戯作三昧在线阅读

戯作三昧

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うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱くつぬぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄せったが一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々にがにがしく心に思い起した。

「今日も朝のうちはつぶされるな。」

馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。

馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく座についた。

開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管きせるをくわえながら、端然と座敷のまん中に控えている。彼の書斎には石刷いしずりった屏風びょうぶと床にかけた紅楓黄菊こうふうこうぎくの双幅とのほかに、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、ただ古びた桐の色を、一面に寂しく並べている。障子の紙も貼ってから、一冬はもう越えたのであろう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた芭蕉ばしょうの大きな影が、婆娑ばさとして斜めに映っている。それだけにこの客のぞろりとした服装が、いっそうまた周囲とり合わない。

彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。

市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のようにやさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。

市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる瑣末さまつな事件にも、この男のごとく容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したような顔をする人間は、まれである。馬琴はおもむろに一服吸いつけながら、いつもの通り、さっそく話を用談の方へ持っていった。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。

家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうしてしかたなく、玄関の隣にある書斎のふすまを開けた。

客は、襖があくとともに、なめらかな調子でこう言いながら、うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅きんぺいばい版元はんもとを引き受けていた、和泉屋市兵衛いずみやいちべえという本屋である。

こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、

「山本様へいらっしゃいました。」

「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」

「原稿と言ったって、それは無理だ。」

「へへえ、朝湯に。なるほど。」

「へへえ、何かおさしつかえでもございますので。」

「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」

「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」

「なるほどそれは御多忙で。」

「そこで今日は何か御用かね。」

「さかつかえるどころじゃない。今年は読本よみほんを大分引き受けたので、とても合巻ごうかんの方へは手が出せそうもない。」

「おみちもいっしょか。」

「おひゃくは。」

「いや、先生、ようこそお帰り。」

御仏参ごぶっさんにおいでになりました。」

和泉屋いずみやさんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。

せがれは。」

と言ったかと思うと、市兵衛は煙管で灰吹きをたたいたのが相図あいずのように、今までの話はすっかり忘れたという顔をして、突然鼠小僧次郎太夫ねずみこぞうじろだゆうの話をしゃべり出した。

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