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あめりか物語

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雪のやどり

在留の日本人が寄集つて徒然つれ〴〵の雜談會が開かれると、いつも極つて各自勝手の米國觀―――政治商業界から一般の風俗人情其の中にも女性の觀察談が先づ第一を占める。

西洋の女――殊に米國アメリカの女は敎育があつて意志が强いから日本の女のやうに男に欺されたり墮落したりする事は稀である………とその夜の會合に座中の一人が結論を下した。

隣りの室の方で何やらぶつ﹅﹅〳〵云ふ太い男の聲に交つて、ベツシーと聞慣れぬ若い女の聲。如何樣何か紛擾ごたついて居るらしい。

見物した芝居は例のミユージカル、コメデーさ。花形役者スターは獨逸から來た女だつて云ふが、容貌よりは好い咽喉を聞かしたね。

芝居がはねると見物歸りの連中が入込む事にきまつて居る角の料理屋シヤンレーで一寸一杯。雜談に時を移して再び戶外へ出たのはもう一時過だ。見ると何時の間に降り出したものか往來は眞白。ひどい雪嵐だ。

暫くすると太い聲の男は止めるも聽かず歸つて行くらしく、内儀の聲も聞えて、遂に表の戶を開閉する音………それから家中は再び寂となつた。

日本でも雪の夜の相乗と來れば何となく妙趣おつなものだ。增して乗心地のよい護謨ごむ輪の馬車。兩方から手を握り身を凭れ合せ天地は只我ものと云はぬばかり散々巫山戯ふざけ散らしながら女の家に着いた。

投遣つた調子の仇ツぽい女の聲ぢやないか。喫驚して顏を上ると、

恁うは云つたがベツシーは其の儘立つて出て行つた。

尤も、宵の中には空こそ曇つて居たが風もなく寒気も左程でない。僕は知己ちかづきの或家族フアミリーから芝居見物に誘はれて居たんで、會社から歸ると早々大急ぎで髯を剃り、顏を洗ひ、頭髮かみを分け直して、さて眞黑な燕尾服ドレツスにオペラハツト眞白な襟飾タイに眞白な手袋。いよ〳〵出掛けやうと云ふ前に、もう一度昂然と姿見鏡すがたみの前に立つて自分の姿に最後の一瞥を加へる―――いやすつきり胸が透く樣だ。

女は掛けたベール越に睨む眞似をして、「さア、行きませう。眞實に寒くツて堪りやしない。コラまるで氷のやうでせう。」と其片頰をぴつたり僕の顏へ押付けた。

壁には色刷の裸體畫が二三枚。室の一方にはピアノ、一方には安物の土耳古織で圍んだコーヂー、コーナー。此處に二人は身體を埋めて飮んだり歌つたり、さて接吻したりくすぐり合つたり。したい限りの馬鹿を盡して遊ばうと思つたら遠慮がちな日本の女より先づ西洋の女さね。

去年の十二月、まだクリスマスの前で、其の年に初めて雪が降つた晚だ。

兩側の人道は雪で眞白な處へ色電燈の光で或處は靑く、或處は赤く、リボンのやうに染分けられて居る上を、歸り後れた歡樂の男女互に腕を組みつゝ右方左方へと、或ものは音もなく雪を分けて來る電車に乗り、或ものは其邊の自動車オートモビルや馬車を呼んで一組二組と、次第々々に人影の消え行くさま、僕は此の芝居町の夜深はもう雪に限ると思つたね。何となく疲勞したやうな夜深の燈火と、如何なるものにも一種犯し難い靜寂の感を催さしめる雪と云ふものとが、此處に深い調和をなすからだらう。

僕を招待してくれた家族の連中とは歸り道も違ふので、つい鼻先の地下鐵道の入口で別れ、高架鐵道へ乗るつもりで四十二丁目の角を曲つた。すると、いや眞正面に吹付けて來る吹雪の激しさに僕は帽子を引下げ俯向いたなり向見ずに步いて行くと、忽ち人に突き當つた。相手も同じく行先見ずに步いて來たものと見えて此方より先に、

