お律と子等と在线阅读

お律と子等と

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翌日あくるひの朝洋一よういちは父と茶のの食卓に向った。食卓の上には、昨夜ゆうべ泊った叔母おばの茶碗も伏せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませるあいだ、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。

親子ははしを動かしながら、時々短い口をいた。この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。しかし今日きょうはいつもよりは、一層二人とも口が重かった。給仕の美津みつも無言のまま、盆をさし出すばかりだった。

賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。それから隔てのふすまを明けると、隣の病室へはいって行った。

賢造は何か考えるように、ちょいと言葉を途切とぎらせたが、やがて美津に茶をつがせながら、

賢造はすぐに気を変えて云った。

洋一ももう茶を飲んでいた。この四月以来市場しじょうには、前代未聞ぜんだいみもんだと云う恐慌きょうこうが来ている。現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代払だいばらいの厄に遇った。そのほかまだ何だだといろいろな打撃を通算したら、少くとも三万円内外は損失をこうむっているのに相違ない。――そんな事も洋一は、小耳に挟んでいたのだった。

洋一は飯を代えながら、何とも返事をしなかった。やりたい文学もやらせずに、勉強ばかり強いるこの頃の父が、急に面憎つらにくくなったのだった。その上兄が大学生になると云う事は、弟が勉強すると云う事と、何も関係などはありはしない。――そうまた父の論理の矛盾むじゅん嘲笑あざわらう気もちもないではなかった。

洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶のを出て行った。おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口あっこうを聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。

洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対した。

洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。美津みつたもとくわえながら、食卓に布巾ふきんをかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、まつと云う年上の女中だった。松は濡れ手を下げたなり、銅壺どうこの見える台所の口に、たすきがけの姿を現していた。

母の声を聞くか聞かない内に、洋一はもう泣き出していた。が、兄は眼を伏せたまま、むっつりたたずんでいるだけだった。

母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。

店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村たむらと云う薬屋の息子だった。

兄はまた擬勢ぎせいを見せて、一足彼の方へ進もうとした。

今度は洋一も父の言葉に、答えない訳には行かなかった。

そんな事を話し合ったのち、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯子はしごあがって、例の通り二階の勉強部屋へ行った。が、机に向って見ても、受験の準備は云うまでもなく、小説を読む気さえ起らなかった。机の前には格子窓こうしまどがある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋おもちゃどんやの前に、半天着はんてんぎの男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙きぜわしそうな気がして不快だった。と云ってまた下へりて行くのも、やはり気が進まなかった。彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕にしながら、ごろりと畳に寝ころんでしまった。

それはまだ兄や彼が、小学校にいる時分だった。洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。が、時々さげすむようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。洋一はとうとうかっとなって、そこにあったトランプをつかむが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。トランプは兄の横顔にあたって、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬をった。

その騒ぎを聞いた母は、慌ててその座敷へはいって来た。

そう云う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。兄は彼に比べると、遥に体も大きかった。しかし彼は兄よりもがむしゃらな所に強味があった。二人はしばらくけもののように、なぐったり撲られたりし合っていた。

すると彼の心には、この春以来顔を見ない、彼には父が違っている、兄の事が浮んで来た。彼には父が違っている、――しかしそのために洋一は、一度でも兄に対するじょうが、世間普通の兄弟に変っていると思った事はなかった。いや、母が兄をつれて再縁したと云う事さえ、彼が知るようになったのは、割合に新しい事だった。ただ父が違っていると云えば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。――

こう云う会話も耳へはいった。今朝は食事前に彼が行って見ると、母は昨日きのう一昨日おとといよりも、ずっと熱が低くなっていた。口をくのもはきはきしていれば、寝返りをするのも楽そうだった。「おなかはまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――母自身もそう云っていた。その上あんなに食気しょっけまでついたようでは、今まで心配していたよりも、存外恢復かいふくは容易かも知れない。――洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。が、余り虫のい希望を抱き過ぎると、かえってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみたおそれも多少はあった。

「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」

「来るそうです。が、とにかく戸沢とざわさんが来たら、電話をかけてくれって云っていました。」

「慎太郎。お前は兄さんじゃないか? 弟を相手に喧嘩けんかなんぞして、何がお前は面白いんだえ?」

「嘘つき。兄さんがさきにったんだい。」

「僕は駄目だよ。お袋が病気なんだから――」

「何をするんです? お前たちは。」

「何。」

「今日は慎太郎しんたろうが帰って来るかな。」

「今日ね。一しょに明治座めいじざを覗かないか? 井上だよ。井上なら行くだろう?」

「ソップも牛乳もおさまった? そりゃ今日は大出来おおできだね。まあ精々せいぜい食べるようにならなくっちゃいけない。」

「やっぱりちっとはすったかしら。」

「どちらでございますか、――」

「どこだい?」

「ちっとやそっとでいてくれりゃいが、――何しろこう云う景気じゃ、いつ何時なんどきうちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」

「それとも明日あすの朝になるか?」

「そうか。そりゃ失敬した。だが残念だね。昨日ほりや何かは行って見たんだって。――」

「そうか。」

「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」

「しかし今は学校がちょうど、試験じゃないかと思うんですがね。」

「これで薬さえ通ると好いんですが、薬はすぐに吐いてしまうんでね。」

「お絹の所でも大変だろう。今度はあすこも買った方だから。」

「お前も勉強しなくっちゃいけないぜ。慎太郎はもうこの秋は、大学生になるんだから。」と云った。

「おきぬは今日は来ないのかい?」

若旦那様わかだんなさま、御電話でございます。」

生意気なまいきな事をするな。」

ずるをしたのも兄さんだい。」

賢造けんぞうは返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺めた。が、洋一は黙っていた。兄が今日帰るか帰らないか、――と云うより一体帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不確かでならないのだった。

