覺め消えるが常である。私は今日となつて考へて見るとあれほどまでに戀し合うて居たものを、どうして別れる氣になつたものか、殆ど不思議で、それをば說明する事は出來ないのです。敎育から得た理智の念が追々魔醉した心を呼覺した爲めと見てもよからう。或は男性固有の功名心が次第に戀の夢よりも强くなつて來た爲め、或はタンホイザーの物語を其儘に
然しあなたも已に感じて居られる通りワグナーの音樂には(と博士は鳥渡私の顏を見遣つて、)他の凡の音樂とは類を異にし聽く者の心の底に何か知ら强い感化を與へねば止まぬ神祕の力が籠つて居る。
此樣生涯を送つて居る中、私はかのマリヤンと呼ぶ女藝人と懇意になつたのです。
或夜例の如く劇場が閉場てから夜を生命の女供が能く集る料理屋へと、私は道樂友逹三人連で、獨身時代の銳い眼をキヨロ〳〵させながら這入つて行くと、
我が身は君を待たんが爲めに、何丁目なるホテルに引移り候。かの上町の住居は戀の
我が身は君を一目見て戀し候。我等の戀は此の如し、何故とな問ひ給ひそ。あゝ今宵の逢瀨まで、さらば―――(と此の最後は佛蘭西語で書いて)戀するMより
恁う質問すると、B――博士は忽ち胸を刺されたやうに
御存じの通り下手に女神ヰナスの寐臺の下に樂師タンホイザー立琴を手にした儘居眠つて居る。
彼女はハドソン河に近いアツパートメントに住んで居ると云ふので、ブロードウヱーを北へ小半時間、市内目拔の場所を離れると、直ぐ樣眞夜中過ぎの淋しさは物凄いばかり、我を運ぶ馬の
年紀は二十一二か。全體が小作りで頸の長い
大きな古い旅館の一室、片隅の小机の上に、綠色の笠を冠つた燈火が點いて居るばかり、窓の外には何の物音も聞えぬ。吾々米國人には、この寂とした舊世界の都の夜半には、何處からともなく、幾世紀間の樣々な人間の聲も聞き得らるゝやうに思はれ、驚いて見廻せば凡てを暗色に飾つてある壁と天井に調和して、窓や戶口に掛けてある重く濃い天鵞絨の
夜の二時過まで騷いだ後、吾々は二人の女をば例の如く各その家まで送つて行く事となつたが、往來へ出て辻馬車を呼ぶ時に、どう云ふ其の場の
吾々は其の儘女の食卓に着いて、例の愚な話に罪もなく笑ひ興ずるのです。が、時としては聞くに堪へない劣等な語に思はずぞつとすると、絕えず自分の弱點を憤つて居る念がむら〳〵と湧起り、同時に果敢さが身に浸渡つて私ばかりは兎角無言に陷り易い。
二人とも疲れて煖爐の前の椅子に身を落すと、間もなく妻は片手に頰を支へながら、「一體、あのオペラの理想は如何云ふんでせう。」と私の顏を見上げました。
世には禁ぜられた果物程味深いものが又とあらうか。罪の恐れ毒の慮りは却つて其等の魔力を增すに過ぎない。今は何も彼も打明けてお話しやう………(と博士は耻らふ如く稍俯目になつて、)男と云へば一時は誰でも此の種の女の化粧の力に魅せられるものであらうが、と云つて私ほど魂を奪はれたものも少いであらう。如何なる譯からか、私には美しい衣裳に身を飾り舞臺のフツトライトの前で、態とらしい眼付や身振をして舞ひ歌ふ女藝人や女役者、さらずば料理屋劇場
マリヤンは每夜を深す身の疲勞か、今は力なく頭を後に倚せかけ、重げな瞼を折々は押開いて、私の方を
マリヤンはぱつちりと其の大きな眼を開いて私の顏を見たが、その儘再び居眠つて了ふ。私は
タンホイザーは先程から此等の歌に聽き取れて居たが忽ち今まで耽つた我が罪の歡樂の空怖しくなり、感慨極つて其の場に泣き伏して了ふ。
もう二度と若い時代の愚な夢には耽るまい。人間の職務は地上の生命と共に消えて了ふ歡樂に醉ふ事よりも、もつと高尚で且つ永久のものがある。先づ善良なる市民となる爲めに正當な家庭を作れ。幸ひにして私は米國の社會には名のある家に生れ父の遺產も少からずあつた爲め交際社會へ出ると、世は狹くて又廣いもので、誰一人私の昔を知つて居るものはなく、程なく私はジヨゼフインと云ふ判事某の令孃と結婚しました。
もう二十年も昔の事です。私の妻ジヨゼフインが丁度貴君と同じやうにかのタンホイザーの意味は何であるかと訊いた事がある。
と、山道の岩の上に幼い羊飼一人、塵に汚れぬ聲も淸らかに笛を吹いては歌を唱うて居る。間もなく山の彼方よりはる〴〵
して今日、歐洲に新婚旅行の途すがら、此處に共々オペラを聽いて居る………私は舞臺で歌つて居る樂師タンホイザーの恨をば其の儘に我が胸の底深く、懷舊の淚を呑込んで居たが、それをば知る由もない妻ジヨゼフインは上流社會の女性の常として唯だ主義なく技巧的に修練された藝術鑑賞の態度で傾聽して居るのに過なかつたらしい。
