お律と子等と在线阅读

お律と子等と

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戸沢とざわやおきぬの夫が帰ってから、和服に着換えた慎太郎しんたろうは、浅川あさかわ叔母おば洋一よういちと一しょに、茶のの長火鉢を囲んでいた。ふすまの向うからは不相変あいかわらず、おりつうなり声が聞えて来た。彼等三人は電燈の下に、はずまない会話を続けながら、ややもすると云い合せたように、その声へ耳を傾けている彼等自身を見出すのだった。

「いけないねえ。ああ始終苦しくっちゃ、――」

賢造はお絹にそう云ったぎり、すぐに隣りへはいって行った。

洋一は横からのぞくように、静な兄の顔を眺めた。

洋一は叔母には答えずに、E・C・Cをくわえている兄の方へ言葉をかけた。

洋一はお絹がそう云うと同時に、早速さっそく長火鉢の前から立ち上った。

洋一はいやな顔をして、自分も巻煙草まきたばこへ火を移した。

枕もとに独り坐っていた父はあごで彼に差図さしずをした。彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へ坐った。

慎太郎は口をはさみながら、まずそうに煙草の煙を吐いた。

慎太郎がこう云いかけると、いつか襖際ふすまぎわへ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、

彼は吸いさしの煙草を捨てると、無言のまま立ち上った。そうして看護婦を押しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。

彼が茶の間から出て行くと、米噛こめかみに即効紙そっこうしを貼ったお絹は、両袖に胸をいたまま、忍び足にこちらへはいって来た。そうして洋一の立った跡へ、薄ら寒そうにちゃんと坐った。

叔母は答を促すように、微笑した眼を洋一へ向けた。

叔母は火箸ひばしを握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。

今度は慎太郎が返事せずに、煙草たばこの灰を火鉢へ落していた。

二人がこんな話をしているあいだに、慎太郎は金口きんぐちくわえながら、寂しそうな洋一の相手をしていた。

三人はしばらく黙っていた。するとそのひっそりした中に、板のを踏む音がしたと思うと、洋一をさきに賢造が、そわそわ店から帰って来た。

そこへお絹が襖の陰から、そっと病人のような顔を出した。

お絹は襟にあごうずめたなり、考え深そうに慎太郎を見た。

お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合せた。

「熱は?」

「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」

「戸沢さんがいた時より、また一分いちぶ下ったんだわね。」

「慎ちゃん。さっきお前が帰って来た時、お母さんは何とか云ったかえ?」

「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ。」と火鉢越しに彼へ声をかけた。

「怪しいな。戸沢さんの云う事じゃ――」

「店に御出でだよ。何か用かえ?」

「嫌いだってやらなけりゃ、――」

「受験準備はしているかい?」

「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。数学は大嫌いだし、――」

「僕がそう云って来る。」

「何とも云いませんでした。」

「何ですか、――多分床撒とこまき香水とか何んとか云うんでしょう。」

「今お前のうちから電話がかかったよ。のちほどどうかおかみさんに御電話を願いますって。」

「今はかったら七度二分――」

「二三日は間違いあるまいって云った。」

「やっぱり薬が通らなくってね。――でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈夫ですわ。」

「また歌ばかり作っているんだろう。」

「どうだえ?」

「でも笑ったね。」

「しょうがないわね。うちじゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ。」

「している。――だけど今年ことしは投げているんだ。」

「この節の女中はね。――私の所なんぞも女中はいるだけ、かえって世話が焼けるくらいなんだよ。」

「こっちへ御出で。何かお母さんが用があるって云うから。」

「お父さんはいなくって?」

「ええ、お母さんが、ちょいと、――」

「うん、――それよりもお母さんの側へ行くと、莫迦ばかに好いにおいがするじゃありませんか?」

「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香水こうすいいたんだよ。洋ちゃん。何とか云ったね? あの香水は。」

「何か用?」

母はくくり枕の上へ、櫛巻くしまきの頭を横にしていた。その顔がきれをかけた電燈の光に、さっきよりも一層やつれて見えた。

「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――お前からもよくそう云ってね、――お前の云う事は聞く子だから、――」

「ええ、よく云って置きます。実は今もその話をしていたんです。」

慎太郎はいつもよりも大きい声で返事をした。

「そうかい。じゃ忘れないでね、――私も昨日きのうあたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」

母は腹痛をこらえながら、歯齦はぐきの見える微笑をした。

帝釈様たいしゃくさま御符ごふを頂いたせいか、今日は熱も下ったしね、この分で行けばなおりそうだから、――美津みつ叔父おじさんとか云う人も、やっぱり十二指腸の潰瘍かいようだったけれど、半月ばかりで癒ったと云うしね、そう難病でもなさそうだからね。――」

慎太郎は今になってさえ、そんな事を頼みにしている母が、浅間あさましい気がしてならなかった。

「癒りますとも。大丈夫癒りますからね、よく薬を飲むんですよ。」

母はかすかにうなずいた。

「じゃただ今一つ召し上って御覧なさいまし。」

枕もとに来ていた看護婦は器用にお律のくちびる水薬みずぐすり硝子管ガラスくだを当てがった。母は眼をつぶったなり、二吸ふたすいほどくだの薬を飲んだ。それが刹那の間ながら、慎太郎の心を明くした。

塩梅あんばいですね。」

「今度はおさまったようでございます。」

看護婦と慎太郎とは、親しみのある視線を交換した。

「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし、床上とこあげの時分は暑かろうな。こいつは一つ赤飯せきはんの代りに、氷あずきでもくばる事にするか。」

賢造の冗談をきっかけに、慎太郎は膝をついたまま、そっと母の側を引きさがろうとした。すると母は彼の顔へ、突然不審そうな眼をやりながら、

演説えんぜつ? どこに今夜演説があるの?」と云った。

彼はさすがにぎょっとして、救いを請うように父の方を見た。

「演説なんぞありゃしないよ。どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方が好いよ。」

賢造はお律をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。慎太郎は早速膝をもたげて、明るい電燈に照らされた、隣の茶の間へ帰って来た。

茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。それが彼の姿を見ると、皆一度に顔を挙げながら、何か病室の消息しょうそくを尋ねるような表情をした。が、慎太郎は口をつぐんだなり、不相変あいかわらず冷やかな眼つきをして、もとの座蒲団ざぶとんの上にあぐらをかいた。

「何の用だって?」

まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟にあごを埋めた、顔色かおいろの好くないお絹だった。

「何でもなかった。」

「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」

慎太郎は姉の言葉の中に、意地の悪い調子を感じた。が、ちょいと苦笑したぎり、何ともそれには答えなかった。

「洋ちゃん。お前今夜夜伽よとぎをおしかえ?」

しばらく無言が続いた後、浅川の叔母は欠伸あくびまじりに、こう洋一へ声をかけた。

「ええ、――姉さんも今夜はするって云うから、――」

「慎ちゃんは?」

お絹は薄いまぶたを挙げて、じろりと慎太郎の顔を眺めた。

「僕はどうでも好い。」

不相変あいかわらず慎ちゃんはえ切らないのね。高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」

「この人はお前、疲れているじゃないか?」

叔母ば半ばたしなめるように、癇高かんだかいお絹の言葉を制した。

「今夜は一番さきへ寝かした方が好いやね。何も夜伽ぎをするからって、今夜に限った事じゃあるまいし、――」

「じゃ一番さきに寝るかな。」

慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂死すいしの母を見て来た癖に、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽薄を憎みながら、………

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