出帆した日、故國の山影に別れたなら、船客は彼岸の大陸に逹する其の日まで、半月あまりの間、一ツの島、一ツの山をも見る事は出來ない。昨日も海、今日も海―――何時見ても變らぬ太平洋の
私も岸本君もとも〴〵熱心に柳田君が今回の渡米に付いての抱負を質問した。鳥渡した話にも柳田君は必ず大陸の文明島國の狹小と云ふ事を口癖のやうにしてゐるので、定めし大抱負を持つて居る事と想像したからである。
私は圖らずも此淋しい海の上の旅人になつた。そして早くも十日ばかりの日數を送り得た處である。晝間ならば甲板で
然し柳田君は猶全く絕望して了ひはせぬ。苦痛の反動として以前よりも一層過激に島國の天地を罵倒し始めた。そして再び海外へ旅の愉快を試みやうと決心したのである。
然し岸本君は返事をせず傾けた顏を起して、「又、大分動いてゐる樣ですね。」
戶が開いて、「どうした。又少し動くやうぢや無いか。弱つとるのかね。」
彼は最初或學校を卒業した後、直樣會社員となつて、意氣揚々と濠洲の地へ赴いたのである。そして久振に故鄉の日本へ歸つて來たが、満々たる胸中の得意と云ふものは、最初出立した時の比ではない。舊友の歡迎會を始めとして、彼は到る所逢ふ人每に大陸の文明と世界の商況とを說き且つ賞讃した。豆粒のやうな小な島國の社會は必ず自分を重く用ひてくれるに違ひ無いと深く信じて疑はなかつた。處が事實は本社詰めの飜譯掛にされて了つて、其の月給幾何かと問へば、
岸本君と云ふのは矢張三十近くの稍
何時になつたのか遙に時間を知らせる淋しい鐘の音が聞える。波は折から次第に高まり行くと見え、今はベツドの上の丸い船窓へ凄じく打寄せる響がすると、甲板の方に當つて高い
中肉中丈、年は三十を一ツ二ツも越して居るらしい。
すると柳田君は、岸本君の顏を見ながら、
「霧が深いからでせう。」と柳田君が說明し掛けた時ボーイは命じた酒類を盆にのせて持運んで來た。そしてベツドの傍の小いテーブルの上に置きコツプへついだ後再び室を出て行く。
「眞理だよ、實際眞理だよ。」と柳田君は深くも何か感じたらしい樣子になつて、「君の比喩に從ふと、僕なんぞは正に燒出された方の組なんだな。燒出されて亞米利加三界へ逃げ出すんだ。僕は實際去年日本へ歸つたばかりなんだ、
「眞實、これが大船に乗つた心持と云ふのでせうな。然し若しか、帆前船見たやうなものだつたら、如何でせう。隨分難船しないとも云へませんぜ。」と岸本君は眞面目らしく云つた。
「洋服は寒いですか。」と如何にも不審だと云ふ語調で、「私なんぞは、然うすると全く反對ですね。增して此樣航海中なんか日本服を着やうものなら、襟首が寒くて忽ち風邪を引いて了ふです。」
「柳田君。岸本君は細君や子供までを殘して學問に出て來られたのださうです。」と私が云ひ添へると、柳田君は身體を前へ進ませながら、
「柳田君、君は例の如くウヰスキーですか。」
「柳田君、君は
「有難う。此樣風をして居るですから………。」と岸本君は其の儘佇立んで居る。
「日本なんかに居つたら、到底心の底から快哉を呼ぶやうな事アありやせんからね。丁度
「日本なら今頃は隨分好い時候なんだがな…………。」
「成程、少し動搖するね。まア可いさ。今夜は一ツ愉快な雜談會を催したいもんだな。」と柳田君は安樂さうに足を踏み伸したが、和服の岸本君は明い電氣燈の
「岸本君。君はもうお子樣があるんですか。」
「寒いから引込んで了つた。まア掛け給へ。」と云ふと、