されば一幕目は濟み二幕目の廣い宮殿の場、三幕目巡禮の歸り………とオペラ三幕を聽き了つた時には、私の妻は何やら物思はしい樣子になり、搔亂された空想の中から、何か纏つた感念を探りたいと悶えるらしく見えたです。
この樣子を見て取つたマリヤンは私をば至極
この年月の夢は今こそ誠となつた。私の決心は恐らく彼女の決心よりも迅速であつたらう。私は取るものも取りあへず其の夜示されたホテルに駈け付けると其の儘一年半ばかりの長い月日を女と二人で夢のやうに暮して了つた。
かく一方で理と智惠とが非難すればするほど慾望はます〳〵高まる。私は學校を出ると直ぐ道樂者ばかり寄集つて居る倶樂部の會員となつて、
「好い心持に夢を見て居たんです………が、それぢや接吻なすつたのはあなたなんですか。」
「博士よ、貴君はあのオペラの理想については如何いふ說をお持ちですか。」
「不幸にして、私は彼のオペラを學術的に判斷する資格がないのです。」と俯向いて、「何故ならばあのタンホイザーを聞いた當時の事を思出すと無限の感に打たれる………お話しませうか、もうざつと二十年も昔の事ですが………。」
「マリヤン。」
椅子から立上つて天井から釣してある電燈を點じやうとすると、妻は手振でそれをば制した。しんみりと話でもするには餘り明くない方がよいと思つたのであらう。元の椅子に坐ると妻は沈んだ聲で問ひ掛けます。
「あなた。私にはどうも合點が行かないのです、タンホイザーが女神に別れて故郷に歸つて來る心持はさも然うであらうと思ふんですが、さて歸つて來た後、自分を慕つて居る領主の姫君ヱリザベツトの目前で一度後悔した女神の事を思ひ出すと云ふのは何う云ふ譯でせう。私にはあの心持が分らないのです。」
私の耳には忽如として、
戀の女神よ………ヰナスのみこそ御身に愛を語るなれ
(Die Göttin der Liebe)
と激しいタンホイザーの歌が聞え出す、同時に心の底にはマリヤンの面影。私は
「それが卽ち人生とも云ふべきものだ。忘れやうとするけれども忘れられない。愚と知りながら陷り悶える。何に限らず理と情との煩悶、一步進めれば肉體と精靈の格闘、現實と理想の衝突矛盾。此の不條理が無ければ人生は如何に幸福であらう………然し其れは及ばぬ夢で私にはこの
話す中に私は弱い我身の上のみならず地上に住む凡ての人の運命が果敢く思はれて來て、子供のやうに譯もなく大聲を上げて泣いて見たいやうな氣がして來た。
「それですから、私逹は神に………宗敎に依賴するのではありませんか。」
此う云ふ妻の聲は、生きて居る女の口からではなく、何處か遠くから響いて來るやう。私は聲を顫はし、
「然し、宗敎も信仰も、時としては何の
云ひ切つて凝と妻の顏を見た。妻は白い兩肩と廣い胸とを出した卵白色の夜會服を着けて居たので、
私は一時の感激に襲はれる儘、突然身を其の足許に投伏し、力一杯に其の手を握り締め、「永劫の罪から吾々を救ふものは淸い乙女の愛である。ジヨゼフイン、お前は私のヱリザベツトである。」と叫んで熱い淚を其の膝の上に濺いだ。
「それぢや、あなたは何かタンホイザーのやうな………。」と妻も今は稍
結果は如何であつたか。妻はヱリザベツトのやうな氣高い愛をもつて居たか。否々。私の話を聞くと共に妻の眼は激しい嫉妬の焰と、銳い非難の光に、
私は忽ち我に立返ると同時に一時の感激からよしない祕密を語つた輕率を悔い、打詫びるやら、云慰めるやらいろ〳〵に心を盡したが、もうそれは誠實の意氣を缺いて居た。云はゞ技巧的に自分の非を蔽ひ隱さうとするのであつたから事はます〳〵惡い方に進むばかり。
「よくも私を今日まで欺しておいでなすつた………。」と此の一語を最後に妻は縋る私の手を振拂つて次の室へと行つて了つた。
人生第一の幸福なる私等の新婚旅行は其の後如何に悲慘なるものとなつたであらう。翌日に
然し私は何時か一度はわが眞心の通ずる時妻の怒の打解ける折が來やう、と有る限りの勇氣と忍耐に漸く一縷の望みを繫いで居た。が、一度閉ぢた女の胸は永遠に開くものではない。彼の女の頰は日一日に肉落ち、その眼は恐しい程に銳く輝いて來て、幾日の後、紐育へ歸つて來た時には出發當時のジヨゼフインとは宛ら別人のやうに思はれて了つた。
で、私は妻の申出づる儘に止むを得ず一時夫婦別居する事になつたが、程なく正當な離婚の請求を受け續いて四年の後には他へ再婚したとの報知に接したです。あゝ、わがジヨゼフイン。此して私は此に二十年あまり孤獨の生活を續けて居る………
B――博士は語了ると共に椅子から立ち二三度室の中をば手を振つて步き廻つたが、やがて室の片隅に据ゑてある大きなグランド、ピアノの方に
ピアノの上に置いた
(明治四十年正月)