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はち

 話が極まって、お玉は無縁坂へ越して来ることになった。

ところが、末造がひどく簡単に考えていた、この引越ひきこしにも多少の面倒が附き纏った。それはお玉が父親をなるたけ近い所に置いて、ちょいちょい尋ねて行って、気を附けて上げるようにしたいと云い出したからである。最初からお玉は、自分が貰う給金の大部分を割いて親に送って、もう六十を越している親に不自由のないように、小女こおんなの一人位附けて置こうと考えていた。そうするには、今まで住まった鳥越の車屋と隣合せになっている、見苦しい家に親を置かなくてもい。同じ事なら、もっと近い所へ越させたいと云うことになった。丁度見合いに娘ばかり呼ぶ筈の所へ、親爺が来るようになったと同じわけで、末造は妾宅しょうたくの支度をしてお玉を迎えさえすれば好いと思っていたのに、実際は親子二人の引越をさせなくてはならぬ事になったのである。

食事をしまって、窓から外を見ていると、空は曇っていても、雨の降りそうな様子もなく、かえって晴れた日よりは暑くなくて好さそうなので、気を晴そうと思って、外へ出た。それでもし留守にお玉が来はすまいかと気遣って、我家の門口かどぐちを折々振り返って見つつ、池のそばを歩いている。そのうち茅町かやちょう七軒町しちけんちょうとの間から、無縁坂の方へ行く筋に、小さい橋の掛っているところに来た。ちょっと娘の内へ行って見ようかと思ったが、なんだか改まったような気がして、我ながら不思議な遠慮がある。これが女親であったら、こんな隔てはどんな場合にも出来まいのに、不思議だ、不思議だと思いながら、橋を渡らずに、矢張池の傍を歩いている。ふと心附くと、丁度末造の家がどぶの向うにある。これは口入くちいれの婆あさんが、こん度越して来た家の窓から、指さしをして教えてくれたのである。見れば、なる程立派なかまえで、高い土塀の外廻に、殺竹そぎだけななめに打ち附けてある。福地さんと云う、えらい学者の家だと聞いた、隣の方は、広いことは広いが、建物も古く、こっちの家に比べると、けばけばしい所といかめしげな所とがない。暫く立ち留まって、昼も厳重に締め切ってある、白木造の裏門の扉を見ていたが、あの内へ這入って見たいと思う心は起らなかった。しかし何をどう思うでもなく、一種のはかない、寂しい感じに襲われて、暫く茫然ぼうぜんとしていた。詞にあらわして言ったら、落ちぶれて娘をめかけに出した親の感じとでも云うより外あるまい。

末造は一夜も泊って行かない。しかし毎晩のように来る。例の婆あさんが世話をして、梅と云う、十三になる小女を一人置いて、台所で子供の飯事ままごとのような真似をさせているだけなので、お玉は次第に話相手のない退屈を感じて、夕方になれば、早く檀那が来てくれればいと待つ心になって、それに気が附いて、自分で自分を笑うのである。鳥越にいた時も、お父っさんが商売に出た跡で、お玉は留守に独りで、内職をしていたが、もうこれだけ為上しあげれば幾らになる、そうしたらお父っさんが帰って驚くだろうと励んでいたので、近所の娘達と親しくしないお玉も、退屈だと思ったことはなかったのである。それが生活の上の苦労がなくなると同時に、始て退屈と云うことを知った。

最初一日二日の間、爺いさんは綺麗きれいな家に這入った嬉しさに、田舎出の女中には、水汲みずくみ飯炊めしたきだけさせて、自分で片附けたり、掃除をしたりして、ちょいちょい足らぬ物のあるのを思い出しては、女中を仲町へ走らせて、買って来させた。それから夕方になると、女中が台所でことこと音をさせているのを聞きながら、肘掛窓ひじかけまどの外の高野槙こうやまきの植えてある所に打水をして、煙草をみながら、上野の山でからすが騒ぎ出して、中島の弁天の森や、はすの花の咲いた池の上に、次第に夕靄ゆうもやが漂って来るのを見ていた。爺いさんは難有ありがたい、結構だとは思っていた。しかしその時から、なんだか物足らぬような心持がし始めた。それは赤子の時から、自分一人の手で育てて、殆ど物を言わなくても、互に意志を通じ得られるようになっていたお玉、何事につけても優しくしてくれたお玉、外から帰って来れば待っていてくれたお玉がいぬからである。窓に据わっていて、池の景色を見る。往来の人を見る。今跳ねたのは大きな鯉であった。今通った西洋婦人の帽子には、鳥が一羽丸で附けてあった。その度毎に、「お玉あれを見い」と云いたい。それがいないのが物足らぬのである。