僕は辻待の馭者どもが勸める儘に行先は左程に遠くもないが女を扶けて一輛の馬車カブに乗つた。

僕は女と腕を組みながら少時四角へ立止つた。不夜城とも云ふべき芝居町四十二丁目の雪の眞夜中。實に見せ度い位の景色だつた。

僕の知つてる女だ。身分なんぞは云はずとも分つて居るだらう。夜半の一時過吹雪の中のブロードウヱーを步いて居る連中だもの………。

一人で承知して女は僕の腕を取りぽつちやりした身體の重みを凭せ掛ける。

フラツト、ハウスだから、表の大戶を這入つてから三階目。女は手にさげたマツフの中から鍵を出して戶を開け先に立つて僕を突當りの客間に連れ込んだ。

とぴつたりと寄添つて、「眞實ほんとにKさん、しばらくぢやありませんか。だんまりで日本へお歸りなすつたかと思つてましたよ。」

その男はまづビールに咽喉を潤して語つた。

ずつと見渡す上手は高いタイムス社アストルホテルを始め、下手はオペラハウスから遠くメーシーやサツクスなど云ふ勸工場のあるヘラルド廣小路スクヱヤーあたりまで、連る建物は雪の衣を着て雲の如く影の如く朦朧として暗い空に其の頂を埋め盡し、唯窓々の灯のみが高く低く螢か星のやうだ。燦爛たる色さま〴〵の電燈はまだ宵の儘に彼方此方の劇場しばゐの門々、酒屋、料理屋の戶口々々に輝いて居るが、それさへ少しく遠いのは激しい吹雪を浴びて春の夜の燈火とでも云ひたげな色彩いろあひ

する中輕く客間の戶を叩いて此の家の内儀おかみの聲と覺しく、「ベツシー、ベツシー、鳥渡來ておくれな。」

すると、忽ち他の一人があつて、

かう攻めかけられては仕方がない。僕は一緖にもと來たブロードウヱーへ出ると兩側の建物に風を避けて此處は大きに凌ぎよい。

「鳥渡でいんだよ。又あの娘が駄々をこねるもんだからね。」

「酒屋は晚いから私の家………私の部屋へいらつしやい。眞實に久振だもの。」

「結句日本人ジヤツプの厄拂をしたと思つてた處が………お氣の毒さまだつたね。」

「田舎からね、女を連出して金にしやうツて云ふ、惡い者に引掛つたんですよ。」

「煩いのね、私やもう醉つてるのよ。」

「然しいくら米國だつて十人が十人皆さう確固しつかりして居るとも云へないやうだぜ。僕は殆ど信じられないやうな話を聞いて居るが………。」

「欺されて………男にかい。」

「大分悶着もめてたらしいね。」

「何處へ行くんだ。寒さ拂ひに一杯かね。」

「何ですツて。もう一度仰有い。承知しませんよ。」

「何か御用。」とさも煩さいと云ふやうに僕の女ベツシーは甲高に返事をした。

「ほゝゝゝほ。私のスヰートは此處に居るから一人で澤山………。」

「ふるどころか、てんで受付けないんですよ。尤も自分が承知で此處へ來たんぢやない、つまり欺されて來たんですからね。」

「どういふ話だ。」

「それぢや、情人いろをとこに欺されたツて云ふ譯でもないんだね。」

「さうです。能くある話ですよ。」

「お客をふるのかい。」

「お前さんこそ何處へ行つたんだね、此の大雪に。スヰート筋も大槪にしないと命に觸るよ。」

「えゝ。しやうがないんですよ。つい四五日前に來た娘だもんですからね。」

「あゝ、もううるさくつて懲り〴〵だ。家の内儀さんも又何だつて那樣あんなものを背負込んだんだらう。」ぶつ〳〵云ひながら歸つて來たベツシー。直樣僕の傍へ坐つて、「すみませんでしたね、大事な人を置去りにして行つて……。」

