一時、
或夜、或處で、例の如く、人種論、
突然何處かの室から陽氣な騷の三味線、茶碗を叩いて拍子を取る音が聞え出した。私は何の譯もなく嘗て房州あたりの夏の夜に船頭が船付の茶屋で騷いで居たのを見た其等の事を思ひ浮べる、と、急に遠く家を離れて外國へ來た寂しさが胸の中に湧出て、何やら悲しい氣がして來た。折から戶が開く。以前のとは違つた女が
辯じ立てゝ若者はパイプの烟に口を休めたが、其れを機會に片隅の椅子から、
能く晴れた十月の末、私は暮れ行く日と共に波止場へ着いたが、翌朝でなければ米國の移民官が出張しないと云ふので、其の夜は深け行くまでも甲板の
紳士と云ふのは死んだ兄の親友で、其の頃には絕えず兄の許へ遊びに來た男である。
立派な八字髯を生して指環だの金鎖だのいやに金物を
私は辭退せず、矢張此の橫町の
私は石炭の烟を見たゞけで、もう辟易して了つて、直にも何處か西洋人のホテルへ引移らうかと思ひ、實は手鞄まで提げて往來へ出たが、書生の身の旅費は充分ならず、好し充分持つて居るにしても、西洋のホテルとさへ云へば直樣東京の帝國ホテルなどを思起し
私は他分瞬間の感動に打たれた爲めであつたらう。日頃の臆病にも似ず駈寄つて後から男を呼止めた。
私は一夜―――たしか東部へ出發する前の晚の事、此の三味線が耳について眠られぬ處から、到頭勞働者の列に交つて向の橫町へと步いた。入込んで見ると、いや、大弓場から、玉突場から、其の他の飮食店や路の傍まで日本人のうろ〳〵して居る事は非常なもので、然し何れも何處やら沈着いて、此處は乃公逹の繩張中だと云はぬばかり、入込む西洋人の勞働者をばさも外國人らしく見遣つて居る。と、兩側の木造家屋の窓々からは折々カーテンを片寄せて外の景氣を窺ふ女の顏が見え、中には黃い聲を出して誰かを呼ぶのもあつた。何れも鼻の低い、目の細い、顏の平い關西地方の女で、前髮を切下げた束髮に、西洋風のガウンを着て居るらしく見えたが、私は外から一瞥したゞけで、早や充分の………滿足と云はうか、不氣味と云はうか、兎に角それ以上に近いて見るには忍びない心持になつた。
私が
然し猶暫くは路傍に佇んで樣子を窺ふと、東西の勞働者は何れも煙草屋だの果物屋だの云ふ小い
案内された旅館の窓から頸を出すと、遙に市中の建物の背面が見え、正面には近く淺草のパノラマ館を見る樣な
成程、夜になつて、旅宿の窓から見下す街の光景は何と云はうか。私は出發する前にもう暫は見る事の出来ぬ東洋のこれも社會觀察の一ツとして一夜遊廓を步いて見た事があつた。今眼にする夜の活動もそれと同樣のものではあるが、然し私の受けた感動は到底比較にはならない。思ふに初めて見た外國の事とて、善惡ともに目新しかつたからでもあらう。
成程、あの地方で日本人が誤解されるのも無理ではない。宿屋の界隈は商店續の繁華な街が、丁度人の身の零落して行くやうに次第次第に寂れて行つて、もう市が盡きて了はうとする極點である。四邊の建物はいづれも運送屋だの共同の
往來傍には日中其の邊をうろ〳〵して居た連中の外に、處々の波止場や普請場に働いて居た人足どもが其の日の仕事を了つて、何處からともなく寄集つて來るので、唯さへ物の
年は一年一年と過ぎて行つたが、丁度兄の死んだ頃の寒い二月が來ると、每年兩親の口には今更らしく山座の名が呼出され、つゞいて其の時節中は私に對して例の古い諺と古い敎訓が數繁く繰返された。然しこの恐るべき山座なるものは其後何處に何して居るのか、家中知るものは一人もなかつたのである。
島崎と呼ばれた男は問はるゝ儘に話した。
