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弐拾弐にじゅうに

 西洋の子供の読む本に、くぎ一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話では、青魚さば未醤煮みそにが丁度釘一本と同じ効果をなすのである。

僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」にうえしのいでいるうちに、身の毛の弥立よだつ程厭な菜が出来た。どんな風通しのい座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たびその菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気をぐ。煮肴にざかな羊栖菜ひじき相良麩さがらぶが附けてあると、もうそろそろこの嗅覚きゅうかくhallucinationアリュシナション が起り掛かる。そしてそれが青魚の未醤煮に至って窮極の程度に達する。

福地のやしきの板塀のはずれから、北へ二三軒目の小家こいえに、ついこの頃「川魚」と云う看板を掛けたのがある。僕はそれを見て云った。「この看板を見ると、なんだか不忍の池の肴を食わせそうに見えるなあ」

石原は黙って池の方を指ざした。岡田も僕も、灰色に濁ったゆうべの空気を透かして、指ざす方角を見た。その頃は根津に通ずる小溝こみぞから、今三人の立っているみぎわまで、一面にあしが茂っていた。その葦の枯葉が池の中心に向って次第にまばらになって、只枯蓮かれはす襤褸ぼろのような葉、海綿のようなぼう碁布きふせられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角にそびえて、景物に荒涼な趣を添えている。この bitumeビチュウム 色の茎の間を縫って、黒ずんだ上に鈍い反射を見せている水のおもてを、十羽ばかりのがんが緩やかに往来している。中には停止して動かぬのもある。

石原は笑った。「そう物のあわれを知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる」

然るにその青魚の未醤煮が或日あるひ上条の晩飯の膳にのぼった。いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇ちゅうちょしているので、女中が僕の顔を見て云った。

無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、いるぜ」と云って、ひじで岡田を衝いた。

岡田は不精らしく石を拾った。「そんなら僕が逃がして遣る」つぶてはひゅうと云うかすかな響をさせて飛んだ。僕がその行方をじっと見ていると、一羽の雁がもたげていたくびをぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かずにもとの所にいる。

岡田は躊躇ちゅうちょした。「あれはもうるのだろう。石を投げ附けるのは可哀そうだ」

岡田は俯向うつむき加減になって、早めた足のはこびを緩めずに坂を降りる。僕も黙って附いて降りる。僕の胸のうちでは種々の感情が戦っていた。この感情には自分を岡田の地位に置きたいと云うことが根調をなしている。しかし僕の意識はそれを認識することを嫌っている。僕は心の内で、「なに、おれがそんな卑劣な男なものか」と叫んで、それを打ち消そうとしている。そしてこの抑制が功を奏せぬのを、僕は憤っている。自分を岡田の地位に置きたいと云うのは、彼女かのおんなの誘惑に身を任せたいと思うのではない。只岡田のように、あんな美しい女に慕われたら、さぞ愉快だろうと思うに過ぎない。そんなら慕われてどうするか、僕はそこに意志の自由を保留して置きたい。僕は岡田のように逃げはしない。僕は逢って話をする。自分の清潔な身は汚さぬが、逢って話だけはする。そして彼女を妹の如くに愛する。彼女の力になって遣る。彼女を淤泥おでいうちから救抜する。僕の想像はこんな取留のない処に帰着してしまった。

家の前にはお玉が立っていた。お玉はやつれていても美しい女であった。しかし若い健康な美人の常として、粧映つくりばえもした。僕の目には、いつも見た時と、どこがどう変っているか、わからなかったが、とにかくいつもとまるで違った美しさであった。女の顔が照り赫いているようなので、僕は一種の羞明まぶしさを感じた。

坂下の四辻よつつじまで岡田と僕とは黙って歩いた。真っ直に巡査派出所の前を通り過ぎる時、僕はようよう物を言うことが出来た。「おい。すごい状況になっているじゃないか」

僕は釘に掛けてあった帽を取って被って、岡田と一しょに上条を出た。午後四時過であったかと思う。どこへ往こうと云う相談もせずに上条の格子戸を出たのだが、二人は門口から右へ曲った。