両方の引越騒ぎが片附いたのは、七月の中頃でもあったか。ういういしい詞遣や立居振舞が、ひどく気に入ったと見えて、金貸業の方で、あらゆる峻烈しゅんれつな性分を働かせている末造が、お玉に対しては、柔和な手段の限を尽して、毎晩のように無縁坂へ通って来て、お玉の機嫌を取っていた。ここにはちょっと歴史家の好く云う、英雄の半面と云ったような趣がある。

三日四日となった頃には、次第に気が苛々して来て、女中の傍へ来て何かするのが気に障る。もう何十年か奉公人を使ったことがないのに、原来がんらい優しい性分だから、小言は言わない。只女中のする事が一々自分の意志に合わぬので、不平でならない。起居たちいのおとなしい、何をしても物にやわらかに当るお玉と比べて見られるのだから、田舎から出たばかりの女中こそい迷惑である。とうとう四日目の朝飯の給事きゅうじをさせている時、汁椀の中へ栂指おやゆびを突っ込んだのを見て、「もう給仕はしなくても好いから、あっちへ行っていておくれ」と云ってしまった。

とうとう一週間立っても、まだ娘は来なかった。恋しい、恋しいと思う念が、内攻するように奥深く潜んで、あいつ楽な身の上になって、親の事を忘れたのではあるまいかと云ううたがいが頭をもたげて来る。この疑は仮に故意に起して見て、それをもてあそんでいるとでも云うべき、極めて淡いもので、疑いは疑いながら、どうも娘を憎く思われない。丁度人に対して物を言う時に用いる反語のように、いっそ娘が憎くなったら好かろうと、心の上辺で思って見るに過ぎない。

それでも爺いさんはこの頃になって、こんな事を思うことがある。内にばかりいると、いろんな事を思ってならないから、おれはこれから外へ出るが、跡へ娘が来て、己に逢われないのを残念がるだろう。残念がらないにしたところが、切角来たのが無駄になったとだけは思うに違いない。その位な事は思わせて遣ってもい。こんな事を思って出て行くようになったのである。

それでもお玉の退屈は、夕方になると、檀那が来て慰めてくれるから、まだ好い。可笑おかしいのは、池の端へ越した爺いさんの身の上で、これも渡世に追われていたのが、急に楽になり過ぎて、自分でもきつねつままれたようだと思っている。そして小さいランプのしたで、これまでお玉と世間話をして過した水入らずの晩が、過ぎ去った、美しい夢のように恋しくてならない。そしてお玉が尋ねて来そうなものだと、絶えずそればかり待っている。ところがもう大分だいぶ日が立ったのに、お玉は一度も来ない。

勿論もちろんお玉は親の引越は自分が勝手にさせるのだから、一切檀那に迷惑を掛けないようにしたいと云っている。しかし話をきかせられて見れば、末造もまるで知らぬ顔をしていることは出来ない。見合いをして一層気に入ったお玉に、例の気前を見せて遣りたい心持が手伝って、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、兼て末造が見て置いた、今一軒の池の端の家へ親爺も越すということになった。こう相談相手になって見れば、幾らお玉が自分の貰う給金の内で万事済ましたいと云ったと云って、見す見す苦しい事をするのを知らぬ顔は出来ず、何かにつけて物入がある。それを末造が平気で出すのに、世話を焼いている婆あさんの目をみはることが度々であった。

上野公園に行って、丁度日蔭ひかげになっている、ろは台を尋ねて腰を休めて、公園を通り抜ける、母衣ほろを掛けた人力車を見ながら、今頃留守へ娘が来て、まごまごしていはしないかと想像する。この時の感じは、好い気味だと思って見たいと云う、自分で自分をためして見るような感じである。この頃は夜も吹抜亭ふきぬきていへ、円朝の話や、駒之助こまのすけ義太夫ぎだゆうを聞きに行くことがある。寄席にいても、矢張娘が留守に来ているだろうかと云う想像をする。そうかと思うと又ふいと娘がこの中に来ていはせぬかと思って、銀杏返しにっている、若い女をり出すようにして見ることなどがある。一度なんぞは、中入なかいりが済んだ頃、その時代にまだ珍らしかった、パナマ帽を目深にかぶった、湯帷子掛ゆかたがけの男に連れられて、背後うしろの二階へ来て、手摩につかまって据わりしなに、下の客を見卸した、銀杏返しの女を、一刹那いっせつな[#「一刹那の」は底本では「一殺那の」]間お玉だと思った事がある。好く見れば、お玉よりは顔が円くて背が低い。それにパナマ帽の男は、その女ばかりではなく、背後うしろにまだ三人ばかりの島田やら桃割ももわれやらを連れていた。皆芸者やお酌であった。爺いさんのそばにいた書生が、「や、吾曹ごそう先生が来た」と云った。寄席がはねて帰る時に見ると、赤く「ふきぬき亭」とななめに書いた、大きい柄の長い提灯ちょうちんを一人の女が持って、芸者やお酌がぞろぞろ附いて、パナマ帽の男を送って行く。爺いさんは自分の内の前まで、この一行と跡になったり、先になったりして帰った。

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