拾弐
或る晩末造が無縁坂から帰って見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分だけ起きていた。いつも子供が寝ると、自分も一しょに横になっているのが、その晩は据わって俯向加減になっていて、末造が蚊屋の中に這入って来たのを知っていながら、振り向いても見ない。
末造の床は一番奥の壁際に、少し離して取ってある。その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。末造は座布団の上に据わって、烟草を吸い附けながら、優しい声で云った。
末造も再び譲歩しようとはしない。こっちから媾和を持ち出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思って、わざと平気で烟草を呑んでいる。
末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。何等かの知識を女房が得たらしいとは認めても、その知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云うことが出来ない。末造は妄りに語って、相手に材料を供給するような男ではない。
末造は折々烟草を呑んで烟を吹きながら、矢張女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。「それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、好く内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金を掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだ己の方の勘定が二年や三年じゃあ埒が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲りの店を借りて入れてあったのだ。最初は月々極まって為送りをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなけりゃ、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合ってくれろと云って己に頼んだのだ。どうして己を知っているかと思うだろうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云って、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知っていたのだ。己も随分迷惑な話だが、序だから掛け合って遣ったよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつっこく頼む。己は飛んだ奴に引っ掛かったと思って持て扱っているのだ。お負に小綺麗な所で店賃の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云うので、切通しの質屋の隠居のいた跡へ、面倒を見て越させて遣った。それやこれやで、こないだからちょいちょい寄って、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴がかれこれ言やあがるのだろう。隣は女の子を集めて、為立物の師匠をしていると云うのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲って置く馬鹿があるものか」こんな事を言って、末造はさげすんだように笑った。
末の子が寝返りをして、何か夢中で言ったので、お上さんも覚えず声を低うして、「一体わたしどうすれば好いのでしょう」と云って、今度は末造の胸の所に顔を押し附けて、しくしく泣いている。
お上さんは黙っている。
お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしそうに笑った。「魚金のお上さんだと、そう云っているじゃありませんか」
お上さんは小さい目を赫かして、熱心に聞いていたが、この時甘えたような調子でこう云った。「それはお前さんの云う通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものじゃありゃしない。どうせお金で自由になるような女だもの」お上さんはいつか「あなた」を忘れている。
お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり檀那顔をして、女房には着物一つ拵えてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、好い気になって妾狂いをするなんて」
お上さんの頭は霧が掛かったように、ぼうっとしているが、もしや騙されるのではあるまいかと云う猜疑だけは醒めている。それでも熱心に末造の顔を見て謹聴している。今社会の制裁と云うことを言われた時もそうであるが、いつでも末造が新聞で読んだ、むずかしい詞を使って何か言うと、お上さんは気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまうのである。
「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、外の女に手を出すような人間かい。これまでだって、女をどうしたと云うことが、只の一度でもあったかい。もうお互に焼餅喧嘩をする年でもあるめえ。好い加減にしろ」末造は存外容易に弁解が功を奏したと思って、心中に凱歌を歌っている。
「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加わって来る。
「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかそう云え」
「廃せと云えば」末造は再び女房の手を振り放した。「子供が目を覚すじゃないか。それに女中部屋にも聞える」翳めた声に力を入れて云ったのである。
「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」さも意外な事に遭遇したと云うような調子で、声はいたわるように優しい。
「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」
「もう何もかも分かっています」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かっている。
「へん。あが仏尊しと云う奴だ」
「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」夫の落ち着いているのが、却って強い刺戟のように利くので、上さんは声が切れ切れになって、湧いて来る涙を襦袢の袖でふいている。
「なにまるで狸が物を言うようで、分かりゃあしない。むにゃむにゃのむにゃむにゃさんなのとはなんだい」
「どう云うわけなの」
「どうするにも及ばないのだ。お前が人が好いもんだから、人に焚き附けられたのだ。妾だの、囲物だのって、誰がそんな事を言ったのだい」こう云いながら、末造はこわれた丸髷のぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるものだろうと、気楽な問題を考えた。そして丸髷の震動が次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたように水落の辺に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」と繰り返した。
「どうしたのだ。まだ寐ないでいるね」
「だってお前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしゃあ心配さ」
「それは言ったってかまいませんとも。魚金のお上さんなの」
「うん。あいつか。おお方そんな事だろうと思った」末造は優しい目をして、女房の逆上したような顔を見ながら、徐かに金天狗に火を附けた。「新聞屋なんかが好く社会の制裁だのなんのと云うが、己はその社会の制裁と云う奴を見た事がねえ。どうかしたら、あの金棒引なんかが、その制裁と云う奴かも知れねえ。近所中のおせっかいをしやがる。あんな奴の言う事を真に受けてたまるものか。己が今本当の事を云って聞して遣るから、好く聞いていろ」
「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」鼻の低い赤ら顔が、涙で煠でたようになったのに、こわれた丸髷の鬢の毛が一握へばり附いている。潤んだ細い目を、無理に大きく睜って、末造の顔を見ていたが、ずっと傍へいざり寄って、金天狗の燃えさしを撮んでいた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。
「あなた今までどこにいたんです」お上さんは突然頭を持ち上げて、末造を見た。奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。ようよう「あなた」だけが維持せられている。
「廃せ」と云って、末造はその手を振り放して、畳の上に散った烟草の燃えさしを揉み消した。
「己のような男を好いてくれるのは、お前ばかりだと云うことよ。なんだ。もう一時を過ぎている。寝よう寝よう」