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あめりか物語

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船房夜話

何處いづこにしても陸を見る事の出來ない航海は、殆ど堪へ難い程無聊ぶれうに苦しめられるものであるが、橫濱から亞米利加あめりかの新開地シアトルの港へ通ふ航海、此れもその一ツであらう。

出帆した日、故國の山影に別れたなら、船客は彼岸の大陸に逹する其の日まで、半月あまりの間、一ツの島、一ツの山をも見る事は出來ない。昨日も海、今日も海―――何時見ても變らぬ太平洋の眺望ながめと云ふのは唯だ茫漠として、大きな波浪なみの起伏する邊に翼の長いくちばしの曲つた灰色の信天翁あはうどりの飛び廻つてゐるばかりである。その上にも天氣は次第に北の方へと進むに連れて心地よく晴れ渡る事は稀になり、まづ每日のやうに空は暗澹たる鼠色の雲に蔽ひ盡さるゝのみかやゝもすれば雨か又は霧になつて了ふ。

私も岸本君もとも〴〵熱心に柳田君が今回の渡米に付いての抱負を質問した。鳥渡した話にも柳田君は必ず大陸の文明島國の狹小と云ふ事を口癖のやうにしてゐるので、定めし大抱負を持つて居る事と想像したからである。

私は圖らずも此淋しい海の上の旅人になつた。そして早くも十日ばかりの日數を送り得た處である。晝間ならば甲板で環投わなげの遊び、若しくは喫煙室で骨牌かるたを取りなぞして、どうか斯うか時間を消費する事が出來るけれど、さて晚餐の食卓テーブルを離れてからの夜になると、殆ど爲す事が無くなつて了ふ。且つ今日あたりは餘程氣候も寒くなつて來たやうだ。外套なしではとても甲板を步いて喫煙室へも行かれまいと思ふ所から、私は其の儘船房キヤビンに閉じ籠つて、日本から持つて來た雜誌でも開かうかと思つて居ると、其の時室の戶を指先でコト〳〵と輕く叩くものがある。

然し柳田君は猶全く絕望して了ひはせぬ。苦痛の反動として以前よりも一層過激に島國の天地を罵倒し始めた。そして再び海外へ旅の愉快を試みやうと決心したのである。

然し岸本君は返事をせず傾けた顏を起して、「又、大分動いてゐる樣ですね。」

戶が開いて、「どうした。又少し動くやうぢや無いか。弱つとるのかね。」

彼は最初或學校を卒業した後、直樣會社員となつて、意氣揚々と濠洲の地へ赴いたのである。そして久振に故鄉の日本へ歸つて來たが、満々たる胸中の得意と云ふものは、最初出立した時の比ではない。舊友の歡迎會を始めとして、彼は到る所逢ふ人每に大陸の文明と世界の商況とを說き且つ賞讃した。豆粒のやうな小な島國の社會は必ず自分を重く用ひてくれるに違ひ無いと深く信じて疑はなかつた。處が事實は本社詰めの飜譯掛にされて了つて、其の月給幾何かと問へば、本位ほんゐの低い日本銀貨の僅か四十圓と云ふのであつた。然し彼はよく〳〵日本の事情を考へて、先づ默して此れを受取つたものゝ、胸中には絕えず不平がわだかまり易い。で、此の不平を慰むべく、彼は軈て才色優れた貴族の令孃をでも妻にしやうと、大に此の方面へ運動しはじめた。心中では洋行歸り―――と云ふ此の呼聲が確に世の娘や母親の心を惹くであらうと信じたが事實は增々反對して來る。彼が目掛けた或子爵の令孃と云ふのは彼が最も冷笑する島國の大學卒業生と結婚して了つた。彼は二度まで得意の鼻を折られたばかりでは無く、今度は確に遣瀨なき失戀の打擊をも蒙つたのだ。

岸本君と云ふのは矢張三十近くの稍身丈せいの低い男で、紬の袷とフランネルの一重を重着かさねぎした上に大島の羽織を被つて居る。

何時になつたのか遙に時間を知らせる淋しい鐘の音が聞える。波は折から次第に高まり行くと見え、今はベツドの上の丸い船窓へ凄じく打寄せる響がすると、甲板の方に當つて高いほばしらを掠める風の音が、丁度東京で云ふ二月のカラ風を聞くやうで、其れに連れては何處とも知らずギイ〳〵と何か物のきしむ響も聞え始めた。然し私等は最早や航海には馴れて了つた處から別に醉ふやうなうれひは無い。窓や戶へ帷幕カーテンを引き蒸氣スチームの溫度で狹い船室の中を暖かにして、安樂椅子へ凭れながら外部おもての暴風雨を聞いてゐると、却つてそれとも無しに冬の夜に於ける爐邊の愉快が思ひ出される。ハイカラの柳田君も同じ感情に誘はれたのであらう、ウヰスキーの洋盞さかづきを下に置いて、