山座は我が家の如く四邊を見廻しながら私を一室に案内して呼鈴を押すと、べつたり白粉を塗つた宿場の飯盛りとでも云ひさうな女が洋服に上草履をつツかけて出て來たが、如何にも懇意な間柄だと云ふやうに別にお世辭一ツ云ふでもなく、
少時默つて、葉卷の烟を吹いて居たが、「どうだ、日本飯でも御案内しやうか、東部の方へ行つたら當分はパンばかりぢやらうから………。」
女は返事をせず唯頷付いたまゝ、ばた〳〵廊下を步いて行つた。
名をば
勞働者の込み合ふ路傍、煙草店の店先で葉卷へ火を點けた山座は流石に驚いたらしく私の顏を目戌つたが、忽ち調子を代へて、
兄は此の事件があつて後は、宛ら不吉の影か疫病神のやうに、家中のものゝ恐怖と嫌惡の中心になりながら、唯だぶら〳〵爲す事もなく二年ほどの月日を送つて居る中ふと肺病になり其の冬を越し得ずに死んで了つた。すると、私の父も母も急に兄をば惡いものだとは云はなくなり、何かの話が出るとあれは皆能く家へも遊びに來たあの山座と云ふ惡友があつた爲めだ………朱に交れば赤くなると云ふ諺が殆ど兩親の口癖になつて了つた位である。兩親のみならず私の一番の姉の如き(兄とは二ツの年違ひで、已にある法學士の妻になつて居たが、)家へ遊びに來る度々家族の寫眞帖などを繰つて見る時、兄と彼とが一緖に
一同は皆驚いて質問した男の顏を見た。何故なれば彼は何時も女や酒の話には無頓着な眞面目な人として知られて居たからで。
まア、想像して御覽なさい。アメリカと云ふ周圍の光景に對し、汽船の笛、汽車の鐘、蓄音機の樂隊なぞ、「西洋」と云ふ響の喧しい中に、かの長く尾を曳いて吠えるやうな唸るやうな眠たげな九州地方の田舎唄に、ちぎれ〳〵な短い糸の音、これほど不調和な不愉快なそして單調ながらも極めて複雜な感を起させる悲しい音樂が他にあらうか。
ふいと、何處かに見覺がある樣な氣がしたので、行過る其の後姿を見送つたが、すると、其の紳士は二三間先の煙草屋の店先に立止る。店の電燈が橫顏を照す………橫顏と云ふものは能く人相を現すものである。七年程前の記憶が突然呼返された。
その
「移民事業の方でも………」
「私は
「汁粉屋でも鮨屋でも蕎麥屋でも殆ど無いものは無いでせう。日本の國内だつて、邊鄙な地方へ行つたら、到底あれだけの便利はきゝませんから。然し彼の邊に居る日本人は大抵九州や中國邊から出稼ぎに來たものばかりだから、料理だつて、女だつて、東京の者にや
「昨夜はどうしたの、あんまりぢや無いか。冗談も大槪にするもんだよ。」
「明日にも友人の來次第
「成程、さうかも知れん………。」
「彼方にや隨分、日本の醜業婦が居るさうですね。」と飛んでもない事を訊出した。處が、それは恰も燃立つ炎天の端に夕立雲の湧出した如く、忽ち四方に漲つて、堂々たる天下の議論を一變さして了つた。一座の中には以前よりも一層重大な問題が提出されたと云ふやうに椅子を前に引き進めたものさへあつた。
「島崎君。君がさう云ふ方面の事を知つて居やうとは、實に意外だ。」と驚く聲が二三人の口から同時に聞かれた。
「女や三味線ばかりぢや無しに、日本流の風呂屋だの大弓場なんぞもあるさうですね。」
「君があの千代松君の弟………さう云へば成程忘れはせん。君はあの時分はまだ、ほんの子供だつたぢやないか。うむ、考るともう七八年………もつと昔になるかも知れん。」
「君。今君が話した女は確か僕も見た事がありやしないかと思ふです。………君は其の亭主だつて云ふ無賴漢の名前を知つて居ませんか。」
