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戯作三昧

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「また種彦たねひこの何か新版物が、出るそうでございますな。いずれ優美第一の、哀れっぽいものでございましょう。あのじんの書くものは、種彦でなくては書けないというところがあるようで。」

市兵衛は、どういう気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞くたびに、自分もまた蔭では「馬琴が」と言われることだろうと思った。この軽薄な、作者を自家じかの職人だと心得ている男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?――かんのたかぶった時々には、こう思って腹を立てたことも、まれではない。今日も彼は種彦という名を耳にすると、苦い顔をいよいよ苦くせずにはいられなかった。が、市兵衛には、少しもそんなことは気にならないらしい。

馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐ろしい勢いで左へまがった。

馬琴は不快を感じるとともに、脅かされるような心もちになった。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されるということは、自尊心の旺盛おうせいな彼にとって、もちろん好ましいことではない。しかも彼は遅筆の方である。彼はそれが自分の無能力に裏書きをするように思われて、寂しくなったこともよくあった。が、一方またそれが自分の芸術的良心を計る物差しとして、とうとみたいと思ったこともたびたびある。ただ、それを俗人の穿鑿せんさくにまかせるのは、彼がどんな心もちでいようとも、断じて許そうとは思わない。そこで彼は、眼をとこ紅楓黄菊こうふうこうぎくの方へやりながら、吐き出すようにこう言った。

馬琴の記憶には、いつか見かけたことのある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。「私は作者じゃない。お客さまのお望みに従って、艶物つやものを書いてお目にかける手間取てまとりだ。」――こう春水が称しているという噂は、馬琴もつとに聞いていたところである。だから、もちろん彼はこの作者らしくない作者を、心の底から軽蔑していた。が、それにもかかわらず、今市兵衛が呼びすてにするのを聞くと、依然として不快の情を禁ずることが出来ない。

市兵衛は三度みたび感服した。が、これが感服それ自身におわる感服でないことは、言うまでもない。彼はこのあとで、すぐにまた、切りこんだ。

こう言いながら、市兵衛はちょいと馬琴の顔を見て、それからまたすぐに口にくわえている銀の煙管へ眼をやった。そのとっさの表情には、おそるべく下等な何者かがある。少なくとも、馬琴はそう感じた。

「私と為永ためながさんとは違う。」

「時と場合でね。早い時もあれば、またおそい時もある。」

「ははあ、時と場合でね。なるほど。」

「ははあ、さようかね。」

「ともかくあれで、艶っぽいことにかけては、たっしゃなものでございますからな。それに名代なだいの健筆で。」

「でございますが、たびたび申し上げた原稿の方は、一つ御承諾くださいませんでしょうか。春水なんぞも、……」

「それから手前どもでも、春水しゅんすいを出そうかと存じております。先生はおきらいでございますが、やはり俗物にはあの辺が向きますようでございますな。」

「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分くらいなら、紙からはなれないそうでございます。ときに先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」

「まあ私は御免をこうむろう。――杉、杉、和泉屋さんのお履物はきものを直して置いたか。」

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