中肉中丈、年は三十を一ツ二ツも越して居るらしい。縞地しまぢの背廣の上に褐色ちやいろの外套を纏ひ、高いカラーの間からは華美はでな色の襟飾ネキタイを見せて居る。何處となく氣取つた樣子で膝の上に片脚を載せ、指輪を穿めた小指の先で葉卷シガーの灰を拂ひ落しながら、

すると柳田君は、岸本君の顏を見ながら、

「霧が深いからでせう。」と柳田君が說明し掛けた時ボーイは命じた酒類を盆にのせて持運んで來た。そしてベツドの傍の小いテーブルの上に置きコツプへついだ後再び室を出て行く。

「眞理だよ、實際眞理だよ。」と柳田君は深くも何か感じたらしい樣子になつて、「君の比喩に從ふと、僕なんぞは正に燒出された方の組なんだな。燒出されて亞米利加三界へ逃げ出すんだ。僕は實際去年日本へ歸つたばかりなんだ、行李トランクを開けるか開けない中、又候またぞろ海外へ行かうなぞとは、全く自分でも意外な心持がするです。」

「眞實、これが大船に乗つた心持と云ふのでせうな。然し若しか、帆前船見たやうなものだつたら、如何でせう。隨分難船しないとも云へませんぜ。」と岸本君は眞面目らしく云つた。

「洋服は寒いですか。」と如何にも不審だと云ふ語調で、「私なんぞは、然うすると全く反對ですね。增して此樣航海中なんか日本服を着やうものなら、襟首が寒くて忽ち風邪を引いて了ふです。」

「柳田君。岸本君は細君や子供までを殘して學問に出て來られたのださうです。」と私が云ひ添へると、柳田君は身體を前へ進ませながら、

「柳田君、君は例の如くウヰスキーですか。」

「柳田君、君はいける口なんだから、どうです、命じませうか。」

「有難う。此樣風をして居るですから………。」と岸本君は其の儘佇立んで居る。

「日本なんかに居つたら、到底心の底から快哉を呼ぶやうな事アありやせんからね。丁度好鹽梅いゝあんばいに橫濱の生糸商で亞米利加へ視察に行つてくれと云ふものがあるから、此れ幸ひに依賴されて出掛けて來たです。事業ビジネスと云ふ事に付いちや、如何しても海外へ行かなければいかんですからね。僕は同胞諸君が渡米されるのを見ると、實際嬉しく思ふです。」と洋盞さかづきを取つて咽喉を潤したが、身體の方向むきを一轉させて、「岸本君。君は米國あつちに行つてから學校へ這入るとか云はれたですね。」

「日本なら今頃は隨分好い時候なんだがな…………。」

「成程、少し動搖するね。まア可いさ。今夜は一ツ愉快な雜談會を催したいもんだな。」と柳田君は安樂さうに足を踏み伸したが、和服の岸本君は明い電氣燈のひかつて居る室の天井を見廻しながら、

「岸本君。君はもうお子樣があるんですか。」

「寒いから引込んで了つた。まア掛け給へ。」と云ふと、

「大學へでも這入られるですか。」

「君。何にしても太平洋だよ。」と柳田君は再び薄いひげひねつた。ボーイが戶を開ける。

「全く寒いな。アラスカの沖を通るんだと云ふからな。」と餘り濃くない髯を生やした口許に微笑を浮べながら、長椅子ソフワーの片隅へ腰を下したのは柳田君と云つて航海中懇意になつた紳士である。

「何事に寄らず皆な然うですよ。一方で愉快を感ずるものがあれば、其の爲めに一方では屹度苦痛を感ずるものが起るです。火事なんぞは燒かれるものこそ災難だが、外のものには三國一の見物だからね。」とウヰスキーの醉が廻つたのか、私は何か分らぬ屁理窟を云ふと、

