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あの頃の自分の事

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十一月もそろそろ末にならうとしてゐる或晩、成瀬と二人で帝劇のフイル・ハアモニイ会を聞きに行つた。行つたら、向うで我々と同じく制服を着た久米に遇つた。その頃自分は、我々の中で一番音楽通だつた。と云ふのは自分が一番音楽通だつた程、それ程我々は音楽に縁が遠い人間だつたのである。が、その自分も無暗に音楽会を聞いて歩いただけで、鑑賞は元より、了解する事もすこぶる怪しかつた。まづ一番よくわかるものは、リストに止めをさしてゐた。何時か帝国ホテルで、あのペツツオルド夫人と云ふお婆さんが、リストの der heilige Antonius schreitend auf den Wellen(だと思ふ。ちがつたら御免なさい。)を弾いた時も、そのピアノの音の一つ一つは、寸刻も流動して止らない、しかも不思議にあざやかな画面を、ありありと眼の前へ浮ばせてくれた。その画面の中には、どこを見ても、際限なく波が動いてゐた。それからその波の上には、一足毎に波紋を作る人間の足が動いてゐた。最後にその波と足との上に、煌々くわうくわうたる光があつて、それが風の中の太陽のやうに、まばゆく空中で動いてゐた。この明い幻を息もつかずに眺めてゐた自分は、演奏が終つて拍手の声が起つた時に、音楽の波動が消えてしまつた、空虚な周囲の寂しさがしみじみ情なく感じられた。が、こんな事は前にも云つた通り、リストが精々行きどまりで、ベエトオフエンなどと云ふ代物は、好いと思へば好いやうだし、悪いと思へば悪いやうだし、更に見当がつかなかつた。だからフイル・ハアモニイ会を聞くと云つても、一向芸術家らしくない、怪しげな耳をそば立てて、楽器の森から吹いて来るオオケストラの風の音を、漫然と聞いてゐたのである。

当夜は閑院宮殿下も御臨場になつたので、帝劇のボックスや我々のゐるオオケストラ・ストオルには、模様を着た奥さんや御嬢さんが大分方々に並んでゐた。現に自分の隣なぞにも、白粉おしろいをつけた骨と皮ばかりの老夫人が、金の指環をはめて金の時計の鎖を下げて、金の帯留の金物をして、その上にもまだあきたらず、歯にも一面に金を入れて、(これは欠伸あくびをした時に見えたのである。)端然として控へてゐた。が、前に歌舞伎座の立見をした時とは異なつて、今夜は見物の紳士淑女より、シオパンやシユウベルトの方が面白かつたから、それ以上自分はこの白粉と金とに埋つてゐる老夫人に、注意を払はなかつた。もつとも彼女自身は、自分に輪をかけた、デイスイリユウジヨンそれ自身のやうな豪傑だつたと見えて、舞台の上で指揮杖バトンを振つてゐる山田耕作氏には目もくれず、しきりに周囲ばかりを見廻してゐた。

