四
一時間の後店の二階には、谷村博士を中心に、賢造、慎太郎、お絹の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はお律の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格の逞しい谷村博士は、すすめられた茶を啜った後、しばらくは胴衣の金鎖を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、
「戸沢さんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。
賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈そうな膝を重ねていた。
谷村博士は指の間に短い巻煙草を挟んだまま、賢造の代りに返事をした。
谷村博士はそう云ったぎり、沈んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、胴衣の時計を出して見ると、
谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。
戸沢は博士に問われる通り、ここ一週間ばかりのお律の容態を可成詳細に説明した。慎太郎には薄い博士の眉が、戸沢の処方を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。
戸沢はセルの袴の上に威かつい肘を張りながら、ちょいと首を傾けた。
戸沢は挨拶をすませてから、こう云ってまた頭を下げた。
戸沢がこう云いかけると、谷村博士は職業的に、透かさず愛想の好い返事をした。
慎太郎は父や義兄と一しょに、博士に来診の礼を述べた。が、その間も失望の色が彼自身の顔には歴々と現れている事を意識していた。
慎太郎は険しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうな眶の下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
その内にやっと賢造は、覚束ない反問の口を切った。しかし博士は巻煙草を捨てると、無造作にその言葉を遮った。
しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものがなかった。
しかし戸沢と云う出入りの医者が、彼等の間に交ったのは、それから間もない後の事だった。黒絽の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ、
しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様に、二三度独り頷いて見せた。
お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋の主人は、短い口髭に縁無しの眼鏡と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒さを感じながら、剛情に一人黙っていた。
お絹の夫は腕組みをした手に、時々口髭をひっぱっていた。慎太郎は義兄の言葉の中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。
「熱なぞはそれでも昨日よりは、ずっと低いようですが、――」
「当年は梅雨が長いようです。」
「今はとても動かせないです。まず差当りは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもして頂くとか、――今夜はまだ中々痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気は殊に苦しいですから。」
「もう御診断は御伺いになったんですか?」と、強い東北訛の声をかけた。
「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」
「なるほど、そう云うものですかな。こりゃ我々若いものも、伺って置いて好い事ですな。」
「なおあなたの御話を承る必要もあるものですから、――」
「どうか博士もまた二三日中に、もう一度御診察を願いたいもので、――」
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」
「ただ今電話をかけさせました。――すぐに上るとおっしゃったね。」
「それがいかんですな。熱はずんずん下りながら、脈搏は反ってふえて来る。――と云うのがこの病の癖なんですから。」
「そうでしょう。多分はあなたの御覧になった後で発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂進してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違いありませんな。」
「じゃ私はもう御暇します。」と、すぐに背広の腰を擡げた。
「じゃその方が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」
「じゃすぐに入院でも、させて見ちゃいかがでしょう?」
「しかし私が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆候も見えないようでしたがな。――」
「ええ、すぐに見えるそうです。」
「ええ、上る事はいつでも上りますが、――」
「いや、よくわかりました。無論十二指腸の潰瘍です。が、ただいま拝見した所じゃ、腹膜炎を起していますな。何しろこう下腹が押し上げられるように痛いと云うんですから――」
「いや、あなたが御見えになってから、申し上げようと思っていたんですが、――」
これが博士の最後の言葉だった。慎太郎は誰よりずっと後に、暗い梯子を下りながら、しみじみ万事休すと云う心もちを抱かずにはいられなかった。…………