「僕か………。」と彼は語を切つて少時私の顏をば見詰めたが、「君に聞したら喫驚するぢやらう。はゝゝゝは。人間と云ふものは變れば變るもんさ。」
「何でもいゝや、お雪にさう云つて、よさゝうなものを持つて來てくれ。」
「何か、面白い冒險をやつたのですか。」
「何か
「まア何て云ふ気障な風だらう、まるで役者か
「どうして米國へ來たです。勉强ですか………然しこの近邊は君逹靑年の來る處ぢやないですよ。」
「いや、僕は相變らずの野暮なんだが、其の女の事だけは特別の事情があつて知つて居るのです。年は二十六七でせう。細面の、
「いや、二三度飮みに行つたゞけの事さ。どうせ、あの邊に居る女の事だから、惡い蟲がついて居るに極つて居ますからね、身分のないものなら兎に角僕等はうつかり手が出せない。殊に其の女の亭主と云ふのは、書生上りで英語も出來るし、シアトル近邊ぢや有名な
呆れて私は其の顏を見た。二十七八、物云から細面の顏立から、淺草近邊の小料理屋か牛肉屋の女中に能く見る種類のものである。
流石の山座も私の手前、少しは氣まづい樣子で、頻と葉卷の烟を吹立てながら、「來るさう〳〵、つまらん冗談ばかり云やがつて、早くお客樣にお酌をしないか。」
女は酌をしたが其れを機會に、私の方に顏を向け、
「たまにやア
いよ〳〵出て、愈奇と云はねば成らぬ。山座は料理の催促にと、女を去らしめたが、もう祕すべきでないと決心したらしく、私の問ふのも待たず、
「え、驚いたでせう。膽を潰して了やせんか、はゝゝは。」と先づ笑つて後、現在の境遇を打明けた。
彼は私の兄の死んだ事をば新聞の廣吿で知つた頃、何かうまい事はないかと、食詰めた故郷を去つて、桑港へ渡り、一般の渡米者が經驗する種々の辛苦と失望を知り盡した結果、亞米利加三界は女で食ふが第一と悟つて、一先日本へ歸るや否や、今のお雪と云ふ牛肉屋の女中をば引連れて再び渡米し、根據地をシアトルと定めて、醜業婦密航の媒介と賭博をして暮して居るのだとの事。
「人間は一ツ惡い方へ踏出したら、中途で後戾りをしやうたツてもう駄目だ。自分ぢや幾程後悔して居たつて一度泥が着いたら世の中が承知しないからね、どこまでも惡い方で押通して見るより爲樣がない。君の兄貴千代松君なんざ、中途半端で眞人間に後戾りをしやうと思つたから、つまり心勞の結果だ、肺病なんぞになつて死んで了つたんだ。十人が十人先づそんなものさ。世の中を知らん學者なんぞは人間は打捨ツて置けば皆ずる〳〵墮落して了ふと思つてるやうだが、そんな心配は御無用だ、良くもならず惡くもならず、つまり中途までは落ちて行くかも知れないが、其れから先奈落の底へお尻を落ち着けて了はうと云ふにや、一度本の一册も讀んだものは非常な苦心で時々頭を出さうとする「良心」と云ふ奴を、すつかり平伏さして了はなくちや成らん。其れアなか〳〵口で云ふ位ぢや無い。乞食の家に生れた奴が乞食になる、此ア
彼は今日吾々が人生だとか神祕だとかを口癖にする時代とは違ひ、天下だの、靑雲だの、功名だのと云ふ事を曉の星と望んだ十年二十年前の書生の態度に立返り、肱を張つて飮干す酒杯と共に、堂々聲を高めて論じ出したので、私は過去の世の傷付いた人の苦痛の腸から出る
戶の外には、以前の
私は其の翌日、
それから程經て後の事私は母に送る手紙の中に、何心なく山座に會つた一條を書いた事があつたが、すると母の返事にはよいも惡いも今は夢、昔は
ニユーヨークとシアトルとは三千哩も離れて居るとは夢にも心付かぬ老いたる親心。母の情。私は覺えず淚を落しました。
(明治四十年六月)