「それだから喧嘩になるんじゃないか? 一体お前が年嵩としかさな癖に勘弁かんべんしてやらないのが悪いんです。」

母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。すると兄の眼の色が、急に無気味ぶきみなほど険しくなった。

「好いやい。」

兄はそう云うより早く、気違いのように母をとうとした。が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。――

母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記憶になかった。しかし兄の口惜くやしそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。兄はただ母に叱られたのが、癇癪かんしゃくさわっただけかも知れない。もう一歩臆測おくそくたくましくするのは、善くない事だと云う心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。しかもそう云う気がし出したのには、もう一つ別な記憶もある。――

三年まえの九月、兄が地方の高等学校へ、明日あす立とうと云う前日だった。洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座ぎんざまで出かけて行った。

「当分大時計おおどけいとも絶縁だな。」

兄は尾張町おわりちょうの角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。

「だから一高いちこうへはいりゃ好いのに。」

「一高へなんぞちっともはいりたくはない。」

「負惜しみばかり云っていらあ。田舎いなかへ行けば不便だぜ。アイスクリイムはなし、活動写真はなし、――」

洋一は顔を汗ばませながら、まだ冗談のような調子で話し続けた。

「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」

「そんな事は当り前だ。」

「じゃお母さんでも死んだら、どうする?」

歩道のはしを歩いていた兄は、彼の言葉に答える前に、手を伸ばして柳の葉をむしった。

「僕はお母さんが死んでも悲しくない。」

「嘘つき。」

洋一は少し昂奮こうふんして云った。

「悲しくなかったら、どうかしていらあ。」

「嘘じゃない。」

兄の声には意外なくらい、感情のこもった調子があった。

「お前はいつでも小説なんぞ読んでいるじゃないか? それなら、僕のような人間のある事も、すぐに理解出来そうなもんだ。――可笑おかしな奴だな。」

洋一は内心ぎょっとした。と同時にあの眼つきが、――母をとうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。が、そっと兄の容子ようすを見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。――

そんな事を考えると、兄がすぐに帰って来るかどうか、いよいよ怪しい心もちがする。殊に試験でも始まっていれば、二日や三日遅れる事は、何とも思っていないかも知れない。遅れてもとにかく帰って来ればいが、――彼の考がそこまで来た時、誰かの梯子はしごを上って来る音が、みしりみしり耳へはいり出した。洋一はすぐに飛び起きた。

すると梯子のあがぐちには、もう眼の悪い浅川の叔母おばが、前屈まえかがみの上半身を現わしていた。

「おや、昼寝かえ。」

洋一はそう云う叔母の言葉に、かすかな皮肉を感じながら、自分の座蒲団ざぶとんを向うへ直した。が、叔母はそれは敷かずに、机の側へ腰を据えると、さも大事件でも起ったように、小さな声で話し出した。

「私は少しお前に相談があるんだがね。」

洋一は胸がどきりとした。

「お母さんがどうかしたの?」

「いいえ、お母さんの事じゃないんだよ。実はあの看護婦だがね、ありゃお前、仕方がないよ。――」

叔母はそれからねちねちと、こんな話をし始めた。――昨日あの看護婦は、戸沢とざわさんが診察に来た時、わざわざ医者を茶の間へ呼んで、「先生、一体この患者かんじゃはいつ頃まで持つ御見込みなんでしょう? もし長く持つようでしたら、私はお暇を頂きたいんですが。」と云った。看護婦は勿論医者のほかには、誰もいないつもりに違いなかった。が、生憎あいにく台所にいた松がみんなそれを聞いてしまった。そうしてぷりぷりおこりながら、浅川の叔母に話して聞かせた。のみならず叔母が気をつけていると、そのも看護婦の所置ぶりには、不親切な所がいろいろある。現に今朝けさなぞも病人にはかまわず、一時間もお化粧けしょうにかかっていた。………

「いくら商売柄だって、それじゃお前、あんまりじゃないか。だから私の量見りょうけんじゃ、取り換えた方が好いだろうと思うのさ。」

「ええ、そりゃその方が好いでしょう。お父さんにそう云って、――」

洋一はあんな看護婦なぞに、母の死期しごを数えられたと思うと、腹が立って来るよりも、かえって気がふさいでならないのだった。

「それがさ。お父さんは今し方、工場こうばの方へ行ってしまったんだよ。私がまたどうしたんだか、話し忘れている内にさ。」

叔母はややもどかしそうに、ただれている眼を大きくした。

「私はどうせ取り換えるんなら、早い方が好いと思うんだがね、――」

「それじゃあ神山さんにそう云って、今すぐに看護婦会へ電話をかけて貰いましょうよ。――お父さんにゃ帰って来てから話しさえすれば好いんだから、――」

「そうだね。じゃそうして貰おうかね。」

洋一は叔母のさきに立って、勢い好く梯子を走り下りた。

「神山さん。ちょいと看護婦会へ電話をかけてくれ給え。」

彼の声を聞いた五六人の店員たちは、店先に散らばった商品の中から、驚いたような視線を洋一に集めた。と同時に神山は、派手はでなセルの前掛けに毛糸屑けいとくずをくっつけたまま、早速帳場机から飛び出して来た。

「看護婦会は何番でしたかな?」

「僕は君が知っていると思った。」

梯子の下に立った洋一は、神山と一しょに電話帳を見ながら、彼や叔母とは没交渉な、平日と変らない店の空気に、軽い反感のようなものを感じない訳には行かなかった。

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