その中に山田夫人の独唱か何かで、途中の休憩時間になると、我々は三人揃つて、二階の喫煙室へ出かけて行つた。するとそこの入口に、黒い背広の下へ赤いチヨツキを着た、背の低い人が佇んで、袴羽織の連れと一しよに金口の煙草を吸つてゐた。久米はその人の姿を見ると、我々の耳へ口をつけるやうにして、「谷崎潤一郎だぜ」と教へてくれた。自分と成瀬とはその人の前を通りながら、この有名な耽美主義の作家の顔を、ぬすむやうにそつと見た。それは動物的な口と、精神的な眼とが、互にを張り合つてゐるやうな、特色のある顔だつた。我々は喫煙室の長椅子に腰を下して、一箱の敷島を吸ひ合ひながら、谷崎潤一郎論を少しやつた。当時谷崎氏は、在来氏が開拓して来た、妖気靉靆えうきあいたいたる耽美主義の畠に、「お艶殺し」の如き、「神童」の如き、或は又「お才と巳之助」の如き、文字通り底気味の悪いFleurs du Mal を育ててゐた。が、その斑猫はんめうのやうな色をした、美しい悪の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと、同じ荘厳な腐敗の香を放ちながら、或一点では彼等のそれと、全くおもむきが違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐る可き冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道徳を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも恋愛を捨てなければならなかつた。が、彼等はデカダンスの古沼に身を沈めながら、それでもなほこの仕末に了へない心と――une vieille gabare sans mâts sur une mer monstrueuse et sans bords の心と睨み合つてゐなければならなかつた。だから彼等の耽美主義は、この心におびやかされた彼等の魂のどん底から、やむを得ずとび立つた蛾の一群ひとむれだつた。従つて彼等の作品には、常に Ah ! Seigneur, donnezmoi la force et le courage/ De contempler mon coeur et mon corps sans dégoût ! と云ふせつぱつまつた嘆声が、瘴気しやうきの如く纏綿てんめんしてゐた。我々が彼等の耽美主義から、厳粛な感激を浴びせられるのは、実にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、余りに享楽的な余裕があり過ぎた。氏は罪悪の夜光虫が明滅する海の上を、まるでエル・ドラドでも探して行くやうな意気込みで、悠々と船を進めて行つた。その点が氏は我々に、氏のむしろ軽蔑するゴオテイエを髣髴はうふつさせる所以ゆゑんだつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帯びてゐても、云はば活力に満ちた病的傾向だつた。更に洒落しやれて形容すれば、宝石の重みを苦にしてゐる、肥満したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが欠けてゐた。が、その代りに感覚的な美を叙述する事にかけては、滾々こんこんとして百里の波をひるがへす河のやうな、驚く可き雄弁を備へてゐた。(最近広津和郎氏が谷崎氏を評して、余り健康なのをうらみとすると云つたのは、この活力に満ちた病的傾向を指摘したものだらうと思ふ。が、如何に活力に溢れてゐても、脂肪過多症の患者が存在し得る限り、やはり氏のそれは病的傾向に相違ない。)さうして此の耽美主義にあきたらなかつた我々も、流石さすがにその非凡な力を認めない訳に行かなかつたのは、この滔々たうたうたる氏の雄弁である。氏はありとあらゆる日本語や漢語をさらひ出して、ありとあらゆる感覚的な美を(或は醜を)、「刺青」以後の氏の作品に螺鈿らでんの如くちりばめて行つた。しかもその氏の Les Emaux et Camées は、朗々たるリズムの糸で始から終まで、見事にずつと貫かれてゐた。自分は今日でも猶、氏の作品を読む機会があると、一字一句の意味よりも、むしろその流れて尽きない文章のリズムから、半ば生理的な快感を感じる事が度々ある。ここに至るとその頃も、氏はやはり今の如く、比類ないことばの織物師だつた。たとひ氏は暗澹たる文壇の空に、「恐怖の星」はともさなかつたにしても、氏のつちかつた斑猫色はんめういろの花の下には、時ならない日本の魔女のサバトが開かれたのである。――

やがて又演奏の始まりを知らせる相図のベルと共に、我々は谷崎潤一郎論を切り上げて、下の我々の席へ帰つた。帰る途中で久米が、「一体君は音楽がわかるのかい」と云ふから、「隣の金と骨と皮と白粉とよりはわかりさうだ」と答へた。それから又その老夫人の隣へ腰を下して、シヨルツ氏のピアノを聞いた。たしか、シオパンのノクテユルヌとか何とか云ふものだつたと思ふ。シモンズと云ふ男は、子供の時にシオパンの葬式の行進曲を聞いて、ちやんとわかつたと広告して居るが、自分はシヨルツ氏の器用に動く指を眺めながら、年齢の差を勘定に入れないでも、この点ではシモンズに到底及ばないと観念した。そのあとは何があつたか、もう今は覚えてゐない。が、会が終つて外へ出たら、車寄のまはりに馬車や自働車が、通りぬけられない程沢山並んでゐた。さうしてその中の一つの自働車には、あの金と白粉との老夫人が毛皮に顔を埋めながら、乗らうとしてゐる所だつた。我々は外套の襟を立てて、その間をやつと風の寒い往来へ出た。ふと見ると、我々の前には、警視庁の殺風景な建物が、黒く空をいて聳えてゐた。自分は歩きながら、何だかそこに警視庁のある事が不安になつた。で、思はず「妙だな」と云つたら、成瀬が「何が?」と聞きとがめた。自分はいやとか何とか云つて、好い加減に返事を胡麻化した。その時はもう我々の左右を、馬車や自働車が盛んに通りすぎてゐた。

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