「あらKさんだよ。まア何處へいらしつたの。」

「あら御免なさい。」

「さうかい。それぢやアメリカにも女衒ぜげんが居るんだね。」僕は耳新しい話に興を得て、「一體どうして連出して來るんだ。いくら女だからツて、さう無暗と欺されもしまいぢや無いか。」

「それア、いろ〳〵時と場合で、あゝ云ふ惡いてあひこツてすもの、手を變へ品を變へするんですがね………。」とベツシーは段々辯じ出した。先づ踵の高い靴の裏で洋燧マツチを摺り、卷煙草の煙をぷーツと吹いて、「家へ來た娘なんぞは……アンニーツて云ふんですよ………バツフアローから何十哩とか云ふ田舎に居て、其の土地の藥屋か何かに働いて居たんですとさ。ところが自分の家の近處に紐育のある保險會社の役員だつて云ふ觸込ふれこみで、暫く下宿して居た男が、どうだい私と一緖に紐育を見物に行つちやアツて、或日巧く勸め込んだんですとさ。田舎に居れア誰だつて一度は紐育を見たいと思ひまさアね。それでふツ﹅﹅と魔がさしたんですね、勸められるまゝに紐育へ來て、其れからは何處か好い奉公口でも捜して貰ふつもりの處が、もう罠に掛つた鼠です。停車場へ着くといきなり﹅﹅﹅﹅二三軒宿屋を彼方此方と引廻された擧句に、此處の家へ送込まれて、男は何處へ行つたか烟見たやうに消えて了つたでせう。さア親里へ歸るにも金がない。此の家にゴロ〳〵してる中には、つまり商賣でも爲なきやア成らないやうになるんでさアね。」

「さう行きやアお手のものだが、もしか心立の堅い女で、死んでも身を汚すまいとしたら、如何するね。」

「そんな堅い女が滅多矢鱈に在るもんですか。」

ベツシーは所謂海に千年山に千年の輩だ。一言に僕の語を打消して了つた。

「初めは、誰だつて堅いもんでさ。私だつて昔は堅氣でしたよ。家は今でもちやアんとニユーゼルシーにあります。紐育へ來てから久しく三十三丁目の勸工場デパートメントストワーで賣子をして居たんですがね。一週間に僅少たつた五弗や六弗の給金ぢや、とても遣り切れやしませんわ。其ア唯食べて行くだけなら如何にか凌ぎも付きませうが、それぢやまるで死なずに生きて居ると云ふだけの話で、若い身空で茫然ぼんやりとこの紐育の賑かな騷が見て居られますか。人が流行の衣服を着れば自分も着たい、人が芝居へ行けば自分も行きたくなります。其樣贅澤がして見たいばかりに私は誘はれるなりに、一番最初が同じ店に働いて居る或男のものになり、其れから段々泥水に足を入れ始めたんです。其ア或時は私だつて人間ですから、あゝ此樣事をして居ちやア行末が心細い。一層の事田舎へ歸つて了はうかと、氣の付かない事もないんですがね、一遍紐育の風に吹かれたら最後、例へ往來へ行倒れになるまでも、此土地から離れられなくなるのが紐育です。若いものにやア泣くも笑ふも皆な紐育でさ。それですものアンニーだつて今に御覽なさい。よしんば堅氣の家に行つて居たからつて、其の儘ぢや居られません。此の紐育に居るからにや何時か一度は自分から若い中だ。同じ事なら面白い目をした方がツて、分別を變るやうになつて了ひます………。」

果せる哉。僕は其後ベツシーを訪ねる度々初は一緖に酒をのむ、次には笑談を云ふ………段々に人摺れて來る少女アンニーの樣子には何時も驚かない事は無かつたね。

今ぢや君、もう立派なものだよ。後手にスカートを小意氣に摑み上げ細い拂蘭西形の靴の踵で、ブロードウヱーの敷石をコツ〳〵やる樣子。どうだい。お思召があるんなら僕が一つ紹介しやう。

(明治卅九年六月)

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雪のやどり