僕は第三者に有勝ありがちな無遠慮を以て、度々背後うしろを振り向いて見たが、お玉の注視はすこぶる長く継続せられていた。

僕は岡田に言った。「そんなら二人で池を一周して来ようか」

僕は別に思慮もなく、弁駁べんばくらしい事を言った。「そりゃあ政治家になると、どんなにしていたって、難癖を附けられるさ」恐らくは福地さんと末造との距離を、なるたけ大きく考えたかったのであろう。

僕が立ってはかま穿き掛けたので、女中は膳を持って廊下へ出た。僕は隣の部屋へ声を掛けた。

こんな話をして、池の北の方へ往く小橋を渡った。すると、岸の上に立って何か見ている学生らしい青年がいた。それが二人の近づくのを見て、「やあ」と声を掛けた。柔術に凝っていて、学科の外の本は一切読まぬと云うたちだから、岡田も僕も親しくはせぬが、そうかと云って嫌ってもいぬ石原と云う男である。

こう云っているうちに、池のふちに出たので、二人共ちょいと足を停めた。

お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽を取って礼をして、無意識に足のはこびを早めた。

「馬鹿を言え」

「面白いな」と、岡田が云った。「しかし三十分立つまでどうしているのかい」

「遣って見給え」

「行こう。丁度君に話したい事もあるのだ」

「用ではないがね、散歩に出て、帰りに豊国屋へでも往こうかと思うのだ。一しょに来ないか」

「待て」と僕は云った。「実はまだ腹も透いていないから、散歩をしてよう。お上さんにはなんとでも云って置いてくれ。菜が気に入らなかったなんて云うなよ。余計な心配をさせなくてもいから」

「届くことは届くが、あたるか中らぬかが疑問だ」と、岡田は答えた。

「妙な対照のようだが、桜痴居士も余り廉潔じゃないと云うじゃないか」と、岡田が云った。

「先ず今は時が悪い。もう三十分立つと暗くなる。暗くさえなれば、僕がわけなく取って見せる。君達は手を出してくれなくても好いが、その時居合せて、僕の頼むことを聴いてくれ給え。雁は御馳走するから」と、石原は云った。

「僕もそう思った。しかしまさか梁山泊りょうざんぱくの豪傑が店を出したと云うわけでもあるまい」

「僕はこのへんをぶらついている。君達はどこへでも往って来給え。三人ここにいると目立つから」

「何がも何も無いじゃないか。君だってさっきからあの女の事を思って歩いていたに違ない。僕は度々振り返って見たが、あの女はいつまでも君の後影を見ていた。おおかたまだこっちの方角を見て立っているだろう。あの左伝の、目迎えてしこうしてこれを送ると云う文句だねえ。あれをあべこべに女の方で遣っているのだ」

「何が」と口には云ったが、岡田は僕の詞の意味を解していたので、左側の格子戸のある家を見た。

「中った」と、石原が云った。そしてしばらく池のおもてを見ていて、詞を継いだ。「あの雁は僕が取って来るから、その時は君達も少し手伝ってくれ給え」

「まあ。お上さんが存じませんもんですから。なんなら玉子でも持ってまいりましょうか」こう云って立ちそうにした。

「どうして取る」と、岡田が問うた。僕も覚えず耳をそばだてた。

「それでもなんだかお気の毒様で」

「その話はもうよしてくれ給え。君にだけは顛末てんまつを打ち明けて話してあるのだから、この上僕をいじめなくても好いじゃないか」

「さあ青魚は嫌じゃない。焼いたのなら随分食うが、未醤煮は閉口だ」

「こんな所に立って何を見ていたのだ」と、僕が問うた。

「おい。岡田君いるか」

「ええ。何が」

「うん」と云って、僕は左へ池に沿うて曲った。そして十歩ばかりも歩いた時、僕は左手に並んでいる二階造の家を見て、「ここが桜痴おうち先生と末造君との第宅ていたくだ」と独語ひとりごとのように云った。

「いる。何か用かい」岡田ははっきりした声で答えた。

「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云った。

「あなた青魚がおきらい

「あっちを廻ろうか」と、岡田が池の北の方を指ざした。

「好かろう」と云って岡田はすぐに歩き出した。

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