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あめりか物語

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長髮

春來れば花咲き鳥歌ふ田園とは事變り、石と鐵、煉瓦とアスフアルトで築き上られた紐育では、帽子屋ミリナリーの硝子戶に新形の女帽が陳列せられるのを見て人は僅に春の近きを知るのである。

風の吹く三月は過ぎ折々驟雨ゆふだちの降り來る四月、其の昇天祭が更衣ころもがへの日と云ふ例になつて居るので、よしや順ならぬ時候の少し位寒い事は有つても、この日を遲しと待つて居る氣早い紐育の女連中は飾りの多い冬着を捨てゝ、洒々しや〳〵たる薄衣の裾輕く意氣揚々と馬車自動車を走らせる。

間もなく秋になり大學は再び開始され學生は四方から歸つて來たが、國雄は何處へ行つたのやら音沙汰が無い。

車は馭者の打振る鞭の下に近く眼の前を行過ぎて、直樣後から引續く車と車の間に隱れて了つた。

見物の人々の話題はなしも轉々窮りなき目前の有樣につれて次から次へと移り行くのであつたが、自分ばかりは最一度あの藍色の車を見たいと、その行過ぎた大路の彼方を見送つたまゝであつた。かの黑い頭髮の紳士と云ふは最初一寸見た瞬間こそ、自分の眼にも等しく異樣に思はれたものゝ、間近く目前を行過ぎる中によく〳〵見れば如何に風采を粧ふとも、爭はれぬは眉と眼の間の表情で分明に自分と同人種の日本人たる事を證明して居たからである。

自分は色彩の變化に富む此の國の流行を喜ぶ一人なので、晴れた日を幸ひに出盛る人々を眺めやうと、午後ひるすぎの三時頃第五大通フイフスアベニユーから中央公園セントラルパークの並樹道を步いて見た。幾輛とも數限りなく引續く馬車や自動車の長閑のどかな春の日光を浴びつゝおもむろに動き行くさま、繪に見る巴里のボア、ド、ブーロンユの午後ひるすぎに此くやとばかり。

自分は次の樣な物語を聞いた。

私は進んで、其の事の原因おこりと婦人の身分、此の二事ふたつを知りたいと思ひ、機を見て國雄を責めると、彼も今は最初ほどには臆せず、夏休の旅行中、山間のホテルで懇意になつたのが始まりで、女の身分は離婚された富豪の寡婦である事を話した。

私は紫色の制服ユニホームに金釦を輝かした黑奴の門番ポルターに訊くと、日本の紳士は八階目の室に居るとの事で、昇降機エレベーターに乗つて其の戶口の鈴を押して見た。

私は更に問を進めると、

私は想像した。國雄はもう學校が厭になつて了つたに違ひない。彼の性質としては其れも無理はない。讀書する事よりは遊ぶ事が好き―――遊ぶと云ふよりは寧ろ安逸無為に時間を消費する事が好きな男である。私は日頃彼が其の居室の長椅子もしくは木蔭の靑芝の上に身を安樂に橫たへ葉卷の烟をゆつたりとくゆらしながら、何を考へるともなく、何を爲すともなく、悠然空行く雲を眺めて居るのを見る時、あゝ、此の世に此樣怠惰な人間があらうかと思ふ事が度々でした。

私は帽を脫つて丁寧に禮をなし、「藤ケ崎と云ふ日本人に面會したいのですが………。」

私は何時も取次に出て來る黑奴くろんぼの下女に案内せらるゝまゝ、或日の事、其の客間に這入ると、公園を見晴す窓際の長椅子に、二人がひしと相寄つて坐つて居るのを見たし、又、或時は、二人が一つのグラスから葡萄酒を呑み合つて居るやうな處へ行き合した事もあつた。

私は云ふべき語を失つて其儘默つた。薄い霞のやうなレースカーテンを引いた窓越には公園の黃み掛けた木立に午後の日光が靜かにさしてゐる。忽ち隣の室で如何にも徒然らしく洋琴ピヤノの彈ずると云ふよりはたゞキーを弄ぶ響が聞えたが、五分と立たぬ中にハタと止んで、あたりは又元の靜寂しづけさ