「何か思ひ出す事でもありやしないかね。」

「ハロオ、カムイン。」とハイカラの柳田君は早速氣取つた發音で呼掛けると、

「グツドラツク。」と柳田君が第一にコツプをさゝげたので、私等も同じやうに笑ひながらグツドラツクを繰返した。

「よからう。」と私は壁をトン〳〵と二三度叩いて見た。少時しばらくは答へが無かつたが、軈て隣りの船房に居る岸本君と云ふのが、私の船室の戶口へ顏を出した。

「はゝゝは。其樣抱負なぞと云ふ大したものは無いです。しかし﹅﹅﹅……」と濃くない髯をひねつて柳田君は自家の經歷を述べ始めた。

「はゝは。其ア君お隣りの先生へ云ふ事だ。」

「ねえ、君。自分の身體が安全だと云ふ事を信じて居ると、外を吹いて居る暴風雨ストームと云ふものは、何となしに趣味のあるやうに聞えるですな。」

「どうしたんです。非常に汽笛を鳴らずぢやありませんか。」

「ぢや、失禮します。」と鳥渡腰を屈めて椅子に坐りながら、「洋服はどうも寒くて不可んですから、寢衣ねまきで寢やうかと思つて居たです。」

「だから、話をするには矢張やつぱりコツプが無いと面白くないでせう。」と私はベルを押しながら、「又例の氣焰を聞かうぢやありませんか。ねえ、岸本君。」

「さうですかなア。其れぢやア、私は未だ洋服に慣れ無いんですな。」

「さうです。」と岸本君は和服の襟を引合せた。

「さう、全くだよ。」

「さ。其の心算ですが、今の處ぢや全で語學が出來ませんし、未だ事情も分らんですからな………」

「さ、這入り給へ。」と私は長椅子から立つて立掛けてある疊椅子を廣げた。

「お這入んなさい。」と私は半身を起しながら呼掛けた。

「うむ。お隣りの先生と云へば如何して居る。又例の如く引込んで居るんだらう。呼んで見やうぢや無いか。」

「いや、今夜は餘り欲しくは無いです。唯だ退屈だから談話はなしに遣つて來たです。」

勿論オフコース」と云ふ返事を聞いてボーイは靜に戶を閉めて立去つたが、其の時吠るやうな太い汽笛の響に續いて、甲板へ打上げる波の音がした。

「えゝ。」とばかり岸本君は稍其の頰を赤らめた。

「其れぢや、非常な大決心を以つて出て來られたのですな。」

「まア、此れまでにして、出て來るには隨分奮發したつもりなんです。親類なぞにはきびしく止るものも有りました。」と今度は岸本君が語る可き順序となつた。

此の人は矢張東京の或會社に雇はれて居たが、將來に出世する見込のないばかりか、何時も人の後に蹴落されてのみ居た、と云ふのは、畢竟ひつきやう何處の學校をも卒業した事がない。すなはち肩書と云ふものを有つてゐない其の爲めであると、つく〴〵考へ始めた折から、今度社内の改革に遇つて解雇される事となつた。けれども幸ひ其の細君の身には尠からぬ財產が付いて居たので、普通の人の遭遇するやうな憂目を見ずに濟んだのである。否、其の細君は寧ろ好い折であると云ふ樣に、此樣喧しい東京に居るよりか、自分の身に付いて居る財產で何處か靜な田舎へ行き可愛い子供の三人暮しで安樂に暮した方がと云出した。

けれども、岸本君は此の優しい妻の語に從ふどころでは無い。細君が其の亡父から讓られた財產で、自分は出來る事なら一年なり二年なり米國へ行つて學問して來たいと相談し掛けた。すると細君は決して金を惜む爲めでは無く、唯だ〳〵愛する夫に別れるのが可厭いやさに堅く其れには反對したのである。無理な出世なぞはしてくれなくてもよい。書生上りの學士さんに先を越されても少しも耻る事は無い。人は其の力相應の働きをして平和に其の日が送れさへすればよいでは無いかと云ふのが細君の意見であつたが、是非飽くまでもと云ふ夫の決心に到頭細君も淚ながらに岸本君を萬里の異鄉に出立させる事になつたと云ふのである。

「ですから、私の考へでは成りたけ時間を短くして何なり學校の免狀を持つて歸りたいと思つて居るです。卒業免狀が妻へ見せる一番の土產なんですから。」

云ひ了つて、岸本君は自ら勇氣を勵ます爲めか、苦味にがさうな顏をしながらも、グツと一口ウヰスキーを飮干した。

「うむ。全くお察し申すです。然し其れと共に僕は満腔の熱情を以て君の莊擧を祝するです。」と柳田君は續いてコツプを上げたが又調子を變へて、「然し、何かにつけて思ひ出しなさるでせうな。僕は未だ細君の味は知らないですがね。」

「はゝゝは。もう此處まで踏出して其樣意氣地のない事が………はゝゝは。」と殊更に笑つたが其の樣子は如何にも苦し氣に見受けられた。

カン〳〵と折から又もや鐘を打つ音が聞えた。硝子戶一枚で僅に境されてある船窓まどの外には依然として波と風とが荒れ廻つて居たが、閉切つた船房へやの中は酒の香氣かをりと煙草の煙にもう暖か過る程になつて居る。いつか談話にも疲れ掛けた私逹は船房中に輝き渡る電燈の光を今更の樣に眺め廻した。柳田君は軈て思出したやうに時計を引出して、

「もう十一時だ。」

「さうですか。大變お邪魔をしました。其れぢやアそろ〳〵お暇しませう。」と岸本君が先に座を立つた。

「まア可いぢやありませんか。」

「有難う。今夜はおかげで非常に愉快だつたです。明日も又う云ふ風に送りたいですな。其れぢや………。」と戶を開けて「グツドナイト。」と柳田君は何か分らぬ英詩を口の中で唱ひながら早や己が船房の方へと、次第に其の跫音を遠くさせると、隣りの室では同じく歸り去つた岸本君が淋しい寢床に其の身を橫へるのであらう、ベツドの帳帷カーテンを引き寄せる音が幽に聞えた。

(明治卅六年十一月)

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