お律と子等と在线阅读

お律と子等と

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ひる過ぎになってから、洋一よういち何気なにげなく茶のへ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造けんぞうが、長火鉢の前に坐っていた。そうしてその前には姉のおきぬが、火鉢のふちひじをやりながら、今日は湿布しっぷを巻いていない、綺麗きれい丸髷まるまげの襟足をこちらへまともにあらわしていた。

「そりゃおれだって忘れるもんかな。」

賢造は口を開く前に、まずそうにきざみの煙を吐いた。

賢造はとうとうにがい顔をして、ほうり出すようにこう云った。洋一も姉の剛情ごうじょうなのが、さすがに少し面憎つらにくくもなった。

賢造は苦笑くしょうを洩らしながら、始めて腰の煙草入たばこいれを抜いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。

賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶のから、台所の板のへ飛び出していた。台所にはたすきがけの松が鰹節かつおぶしかんなを鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合いがしらに向うからも、小走りに美津みつが走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身をかわした。

病室からは相不変あいかわらず、お律のうなり声が聞えて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士はどうしたのだろう? もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者かんじゃではなし、今頃はまだ便々べんべんと、回診かいしんか何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――

独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切とぎらせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔をにらみながら、

父は浮かない顔をしながら、その癖冗談じょうだんのようにこんな事を云った。姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、いまだに一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――そう云う消息しょうそくに通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙然もくねんと新聞をひろげたまま、さっき田村たむらに誘われた明治座の広告を眺めていた。

洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見るとふすまの明いた所に、心配そうな浅川あさかわ叔母おばが、いつか顔だけのぞかせていた。

洋一は立て膝をきながら、日暦ひごよみの上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。

洋一は父の言葉を聞くと、我知らずふすま一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではおりつがいつもに似合わず、時々ながら苦しそうなうなり声をらしているらしかった。

洋一は妙にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山かみやまが、うしろから彼へ声をかけた。

洋一はすぐに立ち上った。

彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次のへはいって行った。

彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山は彼の方を見ずに、金格子かねごうしかこった本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。

呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏台の上にのりながら、高いたなに積んだ商品の箱を取り下そうとしている所だった。

お絹は昨日きのうよりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶あいさつに答えた。それから多少彼をはばかるような、薄笑いを含んだ調子で、ず話のあとを続けた。

「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」

「洋一さん。谷村病院ですか?」

「御免下さいまし。」

「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」

「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、――ただ今だね? 良さん。」

「僕がかけて来ます。」

「何てかかって来たの?」

「三時頃来るって云っていた。さっき工場こうばの方からも電話をかけて置いたんだが、――」

「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」

「よし、よし、万事呑みこんだよ。」

「やっと姉さんから御暇おいとまが出た。」

「もう三時過ぎ、――四時五分前だがな。」

「もう一度電話でもかけさせましょうか?」

「どうです?」

「だからさ、だから今日は谷村博士たにむらはかせに来て貰うと云っているんじゃないか?」

「ただ今じゃありませんよ。もうそちらへいらっしゃる時分だって云っていましたよ。」

「それだからお父さんは嫌になってしまう。」

「そのほうがどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」

「そうですね、一時しのぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」

「そうか。じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。番号は小石川こいしかわの×××番だから、――」

「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」

「じゃそうして頂戴よ。」

「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」

「さっきって?」

「お母さんも今日は楽じゃないな。」

「お母さんの病気だってそうじゃないの? いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。

「お前よりおれの方が嫌になってしまう。お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴ぐちばかりこぼされるし、――」

「ああ、谷村病院。」

戸沢とざわさんが帰るとすぐだとさ。」

いたての髪をにおわせた美津は、きまり悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。

「そうか。そんなら美津のやつ、そう云えば好いのに。」

洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。が、ふと店の時計を見ると、不審ふしんそうにそこへ立ち止った。

「おや、この時計は二十分過ぎだ。」

「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう。」

神山は体をねじりながら、帯の金時計を覗いて見た。

「そうです。ちょうど十分過ぎ。」

「じゃやっぱり奥の時計が遅れているんだ。それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」

洋一はちょいとためらったのち大股おおまたに店さきへ出かけて行くと、もう薄日うすびもささなくなった、もの静な往来を眺めまわした。

「来そうもないな。まさかうちがわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕はちょいとそこいらへ行って見て来らあ。」

彼は肩越しに神山へ、こう言葉をかけながら、店員の誰かが脱ぎ捨てた板草履いたぞうりの上へ飛び下りた。そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。

大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。そこのかどにある店蔵みせぐらが、半分は小さな郵便局に、半分は唐物屋とうぶつやになっている。――その唐物屋の飾り窓には、麦藁帽むぎわらぼうとうの杖が奇抜な組合せを見せた間に、もう派手はでな海水着が人間のように突立っていた。

洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓をうしろたたずみながら、大通りを通る人や車に、苛立いらだたしい視線をくばり始めた。が、しばらくそうしていても、この問屋とんやばかり並んだ横町よこちょうには、人力車じんりきしゃ一台曲らなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空車あきぐるまの札を出した、泥にまみれているタクシイだった。

その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止めた。そうしてペダルに足をかけたまま、

「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。

「何か用だったかい?」

洋一はそう云う間でも、絶えずにぎやかな大通りへ眼をやる事を忘れなかった。

「用は別にないんだそうで、――」

「お前はそれを云いに来たの?」

「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」

「お父さんが?」

洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りもまばらな往来には、ちょうど今一台の人力車じんりきしゃが、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒かじぼうの先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。

「兄さん!」

車夫は体をうしろらせて、きわどく車の走りを止めた。車の上には慎太郎しんたろうが、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝にはさんだトランクを骨太な両手に抑えていた。

「やあ。」

兄はまゆ一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。

「お母さんはどうした?」

洋一は兄を見上ながら、体中からだじゅうの血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。

「この二三日悪くってね。――十二指腸の潰瘍かいようなんだそうだ。」

「そうか。そりゃ――」

慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情がひらめいていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。

「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」

車夫は慎太郎の合図あいずと一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今朝けさのぼりの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかにうつるような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目しにめに会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思いふけっている彼だった。しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……

「兄さん。試験はまだ始らなかった?」

慎太郎は体をななめにして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。

明日あすからだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」

「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」

洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟をいたわりたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。

「よっぽど待ったかい?」

「十分も待ったかしら?」

「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」

車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒かじぼうを店の前へおろした。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸ガラスどの立った店の前へ。

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