此の日は其の儘歸宅したが四五日過ぎて、晴れた秋の夕暮、私はハドソン河畔の大通りを散步して居ると、偶然にも彼と其の家の婦人とが一輛の馬車に相乗しつゝ行くのを見た。

此の國では男女の相乗などは何の珍しい事もないのであるが、私は殆ど何と云ふ意味もなく若しや二人の間に何かの關係がありはせまいか。國雄の廢學した原因も其の邊に潜んでは居まいかと、疑ふともなく、ふと此樣事を疑つて見ると、誰しも一種の好奇心に驅られるが常で、私は自分の疑心が作り出した事實を確かめたいばかりに、其の後はそれとなく引續いて國雄を訪問しました。

案内された客間に一人殘されて私は國雄の來るのを待つて居ると、隣の室で大方國雄に語るらしい婦人の聲が聞えた。やがて戶をあけて、「どうも失禮しました。」と國雄は一寸私の顏を見て何か氣まづさうに俯向いた。私は極く無頓着な調子で、

忠告しても無論かひは無いと思つたが又何樣機會はずみで復校する氣になるかも知れないと、私は誠實な手紙をば二通ほど、然し旅行から歸つて來たのやら來ぬのやら居處が不明なので、止むを得ず夏休前の寓居に宛てゝ郵送しました。

廣い建物の事とて外の物音は一切遮られ、廊下の空氣は大伽藍の内部のやうに冷に沈靜して居るので、私の押した鈴の音が遠く室の彼方で鳴響いてゐるのが能く聞取れます。稍暫く取次を待つて居たが一向人の出て來る氣勢けはひもない。此の度は稍長い間ベルを押試みるとやがて靜な跫音が聞え一人の婦人が其の顏ばかりを見せるやうに戶を細目に開けた。

度重る此の訪問は國雄には定めし迷惑であつたかも知れないが、私に取つては頗る興味がある。私の推察の當らずとも遠からざる事が次第々々に確められて來るやうです。

幸ひにも一週日ならずして自分はこの抑へ切れぬ好奇心を滿足させる事が出來た。それは或處で去頃コロンビヤ大學を卒業し今では紐育の或新聞社に關係して居る日本人の一友に出遇ひいろ〳〵雜談の末に、何氣なく其の事を話すと、彼の友はさも豫期して居たと云はぬばかりの語調で、

居並ぶ腰掛の人々は何れも奇異の思に驅られたらしく、「あの男は一體何處の國の人だらう。」

婦人はさうです………年頃はもう二十七八かとも思はれます。くゝり頤の圓い顏で、睫毛の長いパツチリした碧の眼には西洋婦人の常として云はれぬ表情があるが、ブロンドの頭髮をば極く緩かに今にも其の肩の上に崩落るかとばかり後で束ねたのと、豐艶ふくやかな肩と腕とが見える室内用のゆるいアフターヌーン、ガウンを着た爲めであらうか、その姿は私の眼には厭らしくなまめかしく見えた。

國雄は聞くともなく聽き澄まして居たが忽ち何か決心した樣に、「君の御深切は全くおろそかには思ひません、御手紙も拜見したです。然し當分………又その中に復校するかも知れませんが、先づ當分は學校は休むつもりです。」

併し一向に返事がないので、私は稍失望しつゝも或日の夕方散步がてらに其の家を訪問すると、出て來た宿の主婦から國雄は二週間ほど以前に、一先歸つて來るや否や、直樣公園西町の○○番地へ轉居したとの話に力を得て、早速その番地をたよりにして行くとセントラル、パークに面した十階ほどの高いアツパートメント、ハウスに行き當つたです。

何氣なしに云つたのであるが、私の「決心」と云ふ語が、彼には深く意味あるものに聞えたと見え、彼は少時しばし驚いたやうに私の顏を見詰めて居たが、又何やら思返したらしく、

二人が戀して居る事だけは明瞭になつた。

並樹道の兩側に据付けたベンチには此の豪奢の有樣をば見物の人々列をなす中には自分も軈て席を占め、一輛々々と過行く車の主を眺めて、そが流行の選擇嗜好の善惡よしあしに一人盡きせぬ批評を試みて居た。

一年二年と過ぎ三年目の夏休みが來た。私は學費を充分に有たぬ身分故、夏休中に講師某博士の家の藏書畫を整理して幾何の報酬を得る事にしたが、さう云ふ必要のない國雄は北米大陸の瑞西スヰスとも云ふべきコロラド山中の溫泉場から世界七勝の一に數へられてあるイエロー、ストーン、パークを見物にと出掛けて行きました。

