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あの頃の自分の事

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「一体大学の純文学科などと云ふものは、すこぶる怪しげな代物しろものだよ。ああやつて、国漢英仏独の文学科があるけれども、あれは皆何をやつてゐるんだと思ふ? 実は何をやつてゐるか、僕にもはつきりとはわからないんだ。成程研究してゐるものは、各国の文学に違ひなからう。さうしてその文学なるものは、まあ芸術の一部門とか何とか云へるにや違ひない。しかしその文学を研究する学問だね、あれは一体学問だらうか。(或は独立した学問だらうかと云つても好いが。)もし学問とすれば、――むづかしく云へば Wissenschaft として成立するのに必要な条件を具へるとすればだね。さうすれば美学と同じものになつちまふぢやないか。いや、美学ばかりぢやない。文学史なんぞは、始から史学と同じものだらうと思ふんだ。そりや成程今純文学科でやつてゐる講義にや、美学や史学と縁のないものだつて、沢山ある。が、その沢山あるものは、義理にも学問だとは思はれないぢやないか。あれはまあよく云へば先生の感想を述べたもので、悪く云へば出たらめだからね。だから僕は大学の純文学科なんぞは、廃止しちまつた方がほんたうだと思ふんだ。文学概論や何かは美学と一しよにする。文学史は史学へ片づけてしまふ。さうしてあとに残つた講義は、要するに出たらめだから、大学外へ駆逐しちまふんだ。出たらめだからと云つて悪るければ、余りに高尚で、大学のやうな学問の研究を目的にする所には、不釣合だと云つても好い。これは確に目下の急務だよ。さもないと同じ出たらめでも、新聞や雑誌へ出た評論より、大学でやる講義の方が、上等のやうな誤解を天下に与へ易いからね。それも実は新聞や雑誌へ出る方は、世間を相手にしてゐるんだが、大学でやる方は学生だけを相手にしてゐるんだから、それだけ馬脚があらはれずにすんでゐるんだらう。その安全なる出たらめが、一層箔をつけてゐるのは、どう考へたつて不公平だ。実際僕なんぞは無責任に、図書館の本を読まう位な了見で、大学にはいつてゐるんだから好いが、真面目に研究心でも起したら、一体どうすれば文学の研究になるんだか、途方にくれちまふのに違ひない。それや市河三喜さんのやうに言語学的に英文学を研究するんなら、立派に徹底してゐると思ふんだ。けれどもさうすると、シエクスピイアだらうが、ミルトンだらうが、詩でも芝居でもなくなつて、唯の英語の行列だからね。それぢや僕はやる気もないし、やつたつて到底ものにはなりさうもないだらう。勿論出たらめで満足してゐりや好いが、それなら御苦労にも大学へはいらずともの事だ。又美学なり史学なりの立ち場から、研究しようと云ふんなら、外の科へ籍を置いた方がどの位気が利いてゐるかわからない。かう考へて来ると、純文学科のレエゾン・デエトルは、まあ精々便宜的位な所だね。が、いくら便宜でも、有害の方が多くつちや、勿論ないのに劣つてゐると云ふもんだ。劣つてゐる以上は、廃止した方が正当だよ。――何、あれは中学の教師を養成する為に必要だ? 僕は皮肉を云つてゐるんぢやない。これでも大真面目な議論なんだ。中学の教師を養成するんなら、ちやんと高等師範と云ふものがある。高等師範を廃止しろなんと云ふのは、それこそ冠履顛倒くわんりてんたうだ。その理窟で行つても廃止さるべきものは大学の純文学科の方で、高等師範は一日も早くあれを合併してしまふが好い。」

その頃の或日、古本屋ばかり並んでゐる神田通りを歩きながら、自分は成瀬をつかまへて、こんな議論をふつかけた事がある。

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