「大學へでも這入られるですか。」
「君。何にしても太平洋だよ。」と柳田君は再び薄い
「全く寒いな。アラスカの沖を通るんだと云ふからな。」と餘り濃くない髯を生やした口許に微笑を浮べながら、
「何事に寄らず皆な然うですよ。一方で愉快を感ずるものがあれば、其の爲めに一方では屹度苦痛を感ずるものが起るです。火事なんぞは燒かれるものこそ災難だが、外のものには三國一の見物だからね。」とウヰスキーの醉が廻つたのか、私は何か分らぬ屁理窟を云ふと、
「何か思ひ出す事でもありやしないかね。」
「ハロオ、カムイン。」とハイカラの柳田君は早速氣取つた發音で呼掛けると、
「グツドラツク。」と柳田君が第一にコツプをさゝげたので、私等も同じやうに笑ひながらグツドラツクを繰返した。
「よからう。」と私は壁をトン〳〵と二三度叩いて見た。
「はゝゝは。其樣抱負なぞと云ふ大したものは無いです。
「はゝは。其ア君お隣りの先生へ云ふ事だ。」
「ねえ、君。自分の身體が安全だと云ふ事を信じて居ると、外を吹いて居る
「どうしたんです。非常に汽笛を鳴らずぢやありませんか。」
「ぢや、失禮します。」と鳥渡腰を屈めて椅子に坐りながら、「洋服はどうも寒くて不可んですから、
「だから、話をするには
「さうですかなア。其れぢやア、私は未だ洋服に慣れ無いんですな。」
「さうです。」と岸本君は和服の襟を引合せた。
「さう、全くだよ。」
「さ。其の心算ですが、今の處ぢや全で語學が出來ませんし、未だ事情も分らんですからな………」
「さ、這入り給へ。」と私は長椅子から立つて立掛けてある疊椅子を廣げた。
「お這入んなさい。」と私は半身を起しながら呼掛けた。
「うむ。お隣りの先生と云へば如何して居る。又例の如く引込んで居るんだらう。呼んで見やうぢや無いか。」
「いや、今夜は餘り欲しくは無いです。唯だ退屈だから
「
「えゝ。」とばかり岸本君は稍其の頰を赤らめた。
「其れぢや、非常な大決心を以つて出て來られたのですな。」
「まア、此れまでにして、出て來るには隨分奮發したつもりなんです。親類なぞには
此の人は矢張東京の或會社に雇はれて居たが、將來に出世する見込のないばかりか、何時も人の後に蹴落されてのみ居た、と云ふのは、
けれども、岸本君は此の優しい妻の語に從ふどころでは無い。細君が其の亡父から讓られた財產で、自分は出來る事なら一年なり二年なり米國へ行つて學問して來たいと相談し掛けた。すると細君は決して金を惜む爲めでは無く、唯だ〳〵愛する夫に別れるのが
「ですから、私の考へでは成りたけ時間を短くして何なり學校の免狀を持つて歸りたいと思つて居るです。卒業免狀が妻へ見せる一番の土產なんですから。」
云ひ了つて、岸本君は自ら勇氣を勵ます爲めか、
「うむ。全くお察し申すです。然し其れと共に僕は満腔の熱情を以て君の莊擧を祝するです。」と柳田君は續いてコツプを上げたが又調子を變へて、「然し、何かにつけて思ひ出しなさるでせうな。僕は未だ細君の味は知らないですがね。」
「はゝゝは。もう此處まで踏出して其樣意氣地のない事が………はゝゝは。」と殊更に笑つたが其の樣子は如何にも苦し氣に見受けられた。
カン〳〵と折から又もや鐘を打つ音が聞えた。硝子戶一枚で僅に境されてある
「もう十一時だ。」
「さうですか。大變お邪魔をしました。其れぢやアそろ〳〵お暇しませう。」と岸本君が先に座を立つた。
「まア可いぢやありませんか。」
「有難う。今夜はお
(明治卅六年十一月)