お律と子等と在线阅读

お律と子等と

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慎太郎しんたろうがふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のおきぬ賢造けんぞうとが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。

「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」

賢造はお絹にこう云ったなり、いそがしそうに梯子はしごを下りて行った。

窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降おおぶりだな、――慎太郎はそう思いながら、早速さっそく寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。

看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。

父は小声に看護婦へ云った。

母は彼の顔を見ると、うなずくような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、

母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神うじがみ御札おふだが、柴又しばまた帝釈たいしゃく御影みえいなぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。――母は上眼うわめにその盆を見ながら、あえぐように切れ切れな返事をした。

戸沢は手を洗っていた。

戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。

戸沢はかばんの始末をすると、母の方へこう大声に云った。それから看護婦を見返りながら、

戸沢の側に坐っていた父は声高こわだかに母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。

慎太郎も苦笑した。

慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。

慎太郎は看護婦の手から、水にひたした筆を受け取って、二三度母の口をしめした。母は筆に舌をからんで、乏しい水を吸うようにした。

慎太郎は父の云いつけ通り、両手のたなごころに母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗あぶらあせに、気味悪くじっとりしめっていた。

慎太郎はしゃがむように、長火鉢のふちひざを当てた。

慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次のには今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――戸沢はその前を通る時、叮嚀ていねいな叔母の挨拶に無造作むぞうさな目礼を返しながら、あとに従った慎太郎へ、

彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには洋一よういちが腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。

医者が雨の中を帰ったのち、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一よういちが巻煙草をくわえていた。

五分ののち、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は枕もとの看護婦に、あとの手当をして貰いながら、昨夜ゆうべ父が云った通り、絶えず白いくくり枕の上に、櫛巻くしまきの頭を動かしていた。

もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口にたたずんでいた。そこから見える台所のさきには、美津みつが裾を端折はしょったまま、雑巾ぞうきんか何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮しんちゅうの手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのがはばかられるような心もちがした。

「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」

「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――わたし夜中よなかに気味が悪くなってしまった。」

「眠いだろう?」

「早いな。」

「手を握っておやり。」

「慎太郎が来たよ。」

「慎ちゃん。お早う。」

「少し舌がつれるようですね。」

「寝られないの?」

「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」

「妙な事ってどんな事を?」

「口が御ねばりになるんでしょう。――これで水をさし上げて下さい。」

「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」

「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。

「今は戸沢とざわさんが来ているわ。」

「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。

「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。

「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」

「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」

「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」

「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅のせがれなんぞが受験準備をしているせいですな。――」

「お早う、お母さんは?」

「うん、――昨夜ゆうべ夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」

「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒しんぼうです。」

昨夜ゆうべはずっと苦しみ通し。――」

昨夜ゆうべ、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今朝けさは、おなかの痛みだけは、ずっと楽になりました。――」

洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へほうりこんだ。

「でもお母さんがうならなくなったから好いや。」

「ちっとは楽になったと見えるねえ。」

叔母は母の懐炉かいろに入れる懐炉灰を焼きつけていた。

「四時までは苦しかったようですがね。」

そこへ松が台所から、銀杏返いちょうがえしのほつれた顔を出した。

「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」

「はい、はい、今行きます。」

叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。

「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」

叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸あくびを噛み殺しながら、やっと重い腰をもたげた。

「僕も一寝入りして来るかな。」

慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。

すると突然次のから、あわただしく看護婦が駆けこんで来た。

「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」

慎太郎は咄嗟とっさに身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。そうしてたくましい両腕に、しっかりおりつを抱き上げていた。

「お母さん。お母さん。」

母は彼に抱かれたまま、二三度体をふるわせた。それから青黒い液体を吐いた。

「お母さん。」

誰もまだそこへ来ない何秒かのあいだ、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。

(大正九年十月二十三日)

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