と云合ふ者もあつた。

そも如何なる日本人であらう。車を共にして居た金髮ブロンドの婦人は其の妻であらうか。或は單に親しい友逹と云ふに過ぎぬか知ら。

する中、遠くの彼方から四つの車輪と御者の衣服きものから帽子までをば一齊に濃い藍色にした一輛の車が靑々した木蔭を縫つて進んで來る。

すると婦人は私を客間パーローへと案内してくれたが、狹い廊下を行く時何か氣遣し氣に見て見ぬやうに私の顏を窺見ぬすみゝしました。

かの男、その名を藤ケ崎國雄と云ひ資產ある伯爵家の長男です。米國に留學してコロンビヤ大學に這入りましたが、然し敎場へ出るのは、ほん﹅﹅の義理一遍で、米國の華美な自由な男女學生間の交際を專門に、春はピクニツクや馬乗、冬は舞蹈や氷滑りと、遊ぶ事のみに日を送つて居たのです。

「私も此れなり退學して了ふ心ぢやないのですが、つい朝………つい朝晚くなつて了ふものですから………。」

「如何云ふ人ですか、御存じですか。」

「何して離婚デボースされたんです。」

「今お止めになつちや惜しいものです。もう後一年か二年も敎場にさへ出て居れば兎に角學位ぐらゐは取れるぢやありませんか。」

「メキシコ人ぢや有るまいか。」

「ア、學校ですか。つい行きそびれて了ひました。もう止めです。」

「よく知つてゐます。丁度私と一緖の船でアメリカへ來たのですし、其後私がコロンビヤ大學に這入りました時も矢張一緖になりましたから………。」

「さぞ御愉快でしたらう旅行は………。時に如何です、學校の方は。」

「さうですか。其れなら私も强ひてとは云はないですが、然し君、一體如何して其樣決心をされたのです。」

「さうでしたか、あの男を御覽になつたのですか、全く鳥渡見には日本人とは見えますまい。」

「いや、別に決心した譯でもないです。唯少し讀書にも飽きましたから、保養がてら暫く遊んで居たいと思ふんですよ。」

「あの眞黑な毛の色合はどうしても西班牙スペインの種だから大方南亞米利加からでも來た人だらう。」

畢竟つまり不品行だつたから………。」と彼は止むなく其の知つて居る限りを話しました。

他所よそならばいざ知らず、此の華美な藍色が晴れた春の靑空と明い深綠の色に調和して誠に好く人の目を惹くので、自分はその近付くを待ち車の主こそは如何なる人かと眺めると、帽子を飾る駝鳥の毛をば同じ藍色に染めそれに釣合ふ華美な衣裳―――然し年は左程若からぬ一婦人で、其の傍に相乗したのは何處の國民とも知れず、眞黑な頭髪を宛ら十八世紀の人の如く肩まで垂し、短い赤い口髯にリボン付の鼻眼鏡を掛けた若紳士である。

「一口に云へば浮氣性とでも云ふんでせう。小說などを讀んで面白いと思ふと、直ぐ自分も其樣身の上になつて見たくて堪らないと云ふんですからね。結婚してから一年も經たない中にポーランドから來た韃靼種だつたんだねの音樂家に迷つて密會したのが、つい夫の耳に這入つたので、到頭夫の財產の四分の一を貰つて、離婚と云ふことになつたのださうです。一度世間へ耻を曝出して了つてはもう上流のソサイエテーには顏出しが出來ませんからね、つまり、いくら金があつて容色がよくツても世間からは日陰のものです。斯うなると、誰でも却つて自暴自棄になるもんで、夫人は其れからといふもの、隨分、種々雜多な男を玩弄おもちやにしたさうですよ。」

私は意外の驚きに打たれ、「君、君は………其樣不德な婦人と知つて居ながら、平氣で彼の女を愛して居るんですか。」

國雄は無論だと云はぬばかりに默つて微笑む。私はいよ〳〵驚いて、

「一體、君はあの女から愛されて居ると思つて居るんですか。其樣怖しい女なら………一步讓つて愛されて居るとしても、ほんの一時で、直に又、他の男に手を出すかも知れないぢやありませんか。」

「其ア何とも請合へません。併し、私には一時でもかまは無い。其の一時が苦しい事なら兎も角、スヰートな事である以上には五分間でも一分間でも關ひませんよ。つまり愉快な夢を見たゞけ德ぢやありませんか。」

彼は再び微笑して讀書ばかりして居る私には學問以外の事が何で分るものかと寧そ蔑むやうに私の顏を見ました。

私は全く解釋に苦みました―――聞くも恐しいやうな夫人の身の上を知りながら國雄は如何して愛情を催す事が出來るのであらう。

他日私はドーデーのサツフオーなどを讀んで、男と云ふものは或る事情の下には隨分淺間しい經歷の女をも、非常な嫌惡の情と共に、又非常に熱烈な情を以て愛し得るものである事を知りましたが、國雄の彼の夫人に對するのは其れとは又全く趣を異にして居るやうです。

私は彼を見る度々種々なる方面から遂に其の眞相を探り得た。一時私は一種厭な感に打たれて彼の面に唾したいやうにも思つたが、更に一步深く觀察した後には一轉して私は世にも不幸な性情に生れ付いた男であると、同情の淚を禁じ得ないやうになつたのです。

國雄には堂々たる强い男性的な愛の感念が微塵も無い。全く男女の地位を反對にして男の身ながら女の腕に抱かれ、女の庇護の下に夢のやうな月日を送りたいと云ふ、俗に男妾をとこめかけとも稱すべき境遇、此れが國雄の理想なのです。

日本に居た時分に彼は多くの靑年が誘惑されると同樣に丁年に逹せぬ前から早く狹斜の地に足を蹈み入れた。金は有り家柄はよし、其れに美男と來て居るから、隨分向から熱心になる若い美しい女もあつたけれど、彼は其等には見向きもせず、己をば弟か何かのやうに取扱つてくれる或老妓の情人になつて得々として居た。

世には金錢上の慾心から年上の女に愛されたいと思ふものが多いが、彼のみは富よりも猶高價な名譽と地位とをなげうつてまで、其の奇異な一種の望みを遂げやうとする。彼は一時家名を汚した罪で勘當同樣の身となつたが、之れは結句、其の望む所、彼は春雨の朝晚く女の半纏を肩に引かけ朝風呂に出掛けるやうな放逸な生活を樂しんだ。

此れではならぬと伯爵家では遂に彼をば外國へ追ひやるに如くは無いと決して、此處に國雄は米國に遊學したのである。然し運命の惡戲とでも云はうか。伯爵の若殿は幾千哩の外國まで來て再び美しい魔の捕虜になり、其の身は愚今は家をも國をも忘れて了つたのです。

私は繰返して運命の惡戲と云ひませう。國雄はもうかれこれ二年ほども、彼の夫人の下に養はれて居ますが、其の間絕えず彼が如何に飽かれまい、見捨てられまいと苦心しつゝあるか。笑止と云ふよりは寧そ淚の種です。

私は云ふに忍びない話を澤山知つて居ますが、此處に其の一つを話せば貴君が公園で御覽になつたと云ふ彼の長い髮の理由です。

一體女と云ふものは男が下手に出れば出る程暴惡に專制に成り易いものであるが、殊に彼の夫人のやうに世間から排斥され、云はゞ長く逆境に在ると神經が過敏になつて、理由わけもないのに腹立つて、日頃は非常に大切にして居る器物や寶石を壊して見たり、或は非常に愛して居る自分の戀人を打擲したりする事がある。

然し國雄は何事をも忍びます。或日夫人は例の如く國雄を散々に苛んだばかりか、遂には自分の美しく結んだ頭髮までを滅茶々々に毮つて、挿した寶石入りの櫛を足で踏碎いた。其の時の心地は何とも例へられぬ位、丁度夏の日に冷水を浴びたやうであつた………ふい﹅﹅と此れから思付いたのであらう、夫人は國雄にヘンリー四世の像のやうに其の頭髮を長くして見せてくれと云ひました。

國雄は光澤ある黑い髮を房々と肩近くまで延し其の先をば美しく卷縮らした。

貴君は車上の彼が姿を御覽になつて、あの長髮をば定めし極端なハイカラ好みとでも思はれたかも知れぬが、其の實は夫人が癇癪を起した時、彼はその長い髮を引毮ひきむしらせ、そして狂亂の女に一種痛刻な快味を與へる爲めなのです。

(明治卅九年五月)

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長髮